2章-3
相生煌輝は、部活の先輩である大谷主将と一緒に自宅までの道のりを歩いていた。
そのとき煌輝は、向こう側から見覚えのある男の姿を目にした。彼は男とすれ違う時に、相手に分かるか分からないかぐらいの軽い会釈をした。
「あの男前だれ?」
大谷主将は煌輝に尋ねた。
「兄貴の昔の友達」
「昔?何言ってんだよ。山守高校野球部のスポーツバッグ下げてるじゃん。
兄貴の部活の仲間なんじゃねぇの?」
「まあ、そういえばそうだな」
大谷は煌輝のその言葉にため息を吐いた。
「まあ、昔何があったかは訊かねぇよ。でも、あの男みたな美青年だったら、スゲー女子にモテるだろな。うらやましいぜ」
「主将、どんだけモテたいんですか?口先の技量で今も女子にモテているのに、顔までよくなったら、オレたちの分まで女子を持って行ってしまいますよ」
「何言ってんだ、このイケメンが。お前が一番学校でモテてるくせに。フツメンの恨みを思い知れー!」
そういって大谷は煌輝のクビに腕をはさみこみ、プロレス技をかける真似をした。
「はははっ。勘弁してくださいよ~」
と煌輝は云い、二人は笑い合いながら相生家の前までやってきた。
「はへ~。すげえ家だな」
大谷のそんな一声に気づかない煌輝は、インターホンをならしてこういった。
「ただいま母さん」
しばらくすると、大谷の目の前に世にも美しい女神が、相生家の玄関の扉を開けて現れた。
「おかえり煌輝」
笑顔だった女神の顔は、大谷の姿を確認するやいなや怪訝な顔色に曇った。
「母さん、連絡していた部活の大谷主将。主将さ、今日は家族が親戚の法事で家に誰もいないんだよ。一人で夕飯なんてさみしいだろ?俺いつもお世話になっているからそのお礼に、ね?」
本当は大谷に絡まれてしぶしぶ家に連れてきたのだが、本人の手前それは言えなかった。
だがそれよりも、煌輝自身が友人を家に呼んだ事が無かったのもあり、いわゆる「お泊まり会」に憧れていた部分があるのだ。
「ねぇいいでしょ?」
煌輝は幼子のように母におねだりした。
しかし女神は警戒を解きそうにない。
大谷は思い切って、元気よく挨拶をした。
「ボク、バスケ部の主将の大谷純一と申します!」
ぺこりとお辞儀する予定だったが
“バァン!”
というものすごい音がして、大谷はその場にうずくまった。
どうやら彼は外の鉄格子に勢い余って、そのまま額をぶつけたらしい。
しばらくして
「いたたたぁ~」
と大谷が顔を上げると、その額には漫画のような大きなたんこぶが、プク~っと浮き上がっていた。
「大丈夫ですか主将!」
「うわっ。最悪だぁ!俺がダサイ男だってばれちまったぁ」
「大丈夫です。主将は基本ダサイです」
「そんなぁっ!」
コントのような二人のやり取りに、女神はクスクスと笑っていた。
「大谷君、手当をしてあげるわ。二人とも家に上がりなさい」
大谷は女神に見えない様に、煌輝に小さくガッツポーズを見せた。
「さすが主将ですね」
煌輝は半分あきれながら、二人して笑い合った。
家に上がった大谷は、相生宅の様子に目を丸くした。
大きなリビングにはふかふかの大型ソファーが置かれてあり、壁には大型の薄型テレビが掛けてある。ソファーの所に置かれた机は高級ブランドのものだろう。見た事もないようなお洒落なものだった。暖炉も大理石で出来ており、大きな棚の中には年代物のブランデーや、見事なボトルシップが飾られていた。
大谷が相生家の家具の豪勢さにぼーっとしていると、後ろから女神が
「ソファーに座りなさい」
と彼を促した。
女神の手にはアイスノンと救急箱があり、彼女はソファーに座った大谷のたんこぶを、丁寧に手当した。
(間近で見ても女神は女神だ。俺の幅広い肝っ玉かあちゃんとは違うな。同じ母親なのに、なんでだろ。種族が違うのかな)
大谷は手当を受けている間、密かにそんな事を思ってしまった。
手当が終わった大谷は、女神に台所へと案合いされた。
そこの食卓には、家庭料理とは思えない、見事なご馳走が並んでいた。
「俺は夢を見ているのか・・・」
そうつぶやく大谷に、煌輝は声をかけた。
「主将。こっちに座って。母さんのミートローフ凄く美味しいんだ」
「お前の家は宮殿かなにかか?」
大谷は食卓に案内された席に座りながら、煌輝につっこんだ。
「何がですか?」
そんな煌輝に大谷は毒づいた。
「うぅ~っ。王子様めっ」
その二人の会話の最中、女神こと相生麗香は、人数分のご飯とスープを器に盛りつけて夕食の準備は整った。
「じゃいただきましょう」
「「いただきます」」
大谷は煌輝が進めたミートローフを口に入れた。
彼は目を輝かせ、必死に口をもぐもぐさせた。それを飲み込んだ後こういった。
「うまい、じゃなかった。美味しいです!」
「だろ。」
自慢そうにいう煌輝に大谷は
「このシアワセ者め~」
と煌輝のほっぺたを指でウリウリと指してきた。
「やめてくださいよ~」
煌輝はそういいながら、大谷と笑い合っていた。
麗香はそんな二人を見て微笑ましく思った。
本当はこういう家庭を築きたかったのかもしれないと。
もしかしたら、煌輝の隣で笑っていたのは七瀬だったのだろうとも思ってしまった。
しかしあの事件が起きて以来、もともと笑う事が少なかった七瀬は、まったく笑わなくなってしまった。
でもそうなった理由を、麗香はよく知っていた。
その一番の原因が、自分が七瀬の事を愛してないからこそであった。
「何で愛せないのかしら・・・」
麗香はぽつりとつぶやいた。
それを聞いた煌輝と大谷は、麗香の方へ顔を向けた。
「なんでもないわ」
麗香は少し悲しそうな笑みを浮かべながら、そう云った。
食事を終え、麗香が食器を片付けていると
「オレ、片付け手伝います。ご飯をごちそうになったお礼です」
と、大谷は手慣れたように食器を片付けた。
「あら。慣れてるわね」
「そうなんです。家は兄弟多くて、両親も共働きなもんで、家事や兄弟の世話は出来る兄弟皆で分担しているんです」
「大谷君えらいわね」
「へへ。家事で褒められるの、家ではあまりないので嬉しいです。もしおばさんがよかったら、食器洗いもしますよ」
「あらいいの?」
「ええ。その代りミートローフの作り方を教えてください。美味しかったので、兄弟たちに食べさせてあげたいんです」
「分かったわ。後でレシピを教えてあげる。今日は夜も遅いし、大谷君がよければ泊まってらっしゃい」
麗香はそういうと、お風呂を入れに台所を出て行った。
「ありがとうございます!」
大谷はそういうとリビングにいる煌輝と目を合わせ、ガッツポースをした。
「さすが主将。コミュニケーション能力ハンパないですね」
煌輝はここに連れてきたのが大谷で良かったと、つくづく思った。
そのあと食器を洗い終えた大谷は、リビングで麗香にミートローフのレシピを教えてもらい、それをメモしていた。その隣に煌輝も座る。兄弟のために一生懸命レシピをメモを取る大谷の横顔を見ながら、煌輝はぼんやりと昔の事を思い出していた。
兄も昔、煌輝に山で拾ったいろいろな物を見せてくれていた。
今思えば石や木の実など、何の価値もない物だったが、幼い煌輝は兄が持って帰るお土産が楽しみであった。
その中には今、父の会社が作っている「新エネルギー」の原料もあった。
だがあの日以来、煌輝は兄を避けていった。
そうしていくうちに、煌輝は大好きだった兄を疎ましく思う様になった。
「おばさん、大丈夫ですか!」
そういう大谷の声に、煌輝はふと我に返った。
そこには青ざめた顔色をした母、麗香が具合が悪そうに下を俯いていた。
「近頃具合が良くないの。大谷君には悪いけど、私は先に寝室に行って休むわ」
ふらりと立ち上がりながら、麗香は寝室まで歩いて行こうとした。
「母さん。俺に捕まって」
煌輝は麗香の隣まで行き、母を支えながら寝室に向かった。
「主将、俺が帰ってくるまで適当にくつろいでください」
「おう分かった。おばさんもゆっくり休んでください」
一人残った大谷は、ミートローフの作り方のメモを整理しようとした時だった。
ガッチャ
という玄関が開く音とともに
「ただいま」
という若い男の声が聞こえてきた。
(真打ち登場だ!相生七瀬。現人神のようにカリスマがある一方、スケープゴートの扱いを受ける男。オレはコイツのプライベートを覗くために、この相生家へ来たんだ)
意を決した大谷は声の主を間近で見た。
玄関から台所に姿を現した七瀬の容貌は、理想を全て備えた人知を超えた美貌だった。現人神の器量は噂以上だ。
しかし
(怖い…!)
と、大谷はは七瀬の美貌におじけついた。
その完璧すぎる器量が何故か大谷に恐怖を与えた。
(怖がっていちゃ始まんねぇだろ。同じ人間だ。とっかかりはあるはずだ)
本来の目的を果たすべく、野次馬根性に火をつけて、大谷は七瀬に声をかけた。
「こんばんわ。オレ、煌輝君の部活の先輩の、大谷って言います。今晩、泊まらせていただく事になったので、宜しくお願いします」
「そう。煌輝と母さんの姿が見えないけど、知らない?」
「おばさんの具合が悪くなって、煌輝君が支えながら寝室に行きました」
「そうなんだ」
七瀬は鞄をおろし、冷蔵庫を開けた。
(…なんかこの人、反応薄くねぇか?)
大谷はそう思い、首をかしげた。
そして七瀬にこう質問した。
「あの…おばさんの所に、行かないのですか?」
「母さんの具合が悪いなら、なおさら僕が行かない方が懸命だ」
七瀬はそう大谷に答えながら、冷蔵庫にあった牛乳を取り出し、コップに一杯注いだ。
「へっ?でも、七瀬さんは心配じゃないのですか?」
「君のいう『心配』とはどういう意味?」
「どういう意味…とは?」
さすがの大谷も七瀬の言葉に困惑した。
大谷の中では「心配」とは家族の事を思いやってのことであるのだが…。
「母さんが倒れたら家事を誰がするのか、という疑問かな。
それとも、母さんの愛情が彼女の病気で無くなるという、不安の意味でかな」
それを聞いた大谷は、目の前が暗くなった。
(この男は人間として冷酷すぎる!なんなんだこいつは)
心でそう思いながらも
「そういわれたら、二つともありますね」
と作り笑顔で答えた大谷自身、自分の口の上手さに心底あきれてしまった。
七瀬はコップに入れた牛乳を飲み干し、答えた。
「家事の不安は、父が家政婦を雇うだろうから問題ない。愛情的な意味では、母さんに嫌われている僕には根本から無い心配だよ。それに…」
「それに?」
疑問顔で尋ねる大谷に、七瀬は牛乳パックを冷蔵庫に返してこう言った。
「僕は愛情的な心配がどんなものか、感覚的にもう忘れたよ」
大谷は七瀬に声をかけた事を後悔した。
七瀬の心の闇は、予想より深すぎたのだ。
下手をすれば、大谷自身も闇に飲まれて消えてしまうぐらいに。
「そうなんですね。オレ中坊なんで、大人の七瀬さんの言う事分かんないです。スミマせん」
そういって、大谷は見なかった事にする他なかった。
そのため、リビングの空気は重たくなってしまった。
(しまった!何話せばいいだろ)
大谷が思い悩んでいる時、煌輝がリビングに帰ってきた。
(やった!天の助けだ)
しかし、事は大谷の希望に反したものであった。
「兄貴帰ってたの。夕飯は冷蔵庫にあるから、適当に食べといて」
冷たく兄にそういう煌輝の目は、氷のように冷酷だった。
(来るんじゃなかった・・・)
大谷は、相生家に興味本位に来た事を後悔した。
この家は心休まる温かい家では無い。
「冷たい檻に囲まれた伏魔殿」だったのだ。
「主将。お風呂沸いているので、先にどうぞ」
ころっと態度を変えて、笑顔で大谷にそういう煌輝に、大谷も
「ありがと。ではお先に、お風呂いただきます」
と云い、着替えを持って、逃げる様にリビングを去って行った。
大谷が風呂から出ると、リビングにも台所にも七瀬の姿は無かった。
「主将。俺風呂に入るんで、先に俺の二階の部屋に行っといてください。階段上がって、右側ですんで」
「サンキュ。じゃ先に行かしてもらうわ」
大谷は、そのまま二階に上がった。
二階に上がった彼は、煌輝の部屋と反対側の部屋を見た。
多分ここが、七瀬の部屋なのだろう。ここに来る前の大谷なら、覗いてみようと考えただろうが、今はとてもそういう気分にはなれなかった。
その日の夜、煌輝と大谷は寝る前にいろいろな話をした。こういう時は決まって恋愛話になるのだが、彼らも例に漏れず片思いの女子の名前を言い合った。
煌輝の想い人である、栗毛の少女の名前を聞いた大谷は、彼の恋愛が、彼の一番恐れる形で終了する事を予測した。
次の日の朝
「おじゃましました」
大谷はお礼を言い、相生家を去って行った。
そのとき彼は
(もうこの家に行く事はないな)
と 心中思いながら、朝日が射す住宅街の中を歩いて行った。
大谷の入れ替わりに早朝の相生家に来たのは、意外な人物であった。
“ピンポン”
とインターホンを鳴らす音が聞こえたあと、男の声が聞こえた。
「おはようございます。山守高校の三島萩彦ですが、七瀬君はいますか」
それに答えたのは、麗香だった。
「…少々お待ちください」
麗香はあわてて、玄関まで走って行った。
そして萩彦の姿を見て、驚いた様に目を見開いた。
「七瀬はめずらしく、まだ起きてないの。
今起こしてくるから、中に入って待っててもらえる?」
麗香がそういうと、萩彦は
「はい。おじゃまします」
と云い、麗香に案内されるまま、相生家のリビングに上がり込んだ。
リビングにいた煌輝は、めずらしい早朝の来客に驚いた。
しかもその来客が知り合いの少ない兄を尋ねにきたことと、警戒心の強い母が家に上げた事とで、今日は雪でも降るのではとさえ思った。
だが来客の正体を知った煌輝は、一瞬顔が引きつった。
(違う、あの男じゃないだろ!弟のほうだ!しっかりしろ俺!)
不安げに萩彦を見る煌輝に萩彦の方も気がついたらしく、彼にこう話しかけた。
「早朝に悪いね。七瀬の弟かな」
「は、はい…」
「君ずいぶん早起きだけど、今日は部活の朝練でもあるのかい?」
「いいえ。先ほどまで部活の先輩が泊まりにきてたので、その見送りに起きてきたんです」
煌輝はなるべく普通に装って、会話をしていたのだが、心中は不安で仕方なかった。
(兄貴、早く。早く起きて来てくれ!)
そう願う煌輝の祈りが届いたのか、階段から二人分の足音が聞こえてきた。
(助かった!)
煌輝は心中そう実感し、萩彦に言った。
「俺、部屋に戻るんで。失礼します」
そして、煌輝は早足でリビングを去って行った。
その後、弟と入れ替わる様に、寝ぼけ眼の七瀬がリビングに入って行った。
彼は萩彦の姿を確認すると、少し恥ずかしそうに挨拶をした。
「おはようございます」
そう言った後、パタパタと朝の準備を始めた。
その間に麗香は七瀬の朝食の準備をしていた。
そして彼が食べやすい様に、サンドイッチを四等分に切っていた。
(今日の母さん、やけに優しいな)
七瀬は母の態度に違和感を持った。
しかしその原因が、更なる目の前の違和感であることは知っていたので、彼はあえて何も言わなかった。
「いってきます」
七瀬がそう言って家を出た時も、麗香は外まで出て彼らを見送った。
しかし母以上に七瀬が気になったのは、萩彦の行動だ。
彼が家まで自分を迎えに行くのは、何があったのだろう。
幼い時は親友同士として仲良く遊んでいたが、例の事件があって以降、二人の間には溝があるのだ。
七瀬は疑り深く、萩彦の方を見た。
「相生。最近疲れてないか」
「…どういう事ですか」
「最近お前、ぼんやりしている事多いだろ。もしかしたら、大会へのプレッシャーがあって、疲れているのかと思ってな。少し心配だから送り迎えに来たんだ。まあ、主将としておまえのプレッシャーを半分抱えてやると言う事だ」
「そうなんですね。感謝します」
そういいながら、七瀬は萩彦の行動を疑りすぎただけかと思い直した。
彼の行動は純粋な「山守高校野球部の主将」としての思いやりなのだろう。
(僕が疲れていると感じ取らせることは、少し危険だな)
七瀬はそう反省すると、何事も無い風に萩彦と共に高校まで歩いて行った。
七瀬と萩彦が歩いている世界の空は、青く澄んではいた。
しかし、それがいつまで続いているかは分からなかった。