1章-3
周りの人々(後輩)
放課後は一日で一番楽しい部活の時間だ。
山守高校一年野球部の高橋亮は、心をはずませながら野球部の練習場へと向かう。
「今日こそは俺が一番乗りだ!」
そう思っていたのも束の間。先客である相生七瀬が、すでにグラウンドで練習の準備をしていた。がっくり肩を落とす高橋に七瀬は声をかける。
「高橋。いつも早いな」
高橋は顔をパッと上げ、目を輝かせる。
「そっ、そうっすか?あざっす!」
そう言いながら、高橋の心の声はこう叫んでいた。
(七瀬先輩に声かけられた。ラッキー。)
その心の声を隠すように、高橋は七瀬にいった。
「相生先輩っていつも練習一番乗りですよね。本当に野球が大好きなんですね」
「うん大好きだよ。野球」
七瀬の答えに、高橋は心中悶絶した。
(うへへーっ。『大好きだよ』って告白されてるみたいで照れちゃいますってば。
この声、録音しときたかった。あ、後ろの『野球』はいらないけど)
実も何も、高橋は七瀬に対して、憧れの先輩以上の感情である、恋愛感情を抱いていた。
高橋は最初、その自分の気持ちに気づいたとき、ショックと後悔が激しく交差した。
だが、生来ポジティブ思考の彼は、考えを切り替えた
(あんな美人、女でもなかなかいないんだ。部活も一緒なことだし、七瀬先輩と一緒の時間を楽しもう)
高橋は七瀬となるべく一緒にいられるよう、朝早くから夜遅くまで練習に明け暮れる七瀬のスタイルに合わせた。
そうすると、一年生の中ではダントツの練習をこなしていき、どんどん実力をつけた高橋は、気がつけば一年でただ一人、レギュラー選抜に選ばれていた。
そんな幸運を運んできてくれた七瀬は、高橋にとって天使、いや神様に近かった。
しかし彼は、七瀬に対する恋心を誰にも語らず、ずっと心に秘めておくだけだった。
その理由は、偏見にさらされたくないという自己防衛の考えからではなく、自分が犯した罪の懺悔からであった。
(俺はただ、七瀬先輩のよき後輩としてだけ認めてもらおう)
高橋はそのためだけに、必死で努力した。
だが
「おつかれさまでーす」
という他の一年達の声と共に、七瀬との二人っきりの時間は、タイムアップとなってしまった。
(はぁ。練習一番乗りになって、七瀬先輩に褒めてもらう俺の野望は今日も潰えた)
高橋は二度目の肩をおとす。
「がっくりするな。人より沢山練習することが上手くなる条件じゃない。高橋のペースで効率よく練習すれば、実力は必ず上がる。それにお前は良く頑張っているんだ。一番乗りになれなかった事くらい気にするな」
七瀬はそういって、高橋の背中をぽんっとたたいた。
憧れの先輩にボディータッチをされ励まされた高橋は、顔にみるみる生気を宿していった。
「おっ俺、頑張りますっ!」
大きな声を張り上げて、高橋は一年の集合場所に走って行った。
(励ましがきいたかな。元気な奴だ)
七瀬は高橋の元気っぷりに力をもらい、清々しい気持ちで自分の練習場に向かって行った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
周りの人々(かつての親友)
日もとっぷり暮れた頃、山守高校野球部の練習も終わり、部員達はグラウンドの整備等の片付けに追われていた。
部長兼主将の三島も部員に支持を出しながら、今日の練習の記録と、明日の練習試合の予定を立てていた。
「三島主将。あそこに、女の人が訪ねて来ています」
部員の一人にそう呼ばれ彼の指差す方向を見ると、そこには明るい色に髪を染めた、一人の少女が立っていた。
「分かった。すまないが、ちょっと彼女の所に行ってくる」
三島は一緒に打ち合わせをしていた女子マネージャと、副主将に断りをいれて、彼女の方へと走って行った。
「あそこにいる中村那奈って子、私嫌いなのよね。
化粧ケバいし、髪も派手だし。
真面目な好青年の三島先輩となんて絶対釣り合わない」
マネージャーの悪口に副主将はただ苦笑いをしていた。
中村那奈の近くまで来た三島は、彼女に声をかけた。
「ごめん。待たせて。今日は練習が長引いたんだ」
「ううん。いいよぜんぜん。練習、頑張っているんだね」
「女の子一人で夜の野外にいるのは危ない。
部室の隣にあるミーティング室で待っててくれ。監督には俺がいっておく」
「分かった。お言葉に甘えて、そこで待ってる」
那奈はそういってミーティング室へと向かった。
三島はそれを見送ると、再びマネージャーと副部長の所に戻り、打ち合わせを再開させた。
三島が全ての業務を終え、制服に着替えたのは夜の九時を過ぎた頃だった。
「すまない。だいぶ時間が過ぎてしまった」
そういう三島に那奈はこう返した。
「ううん、気にしないで。野球の練習大変なのは知ってるし。そんなことより三島君、お腹空いてるでしょ。駅前のファミレスに行こ。今日も私がおごるから」
「そうか。いつもありがとう那奈」
「お礼なんていいのよ。好きな男に尽くすのが私の趣味みたいなもんだし」
那奈は満足そうにフフッと笑う。こうして二人は駅前のファミレスに向かう事となった。
この日は週末の金曜日とあって、ファミレスの店内は沢山の人が入っていた。
しかしすぐに席に着けないほどではなかったらしく、すぐに定員が席を案内してくれた。
案内された席は比較的静かな角の場所だった。
「どんどん注文していいよ。今日はバイトの給料日だったんだ」
「ははっ。那奈の言葉は嬉しいけど、どれを頼めばいいのか迷うな。
元プロ野球選手の娘のアドバイスが欲しいよ」
「ふふっ。容易い御用よ。私に任せて」
那奈の父は元プロ野球選手だった。彼をサポートしていた、元栄養士でもある彼女の母の手料理を思い出し、那奈は三島のために注文のメニューを考えた。
「すみませーん。八宝菜定食とステーキ単品お願いしまーす。あとレモンティーも」
那奈の注文に店員は「はーい」と答え、そそくさとキッチンへ入っていった。
注文が来るまでの間、三島と那奈はそれぞれの近況報告をしあい、その話の流れで高校野球の話になった。その話になれば、必然的に天才投手である七瀬の話題が出てしまう。
「それで、相生君の調子はどう?」
那奈は七瀬の話題に食い付く。
三島は本音を言えば、那奈に七瀬の話をしたくなかった。
自分の彼女が他の男に興味を持つのも、何だか男としては腹立たしいのもある。
あともう一つ理由がある。
那奈の幼なじみに、明日の練習試合の対戦相手である藤平高校野球部の部員がいるのだ。
彼は狡猾な試合運びをすることで有名なキャッチャーだ。
那奈にその気はなくても、彼女を通じて山守高校の情報が彼の手に渡るかもしれない。それほど藤平のキャッチャーは口が上手く、情報を仕入れるのが上手いのだ。
その考えがよぎったため、三島は口を重くしてしまった。
「どうしたの?三島君」
何と言えば良いか考えを巡らせていた三島だが、丁度良い具合に
「お待たせしました」
と注文の品が店員に運ばれてやってきた。
「良かった。お腹が空きすぎて大変だったんだ。いただきます」
そういって、三島はなんとか七瀬の話題を打ち切った。
那奈はふてくされた様に、レモンティーを口に運んだ。
ファミレスを出た頃には十時を過ぎていた。
那奈は夜風に吹かれながら三島にこう尋ねた。
「今まで聞けなかったんだけど、三島君、相生君のこと嫌い?」
三島は少し驚いたのか、目を丸くして見張っていた。
「どうしてそんな事をきく?」
「だって、三島君。相生君の話になるとなんて言うか・・・陰があって怖い」
「そうか・・・」
三島は歩いていた足を緩めながら、少し無言で歩いた所で足を止めた。
「きらいだよ」
「え?」
那奈は三島の顔を覗き込んだ。
彼の表情は那奈が今まで見た事も無いような、異様な陰のある表情であった。
「俺は七瀬の事が嫌いだよ」
三島の答えに那奈はびっくりした。
「じゃあ、嬉しそうに相生君の投球を褒めていたのは嘘なの?」
「いいや。あいつの野球の腕は認めているよ」
「じゃ、相生君の何処が嫌いなの?」
「あいつは気持ち悪いんだよ!」
今までの爽やかな三島が嘘のようだった。
そこにいた彼の目は、憎悪をまとった邪鬼の様にギラリと光っていた。
那奈は見ては行けないものを見た気がした。しかしもう後には引けない。
那奈は意を決してきいた。
「相生君の何が気持ち悪いの?」
「那奈も知ってるだろ。相生が男にイヤラシい事されたって噂・・・」
「うっ、うん・・・。」
そういえば那奈も「七瀬は変態男」という噂をきいたことがあった。
ただ、彼女としてはどこにでもある噂話とぐらいしか思っていなかったので、まさか真面目で正義感の強い三島から、この話題に触れてくるとは思ってもみなかったのだ。
「あの噂は逆だ。相生が兄貴を誑かしたんだ!俺は昔見たんだ!相生の奴が女物の着物を着ているのを!気持ち悪いよアイツ!何で兄貴が死んで、アイツは死なないんだよ!」
怒り狂う三島に那奈は気が動転した。
「三島君、落ち着いて!男の子が男を誘惑なんて普通ありえないわ。三島君の誤解かもしれないわよ」
「じゃあ、俺が見たことは嘘だって言うのか!」
「嘘じゃないけど・・・っ!」
那奈の脳裏に一瞬「悪魔」がよぎった。
その悪魔がささやく。
「ごめん・・・。三島君の気持ち踏みにじって・・・。
私、三島君の気持ちを受け止めたい。もちろん、この事は誰にも言わないわ」
那奈はまるで聖母の様なかすかな微笑みを、三島に向けた。
しかし、その那奈の顔は蛍光灯の光の当たり具合からか、心なしか黒い影を落としていた。
三島は那奈の、ただただ優しいだけの部分を見て取り、
「ありがとう」
というと、ぽつりぽつりと心の内を話し始めた。
その二人の様子を、冷たい月の光が静かに照らしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
周りの人々( )
月が照らしているのは、三島と那奈だけではなかった。
町を見下ろすようにそびえ立つ大きなダム、通称「山守ダム」にも、月の光は霧を媒介にして、柔らかくあたりを包み込んでいた。
その、冷たく柔らかい世界に、七瀬は一人、ダムの岸辺に座り込んでいた。
そして対岸の方には、彼と同じぐらいの少年らしき影が見えていた。
【そうか。君は辛かったんだね】
波の音と共に、対岸の彼の声が流れてきた。
「ありがとう。この世界で僕が救われるのは、君の声だけだよ」
七瀬は膝を抱え込んで座りながら、対岸の少年に礼を述べた。
【ぼくだけなの?】
「うん。僕の話にちゃんと耳を傾けてくれるのは君だけだ」
【でも、君とお話する人は、学校や部活にもいるじゃないか】
「ううん。その人達は僕の話なんか聴いてない。自分の都合のいいように話の一部を切り取って、別の意味に組み替えるんだ」
二人の会話が少し途切れ、吹いてた風も止まった。辺りはシン・・と静まり返る。
そしてまた、ふわりと風が吹くと、サワサワと風に揺れる木々の音と、ダムの水の波音が、心地よく七瀬の耳に入ってきた。
【彼らは、自分の空想の世界にいるんだね】
対岸の少年の言葉が耳に入った。
「空想の世界?」
【そう。現実の一部を切りとった、彼らだけの別の世界】
「みんなは何故、空想の世界になんかにいるのだろう」
【君と同じ】
「僕と・・・・?」
会話も風も止まり、全ての空間が止まった。
【現実が怖いんだよ】
その言葉は七瀬の心をザクリと突き刺した。
世界は赤い血で染まり、暗くなっていく。心も体もズキズキと痛んで、風にざわめく木々の音も、優しく照らす月の光りも何も感じない。
七瀬の世界は、暗くて痛くて苦しい。独ぼっちの世界になった。
「どうすれば・・・ここから出られるの?」
七瀬は声を振り絞り、対岸の彼にきいた。
【君は分かっている】
誰かが優しく七瀬をなでた。
そしてさざ波と共に声が聞こえる。
【現実を見ればいい】
「現実ってどう見るの?」
【自分の世界を知りなさい。何を拒絶し、何を守り、そして・・・】
「そして・・・?」
【何を望んでいるのかを理解するんだ】
「僕の望み・・・」
【そうだ。そして相手の世界も同様に、何を拒絶し、守り、望んでいるのか、自分の眼で直接確かめるんだ】
「自分の眼で直接・・・?」
【そう。自分の世界を理解した上で、相手の世界を理解するんだ。世間の評価ではない、本音の世界で会話をするんだ。真実はそこにしかない】
「・・・・もし、そこに僕が見たく無いモノがあったら、僕はどうなるんだ?」
【今の君は死ぬ。そして新しい君が生まれる。これはとても辛く、残酷な試練だ】
「・・・・・・・・・」
二人の間に沈黙が流れた。
ざわっと風が吹いた瞬間、優しい手が七瀬をなでてこういった。
【きみは出来る。だから今、ここに存在るんだ】
「僕がここに存在ること・・・・」
霧が晴れ、ダムの水面は、月の光で黄金色に煌めいていた。
その世界で七瀬は起った。
「現実を見てみるよ。」