1章-2
周りの人々(父)
相生七瀬の父、雅治は金曜の朝、出社の準備に追われていた。
大企業の部門長まで上り詰め、美しい妻と、器量、素質も十二分にある息子二人がいる雅治は、世間でいえばいわゆる「勝ち組」であろう。
そんな彼の息子達は部活の朝練のため、朝早く家を出たようだ。
長男の七瀬は高校の野球部、次男の煌輝は中学のバスケットボール部に所属している。
なので家には妻の麗香と二人っきりだった。
麗香は中年の女性になってもなお、この山守の町一番の美女といわれている。
雅治はその女性が自分の妻という事を、とても自慢に思っていた。
彼女は家事も完璧で、家の中はほこり一つ無く、手料理も料理人に負けないほどに美味であった。
しかし、この完璧さが雅治には息苦しく感じてしまう。
麗香と結婚すると言った時の父の言葉が、雅治の脳裏をよぎった。
「この女は駄目だ。雅治の良い所を潰し、悪い所を引き出している」
いつも上から押さえつけるように言う父に、雅治は腹が立った。
「麗香は家事も出来て、頭も良く、器量も良い。女としての価値は最上級だ。
親父は女を見る目が無い。だから子どもを置いて家を出て行くような、ばかな女と結婚したんだ!
妻に変わって親父が家事なんかしたせいで、仕事が出来なくなって、会社が潰れて、親父は貧乏に成り果てたんだ。
俺は親父のような失敗は絶対にしない!」
それを聞いた雅治の父は彼に対して何も言わなくなった。
そしてそのまま疎遠になり、その間に雅治の父は病気で亡くなってしまった。
だが父の予言は当たった。
フランクで大雑把、外交的な雅治に対し、麗香は人に対して自信暗鬼で、几帳面なところがある。
今では自分と妻はまったく違う人種で、この息苦しさは埋められないものだと雅治は考えていた。
妻には申し訳ないと思いながらも、雅治は今夜も仕事の接待と言い訳をし、気心が知れる、クラブのママをしている愛人の元へ行く予定を立てている。
最近は息子達にも言い訳を見抜かれている不安が雅治を襲う。
特に長男の七瀬の目線はきつかった。七瀬は器量も勉学もスポーツも完璧。
その部分が妻に似ている分つらい。
しかし、後ろめたさの原因は十年前のある出来事がきっかけなのが大半なのだが。
それに引き換え、次男の煌輝は雅治と同じ人格らしく、社交的でハツラツとしており、愛嬌もある。
なので雅治はついつい七瀬より煌輝のほうを可愛がってしまう。
麗香も同様な考えらしい。
長男の七瀬より、次男の煌輝のほうを明らかに贔屓にしている。
七瀬には可哀想なことだが、まあ仕方の無い事だと、雅治は思っていた。
「あなた」
麗香の声に雅治は
「なんだい?」
と愛想笑いを浮かべる。
「今日は大事な会議があるとききました。ネクタイの色はこれでいいかしら」
妻が差し出したのは、深いブルーのネクタイだ。今日のスーツと合わせるとより一層、威厳と誠実さが引き出せる。
まさに会議にはもってこいのイメージだが・・・。
「すまない。今日は深緑のネクタイの気分なんだ」
雅治は自ら衣装箪笥からネクタイを取り出し、自分で締めた。
「見送りはいいよ。残っている家事もあるだろうし。では行って来る」
そう言い残し、雅治は家を出て行った。
ガチャン・・・・
戸が閉まる音がした後、何も無い音がリビングを包み込んだ。
「・・・嘘つき」
誰もいない家の中で、麗香はぽつりとつぶやいた。
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周りの人々(弟)
山守中学校の体育館には「キユッキュッ」というバスケシューズと板間を擦る音、そして「ドンドンッ」というバスケットボールをドリブルする音が、そこら中に響いていた。
「ナイスシューッ」
その声の先にはスリーポイントシュートを華麗に決めた煌輝がいた。
それを見ていた見学の少女達は「キャー」と黄色い声を張り上げていた。
兄の七瀬ほどの器量ではないが、美少年でバスケ部レギュラーの煌輝にはファンの女子生徒が多くいた。
彼は彼女達に手を振りながら、ボールを取りに行った。
その視線の先には、淡い栗毛色の少女がいた。煌輝は彼女に声をかける。
「練習、見に来てくれたんだ」
「うん」
彼女は山守中学校の中でも一番人気の美少女で、煌輝も密かに恋心を抱いていた。
「オレのシュート何点ですか?」
「百点って言いたいけど、チャラいから八十点ってとこかな」
「チャラいだけでマイナス二十点はキツイですよ~」
頭を抱えこむ振りをする煌輝に、彼女は「ふふっ」を愛らしく肩をくすめる。
「よぉ、お二人さん。いい感じじゃね?」
声の方を見ると、バスケ部の主将が彼らの方に歩み寄ってきた。
「このムード壊して悪いけど、今からミーティングだ」
「あ。すっかり忘れてた。ごめんまた後で」
そういって煌輝は体育館の中央に向かう。残った主将は栗毛の彼女に助言した。
「あいつ、君のこと気に入ってると思うよ。今度の日曜日、練習試合ここであるから見に来てあげてくんない?」
その言葉に彼女は、少し顔を曇らせて目を泳がせていた。
「あの、その日はちょっと・・・」
その言葉に主将はある事を察した。
「そっか。変な事言ってゴメンね。その日晴れるといいね。じゃ」
主将は彼女にこう言い残すと、その場を去って行った。
朝練を終えた煌輝達は、運動場に面した運動部用の部室に向かった。
煌輝は早く栗毛の少女の所にいこうと、素早く着替えて部室を出た。
「相生!」
声の主は野球部の部長だった。彼らも今朝練を終えた所だろう。
「何ですか?岩本先輩」
ぶっきらぼうに答える煌輝に岩本はこう答える。
「野球部に入ってくれ!」
「何いってるんですか?」
「球技大会でお前の投球を見た。お前には才能がある。『第二の天才ピッチャー』になれるはすだ。バスケをするなんてもったいない」
「ふざけんな!」
煌輝は岩本の言葉に激怒した。
「なんだよそれ。おれは兄貴の二番煎じかよ。馬鹿にすんのもいい加減にしろ!」
煌輝はそう言い捨て部室の連を後にした。
教室のある校舎に向かいながら、煌輝は嫌な言葉を思い出していた。
「君のボール裁きはコントロール抜群だね。まるで野球の投手みたいだ。いっそ、野球をしてみてはどうだい」
この言葉は、煌輝が憧れていたバスケット選手が、彼に言った言葉だ。
それを聞いた煌輝の心はとても傷ついた。
「どいつもこいつも・・・」
苛立つ煌輝の後ろには、彼の苛つきの如く木の葉を揺する冷たい風と、厚く薄暗い雲が天を覆っていた。
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周りの人々(幼なじみの少女)
山守高校の一限目が終わった。
二年A組の川崎美雪の周りには何人かの少女が集まっていた。
山守高校の女王である彼女の周りはいつも華やかで、クラスの中でも特に目立つものであった。
そんな華やかなおしゃべりの最中、美雪は七瀬が教室に入ってくるのを見た。
「教室に入って来るな!気持ち悪い」
美雪は大きな罵声を七瀬に浴びせた。
取り巻きの少女達はくすくすと嘲りの笑い声を出していたが、教室にいた何人かは美雪の罵声に顔をしかめていた。
当の本人である七瀬は彼女達の罵倒など気にも留めず、自分の席に着いて、次の教科の準備をしていた。
その反応にカチンときた美雪は大声で叫んだ。
「聞いてんのか七瀬。テメーの事言ってんのに無視するんじゃねぇよ!」
その声に教室にいた半分ほどの生徒は美雪の方を振り返り、中には身をくすめる者もいた。
七瀬はため息をしながら美雪の方に向いた。
「うるさいよ。皆に謝るんだ」
七瀬の言葉に美雪はまたも激怒した。
「はぁ?馬鹿にしてんのかよ!」
そんな美雪に、七瀬はただ冷静に無表情のままこう答えた。
「馬鹿にしてるとかじゃない。君は大きな声を出して、他人に対して不快感を与えた。はしたないことをしたんだ。それに対しての詫びだよ」
「うるせぇんだよ!お前は汚い人間だから、何が何でもお前のせいなんだよ!クソ七瀬。分かったら私に口答えすんじゃねぇよ!」
美雪の鬼のような剣幕の罵倒に、教室はしーんと静まり返っていた。
「今の君に言っても無駄だったね」
七瀬がそう言った直後、二限目の開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。
「ちっ。覚えていろよ・・・」
美雪のは小さく七瀬に捨て台詞を吐き、取り巻きの少女達は自分の席へと帰っていった。
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周りの人々(母)
台所の時計は十二時を過ぎていた。
麗香は簡単な昼食を終えると、棚の奥に隠しておいたブランデーをコップ一杯に入れ、それをゴクリゴクリと飲んでいた。
「やってらんない」
飲み終えてふぅと一息おき、ぼんやりと天井を眺めた。
(キッチンドランカーよね私。いつからやり始めたのかしら・・・)
ぼんやりする思考の中、麗香は今までの自分の人生を振り返った。
実家は貧乏で、幼い麗香は母と祖母の三人で暮らしていた。
父は麗香がもの心づいた時からいなかった。
母は夜の店に勤めていたが、ホストクラブにはまってしまい、お金はそこに消えて行った。
その上彼女は、母として麗香を守ろうとしないばかりか、家事全般を麗香にまかせきってしまった。
足の悪い祖母は麗香の父のことが気に食わないらしく、その娘である麗香にことごとくつらくあたっていた。家にいない事が多い母に変わって、麗香は悪態をつく祖母の歩く手伝いもしなければならなかった。そのたびに
「お前は邪魔者なんだ。早くこの家から出て行け」
と言われ続けた。
そんな生活に嫌気がさし、麗香は高校を卒業してすぐに実家の家を出て、大都会に住み着いた。
いくつかバイトをした後、有名な高級クラブで麗香はホステスとして働き始める。
頭もよく機転がきき、器量もすばらしい麗香はあっと言う間に店のナンバーワンに上り詰める。
そんな時に出会ったのが、夫の相生雅治だった。
雅治は大企業中沢財閥のエリート社員だ。
仕事の接待で麗香がいる店に来た彼は、彼女の美貌に心奪われた。
それから雅治は麗香を必死に口説いた。
彼女にとっても雅治との結婚はある意味玉の輿である。
雅治のプロポーズに麗香は二つ返事で承諾した。
ただ夫は、この時から麗香の外見ばかりを愛していたと彼女は知っていた。
夫にとって麗香の内面なんて、面倒くさくて聞きたくないものなのだろう。
そういう夫の性格は、麗香ばかりではなく二人の息子の対応にも見て取れた。
彼は子育てでもなにか面倒くさいことがあるとすぐに「仕事がある」と言って逃げてしまう。
そして
「子育ては母親の役目だ」
と言って、子育ての責任をすべて、麗香に丸投げしてしまった。
実家と決別していた麗香は、頼りにしていた雅治にも見放され、不安のなか孤独に子育てをする他なかった。それでも必死に子育てを頑張ろうと麗香は決心するが、親に愛された事がない彼女にとって、赤子の我が子にどう接していいのか分からなかった。
特に長男の七瀬の時は初めての事だらけで不安ばかり。
それなのに赤子の七瀬は泣いてばかりでノイローゼになった麗香はこう思った。
「この子が憎い」
気がつけば麗香は七瀬に対し、彼が泣こうがわめこうが、機械のように冷たく対応していた。
そんな麗香を見て雅治の妹は心配し、一緒になって七瀬を育てていってくれた。
麗香にとって、義妹の手助けには助かった一方、七瀬を横取りされたような悔しさもわき起こった。
麗香はそれを隠すように
「私は七瀬が嫌い。あなたに貸してあげる」
と義妹に言い訳をし続けた。
なんとか子育てをすることが出来た麗香は、次男の煌輝が出来たときには、少し心に余裕を持って子どもを見る事が出来た。
そのためだろう、煌輝の事は愛おしいと感じる事ができ、愛情も注ぐ事が出来た。
しかし、義妹の病死と大都会から山守への転居で事態は変化していく。
また、孤独な子育てに戻った麗香の前に、運命の男が現れる。
だが彼をつれて来たのは、他ならない七瀬だった。
(あの子は私の何なのかしら・・・)
めくるめく、とりとめの無い思想で、麗香は夕飯の準備をする時までブランデーを飲み続けていた。