27章-1
ここは……家のベランダか。
そう思った五歳の子どもは、あまりの寒さに身震いした。
(そうだ、あの女の癇癪が始まったんだ。冬なのに薄着で追い出しやがって。今に見てろよ)
目つきの悪い男の子は、ギロリと部屋の中にいる女を睨みつけた。
女は男と楽しそうに談笑しており、その部屋の中はとても暖かそうであった。
(でも今回は本当に寒い。寒い……母ちゃん助け)
そう思ったとき、誰かがバサリと毛布をかけてくれた。
(助かった、毛布だ)
そう思った彼は、安心して気を失った。
いくらぐらい気を失っていたのだろう。
男の子だった稲月が気がつくと、そこには美和が立っていた。どうやら夢をみていたようだ。
「起きた?」
「ああ、今さっきな」
「そう。でも布団はちゃんとかぶらないと駄目よ。ここは山からの風が寒いのだから」
ここというのは、川崎家の屋敷であった。二人は執事長から誠の死を聞いた後、慌ててこの屋敷に戻ってきたのだ。が……
「ここから山守を抜け出す道が見つかったの。早朝なにかヒントが無いか一人で探していたんだけど、国際部隊も阿修羅も見張ってない道が見つかったのよ」
美和は嬉しそうに稲月に報告した。
「本当か?」
がばっと起きた稲月は、身に覚えがない毛布をかぶっているのに気がついた。
「これは」
「寝ながら寒そうにしてたから、かけてあげたの。その後で私は一人、早朝探索に出かけたってわけ」
それを聞いた稲月は、顔を少し曇らせた。
「美和、一人で行動するのはよせ。敵に狙われたらどうする」
彼の叱咤に美和はハッとした後、しゅんと目を伏せた。
「確かに、軽卒だったわ。でも稲月さん寝てたから、起こしちゃ悪いなって思って。でもこれも言い訳ね。ごめんなさい」
「分かってくれればいい。それで、発見した道はどこだ」
美和は稲月に地図を描いたメモを渡した。
「この屋敷の敷地の裏手にある山道。そこは私有地なのもあって誰もいなかったの」
地図を見た稲月は、ニヤリと笑ってベッドから降りた。
「美和、今から出発するぞ、今は朝六時前だ。この時刻なら人もさらに少なくて目が届かない」
「そう言うと思って準備してたよ」
美和はニコッと笑って稲月が準備するのを待った。
こうして二人は稲月の車に乗り、敷地の裏山にある山道を目指した。
「誰もいない。ものままだったら上手く逃げれそうね。ん?」
美和は山道の先に何かを発見した。それは道の脇に倒れている『人』だった。それだけでも驚くべきことだが、彼女は美和の良く知っている人物だった。
「明日香! どうしてここに?」
美和は稲月に車を止める様お願いし、車から慌てて明日香の居る方へと駆け寄った。
「あんた、ぼろぼろじゃない。何が遭ったの?」
今の明日香は顔にも体にも痣や傷が多くあり、片腕は多分折れているのであろう、有り得ない方向に曲がっていた。そして傷の痛みだろうか、彼女の意識は少し朦朧としていた。
「美和? なんでここに……私の赤ちゃんは?」
ぼんやりとした視点で問う明日香に、美和は何かを察した。
「あんた、子どもかばう為にこうなったの?」
明日香はコクリと頷くと、フッと気を失った。
「明日香、子ども置いていくなんて許さないよ! 稲月さんお願い、この子を後ろの座席に置いてあげて」
「駄目だ、こいつは荷物になる。そこに捨てておけ」
「私だってそれ考えたけど、出来ない。私の母さんもお腹に私がいた時に逃げたから……それと重なって、逃げることなんて出来ない」
涙目で訴える美和に、稲月は仕方なく折れた。
「町の外に出て、目に入った病院に転がす条件ならば、引き受ける。それでいいか」
「それで十分。ありがとう稲月さん」
笑って答える美和に、稲月はため息をもらした。
こうして明日香は二人に抱えられながら車の後ろ座席に乗せられ、そのまま道を去って行った。
町境まで後少し。山守ダムまで来たところだ。道は土砂崩れで半分崩れており、反対側の半分も、道の修復作業員が居るため車が通ることが出来なくなっていた。
「そうか、それでこの道はみんなノーマークだったんだ」
美和がほうけた声でそう言った頃、稲月のいる運転席側に、一人の女性作業員が近づいて来た。
仕方なく稲月は車の速度を落とし、作業員に別の道を尋ねようと、運転席側の窓を開けたときだ。
「こんにちはお嬢さん。貴女のカンは鋭かったのだけどね。私達の方が道の存在に気がついたの、少し早かったみたい」
女性作業員の姿を見た美和は
「あっ!」
と大きな声を出した。
「リアさん、なんでここに?」
それを見た稲月はいぶかしそうに美和に問うた。
「だれだ、この女」
「誰って、中沢財閥の受付の女性じゃない」
「受付の女はこんな顔ではない、こいつは別人だ」
美和が驚いて
「えっ、どういうこと」
と大きな声で尋ねると、リアは胸元からカードを取り出した。
そのカードには大国の言葉で
「大国軍隊スパイ部門隊長、リア・ロージャス」
と書かれてあった。
「まさか、大国のスパイだと」
見つかった敵が巨大すぎるなだけに、稲月はその場で愕然となった。そしてそれを聞いた美和も、目を見開いてリアの顔を見ていた。
「私達を騙したの?」
「そうよ。私はスパイだもの。今でも沢山の人を騙しているわ」
「なんでそんな事をするの」
泣きそうな顔で見つめる美和に、リアは少し悲しそうにこう答えた。
「私はどんな事よりも一番先に『真実』が知りたいの。こうやって命まで差し出すのだから、自分でも一種の病気みたいなものだと思っているわ。でも、私は貴女達を救いたいの。真実を知ってやり直して、新しい道を進んで欲しいのは事実よ」
その間にも、国際部隊の戦車や車がわらわらと出て来て、稲月の車をかこった。
「くそっ、ここまで囲まれたら逃げる隙はない」
稲月の苦悶に満ちた表情に、美和は優しくこう諭した。
「私、リアさんを信じてみる。だから投降しましよう」
「馬鹿かお前は! あのスパイの女の言いなりにすれば、俺たちはどうなるか分かったもんではないぞ!」
「でももう逃げられないでしょ。少なくとも阿修羅に捕まるよりはマシだと思うし、状況によっては国際部隊は私達の味方になるかもしれない。そのチャンスをつかむのよ」
美和はキッと瞳に光を宿し、稲月の瞳をまっすぐに見据えた。
そんな彼女の言葉に一縷の望みを託した稲月は、コクリと頷くと、さっと車から降りた。
「女、これでいいだろ」
「分かったわ、こっちに着いて来て」
こうして稲月と美和はリアについて行く事になった。
「リアさん、お願いがあるんだけど、後ろに乗っている明日香を助けてくれないかな。道で倒れているところを拾ったの」
「わかったわ。部下に指示して医務部門に送ってあげる」
こうして明日香も一命を取り留めた。彼女は車の後ろ座席から担架に乗せられ、どこかへと引き取られていった。
「これで明日香の件は肩の荷が下りたわ」
ほっとした美和に、リアは
「よかったわね」
と答えながら、国際部隊のキャンプがある山守ダムのキャンプ場へと歩いて行った。
その間ふわりと靄のようなものがかかってきた。霧が出て来たのだ。
「なんだこれは」
「どんどん濃くなってる」
気がつくと霧は前にいるリアが確認しづらいほどに濃くなっていった。
そのとき、遠くから
【コーンコーン】
と小さく響く音が聞こえた。
「なに、気味が悪い」
美和がそう言ったときまた、
【コーンコーン……美和……】
と聞こえるかどうかの声が聞こえた。
「母さん……?」
そうするとまた
【コーンコーン……お姉ちゃん……】
と小さな声が聞こえた気がした。
「聡? さとるなのっ!?」
美和は慌てて声のする方へと駆け寄った。
「母さん、聡、かあさん、さとるっ!」
美和は必死になって、視界がゼロとなった霧の中を走った。
いくら走っただろうか。美和は真っ白な霧の中でぜいぜいと息を切らした。あまりの湿気で服はじめっと重くなり、足取りも自然と重たくなった。
「かあさん、さとる、どこ……」
その時、髪の長い女性の影が見えた。
「かあさん?」
その影に近づいた美和は、心臓が潰されるほどギョッとした。
そこには燃え盛る炎に包まれた美雪の姿があった。
【美和……】
燃え盛る炎の中の美雪は、かつての美しさはなく、焼けただれた醜い姿で美和を捕まえようとした。
「キャァァァッ!」
美和は我を忘れて叫び声を上げ、元来た道であろう場所を、濃い霧の中走った。
しばらくするとまた人影が見えた。彼女はその人影に助けを求めた。
「助けて、たすけてください、怖い人がいて」
その人影は何も言わず、ゆっくりと美和のもとに近づいて来た。
「助かった」
しばらくすると少しずつ霧が晴れてきていた。多少視界が晴れたその先で美和が見た者は
首が有り得ない方向に曲がった高橋だった。
「キャアアアアッ、来るな、くるなああァァっ!」
美和は思わず護身用に持っていた銃を撃った
パパパアアンッ!
その音を聞いた稲月は、慌ててその方向へと駆け寄った。
彼ははぐれた美和を探しており、彼女に釣られて深い霧が上る山の中を走り回っていたのだ。
そうこうしている内に霧が晴れた。
視界がどんどんクリアになるにつれ、稲月は信じられないモノを見る事になった。
それは頭部が半分以上欠けた、無惨な美和の死体であった。
「美和、美和アアアアッ!」
稲月は半狂乱になりながら、彼女が倒れている古い吊り橋へと走って行った。
だが彼は気がついてなかった。そこは阿修羅が縄張りを貼っており、稲月の命を狙っていたのだ。
そこに稲月は、打ってくださいとばかりに、彼らの縄張りの中心へと踊り出し、案の定、彼はかつての部下だった松田に銃で撃たれることになった。
銃は急所を貫通し、彼は美和の遺体の上で倒れ、帰らぬ人となった。
二人のあまりにも呆気ない最後であった。