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19章-3

 この日の夜、『霊の社』の本部会館では各部門ごとに分かれた大きな会合があった。会合は二十代から三十代の青年部、四十代から五十代までの壮年部、それ以上の老年部と、二十代前の学生の学生部があった。

 山岡大地はその学生部の幹部だった。野球部の練習のおかげで遅れはしながらも、どうにかこうにか会合の参加に加わる事ができた。

 会合が終わり、ひとしきりの集団も帰ったので、幹部達はのんびりと世間話をしながら片付けの準備にとりかかった。

 山岡ももちろん片付けに加わった。だが彼の心はそこにあらずで、近くの幹部達の会話など上の空であった。

 理由は簡単。彼は先ほどからちらちら女子学生幹部達の方を見ていた。その視線の先には彼の想いひと、桜庭千恵子がいた。

(千恵子、普段より笑顔が少ない気がするが、どうかしたのか)

 端から見れば、桜庭の様子はいたって普段通りだ。だが、いつも気に留めて彼女を見ている山岡は、彼女の異変にすぐに気がついた。

 ある程度片付けも終わり、幹部達も帰りだしたころ、桜庭は連れの女子学生幹部達に

「私、お手洗い行ってから帰る。先に帰っていいよ」

 と言い残し、そのまま女子トイレへと入っていった。

 それをちらっと確認した山岡は、最後に残った折りたたみ式のパイプ椅子を両手に抱え、倉庫にまで運んでいった。

 倉庫から会館に帰った頃には、学生部の会合場所には人は誰もいなかった。

(千恵子も帰ったみたいだな)

「俺も帰るか」

 そう言って山岡は出口に足を向けようとしたとき

「大地」

 と、女子の声が聞こえた。彼が声の方を振り返ると、そこにはぽつんと桜庭が立っていた。

「さっ桜庭さん、帰ったんじゃないの」

 突然のことに驚き、大地は声がひっくり返っていた。だがいつもの桜庭なら「あっはっは。変な声」って笑うものだが、今の彼女は無言で青白い顔のまま立っていた。まるで幽霊のようだった。

「ど、どうしたんだ。なんか元気がない」

 彼が言い終わらないうちに、彼女は大地の体に抱きついた。

「あんた、私が欲しかったんでしょ。今なら誰もいないし、抱いていいよ」

 あまりの展開に、山岡は「ほえ、はへ、ええぇっ?」と素っ頓狂な声を出して困惑した。その間にも桜庭は自分の制服のブラウスのボタンを外し、あっという間にブラジャーがあらわになった。

「わーっ! ちょっとちょっと待ってくれ千恵子! 服を着てくれ!」

 山岡は慌て千恵子の脱がしかけのブラウスを羽織らせた。その間、彼は目を背けながらなのは言うまでもない。

 山岡はそのまましばらく、目を背けたまま動かなかった。少しでも動くと桜庭の体を見てしまいそうで、そうなると自分を抑える自信がなかったからだ。

 しばらく誰もいない会館はシーンと静かな空気がはりついた。

 桜庭は小さな声でぽつりと、こんな言葉をもらした。

「……あんた、なんで何もしないの」

 その質問に山岡は顔を赤くさせ、目を泳がせながら必死で答えた。

「え? だって俺、学生だし、千恵子に手を出して何かあったとしても、責任とれないし……」

「そっか」

 桜庭が短く納得の返事をすると、また沈黙が流れた。しかしそれはすぐに打ち消された。

「フフッ。アハハッ」と、桜庭は小さく笑い、そして「アッハハハ、本当に馬鹿だわ、アハハハハッ!」

 と狂った様に大声で笑い、大粒の涙を流していた。

「私、本当に馬鹿よ! 悪いけど大地、私あんたより大バカ者だったわ。アハハハハッ!」

 桜庭は自嘲の極みで、叫ぶ様に泣き笑った。

 山岡は愕然としながら、一歩引く様に彼女を見た。

「どうしたんだ千恵子。何があったんだ」

 彼の質問に、彼女は大粒の涙をこぼし、嘲り笑いながら答えた。

「私、三島、萩彦君に愛人失格って言われた。って言うか私が『好きな様にしてくださーい』って言ったもんだから、体をいい様に使われたの。フフハハハ、バッカみたい。そう言ったのに私『私が本当の彼女よね』って萩彦君に迫ったから、鬱陶しく感じた萩彦君に、この関係を打ち切りにされたの。ハハッ」

 それを聞いた山岡は、顔がみるみる蒼白になった。彼の変化に気がついた桜庭は、さらに言葉を続けた。

「男って嫌いよね。ほかの男の手垢がついた女は。それでも来る男って、私を人じゃなくてダッチワイフとしてしか見てない。そうよね。どんな女でもソープ嬢なら大枚はたくのに、私なんてそれをタダでいたすんだから。そういう奴らにとって、ちょっと私の小間使いするぐらいどうってこと無いよねぇ。ハハハハハッ! 私、魔性の女王様気取りしてたの馬鹿みたい……ばかみたい……でもね……」

 笑い声の代わりに今度は静かに、ぽとっぽとっと大粒の涙が床にこぼれた。場は再び静寂し、ぽろぽろと彼女の言葉が静寂に漏れた。

「醜い私でも、振り向いて欲しかった……。誰かに、何かに必要とされたかった……。間違いなのは分かってた。間違ってたから私、それに見合った罰を受けたんだ……」

 泣き崩れてしゃがみ込む桜庭を見て、山岡はフルフルと方を振るわせた。そして顔を真っ赤にして叫んだ。

「馬鹿やろうっ!!!」

 そう言って彼は拳を大きく降り出した。

 それを見た桜庭は、少しだけ笑った。

(ありがとう、私を叱ってくれて。私はその言葉が欲しかった)

 だが山岡の行動は、彼女の予想していないものだった。彼は勢いのついた拳を、なんと自分の顔面にぶち込んだ。

 勢い余って倒れ込む彼に、桜庭は目を白黒させ、あわてて彼のもとへと歩み寄った。

「何してんの! 私じゃなくて自分自身を殴るってどういうこと?!」

 倒れ込んだ山岡の顔から出た鼻血を、桜庭は動揺しながらも、丁寧に素早くハンカチで拭き取った。

 山岡はそれをぼんやり見ながらつぶやいた。

「ああ、やっぱり俺馬鹿だ」

「そうよ、本当に馬鹿」

 桜庭はあきれ顔で返した。自傷まじりのかすかな笑いで山岡は言葉を続けた。

「俺さ、千恵子は好きで男とそういう関係を結んでいるとばっかり思ってた。でもそうじゃないんだ千恵子。お前はむしろ『被害者』だ」

 その言葉に桜庭は驚いた様に目を見開いた。

「私が被害者?」

「ああ。お前が思っている誰にも相手にされないかもしれない不安を、周りの男どもはいいように扱っただけだ。なのに俺はそうとは知らず……いや、自分の保身にばかり目がいって、お前の本心なんて考えもしなかった。好きな女の気持ちも考えられない、最低の馬鹿男だ」

 そして桜庭の目を見ながら

「千恵子、すまない……」

 と山岡は謝った。

 彼の謝罪に、彼女は張りつめていた何かが堰を切ったように、ぼろぼろと大粒の涙をもらした。それは彼女が何年も我慢した、本当の涙だった。

(千恵子、そこまで必死になって頑張ってたのか。そうだよな、俺は何があっても必死で頑張って、勉強ができる様になった彼女が好きだったんだよな。そんな事も忘れそうになってたんだな俺は)

 しばらく静かに泣く彼女を見ながら、山岡はぼんやりとそんな思考を巡らせていた。この空間は二人だけだが、どことなくホッとする暖かい空気が流れ込んでいた。

 その空気に気が緩み、泣き終わった桜庭は服を直し、体育座りをしながら、ぼんやりと会館の天井を見ていた。

 一方顔が腫れた山岡は水でしぼったタオルを二本用意し、外の自販機で暖かい紅茶を購入して、桜庭のそばに座った。紅茶は桜庭が好きな種類のものだ。

「気持ちは落ち着いたか」

 そう聞きながら山岡はタオルを桜庭に手渡した。

「ありがとう。だいぶ落ち着いた」

 と彼女は答えながら、涙で腫れた目もとに冷たいぬれタオルを当てた。それを聞きながら山岡も

「そうか」

 と返しながら、自分で殴った顔の部分を、もう一つの濡れタオルで冷やした。

 その間、すこし沈黙が続いた。

 この沈黙の心地よさにもう少し浸りたい桜庭だったが、どうしても聞きたい疑問があったので、山岡に質問を投げかけた。

「大地、あんたさ、なんでブスな私のこと好きなの?」

 その質問に、山岡は素直に彼女の目を見てこう言った。

「おまえはブスなんかじゃねえよ。十分に可愛い」

 その意見に桜庭は動揺し、顔を赤くさせた。

「嘘! 私、母親からブスって言われてんだよ。勉強だけが取り柄のブスって。冗談はやめて」

 山岡は目をちゃんと桜庭に向けたまま、彼女の言葉に対する自分の意見を述べた。

「それはさ、お前の母ちゃんがすごい美人だからだろ。たしかにそれと比べりゃ、パッと見は見劣りはするけど。お前の笑顔は愛嬌があって可愛い。だから皆に愛される。そこはお前の母ちゃんにはない、お前の魅力だと思うけどな」

 その言葉に、桜庭はいよいよ面食らったように驚いた。

「大地、あんた、本気で言ってるの?」

「本気って、本気でそう思ってる。そうじゃなきゃ、何年お前を好きでいられんだろ。ってか俺、つんけんした奴、怖くて苦手なんだよ。例えばおまえの母ちゃんとか」

「相生七瀬とか?」

 山岡はギクリとなった。なぜなら彼の言葉を遮る様に言った桜庭の答えは、山岡の図星を突いていたからだ。

「見てたら分かるよ。あんた大会の開会式のとき、下級生の七瀬と目が合いそうになったでしょ。そのとき怯える様に目をそらしたの、私見てたんだから」

 その光景を思い出した桜庭は、その滑稽さに気がつき、改めて今ここで笑い出した。

「なっ何だよ、そんなに俺が可笑しいかよ」

 恥ずかしくなってきた大地がそう尋ねると、桜庭は「違うの」と言いながら、笑ってこう答えた。

「なんだかさ、七瀬に嫉妬していた私自身が滑稽に思えて来たの。だってあいつさ、つんつんしてるせいで、他校の先輩から敬遠されているんだよ。そんな可哀想な人に、私は何を嫉妬してたのかって思うと、本当にばからしくてさ

 そう言いながら、桜庭は紅茶を口に含んだ。暖かくて甘い潤いと優しい茶葉の香りに、体も心も癒された。気持ちがほぐれた彼女は、ゆっくりと口を開いた。

「私の母さんもそう。自分で心の壁を作ってる可哀想な人。私ただ、母さんに振り向いて欲しいだけだったのかも。そして、教団の幹部だった父さんに認めて欲しいから、勉学も宗教活動も頑張った。でも二人に相手さてない私は、いつの間にか二人に似ている他人の七瀬に、二人に言えない負の感情を向けていったんだ。

 七瀬にしたらいい迷惑よね」

 そう言った桜庭の表情は、悪霊が取り払われたようにすっきりとしており、元の聡明で努力家な少女の顔に戻っていた。

 これこそが、山岡の好きな千恵子だった。

「でもさ、そう考え直したら、ちょっぴり萩彦君に対してむかついてきた」

 桜庭は少し頬を膨らましてすねた様に立腹した。その様子はちょっと腹を立てた小リスの様に山岡には見えた。

「ははっ。あいつに何か言いたいことがあるのか?」

 大きく構えるように笑う山岡の胸を借りる様に、小さな少女はぶつぶつと文句を並べた。

「まあ、そりゃあさあ、私が好きにしてって言ったから関係結んだけどさ、萩彦君彼女いるじゃん。その子に悪く思わなかったわけ?」

 思わぬ方向に怒りをあらわにする桜庭に、山岡は少し驚いたものの、なんだか可笑しくなってだんだんと笑いがこみ上げていった。

「はははっ。おまえ愛人だったのに、本命の彼女の味方をして三島に腹を立てたのか」

「何で笑うの? いや、笑うか。って言うか、私なんで萩彦君が好きだったんだっけ。顔? そうそう、みんなが好きって言ってるの聞いて、好きだと思い込んでただけだ。なあんだそれ憧れで、好きとかとは違うじゃん」

 桜庭も自分の本心に気づいて、その滑稽な結末に笑いを浮かべた。

 二人はひとしきり笑い合ったが、少しずつ笑いを小さくしていくと、思い浸るように、互いに悲しい表情を浮かべた。

「萩彦君も苦しんでるんだよ。知ってるでしょ、彼が受けた傷」

 桜庭の言葉に山岡も

「ああ、知ってる」

 と返した。

「私たち、なんで止める事ができなかったんだろうね。子供だったからかな」

 彼女の悲しい問いに、山岡は暗い顔をして答えた。

「皆はどうかは分からないけど、少なくとも俺は、臆病だったからだと思う。子供だったとか関係ない。あのとき俺は怖いから逃げた。それだけだ」

「私もそうだよ」

 桜庭がそう答えた後は、静かな沈黙が流れた。

 少ししてその沈黙を破ったのは山岡だった。

「俺、向き合ってみる」

「何に」

 桜庭が小さく尋ねると、彼は少し間を置いて答えた。

「三島に」

 少し黙った桜庭だが、意を決した様に口を開いた。

「そうか。そうだね。今なら、萩彦君には私なんかよりもあんたの方が響くと思う。だって自分を変える努力してるし」

 にやっと笑った桜庭に、山岡はびっくりした表情を見せた。

「聞いたよ。あんた成績一番下から中の下まであがったんだって。今まで興味もなかった教団の歴史書まで読んで、何かあった?」

 事の発端を話せば長くなりそうだし、話によったら今まで裏でやって来た須藤達との活動がバレそうで、山岡は思わずあたふたしてしまった。

 その様子をからかいながら満足そうに眺めた桜庭は、ふふっと楽しそうな笑いを漏らした。

「ふぅん。大好きな私にも言えないことあるんだぁ。いいよそれでも。私もあんたに言えないことあるし」

「なっなんだよそれ?」

 きょどりながら尋ねる山岡に、桜庭はいたずらな笑みをうかべて、意味ありげにこう言った。

「今思い返してみるとさ、どう考えても私のスマイルにやられた男がいるのよねぇ。一年の吉田君とか、隣のクラスの木戸君とか? あとはちらほら……みんなイケメンで将来性ありだから、千恵子、誰にしようか困っちゃう」

 それを聞いた山岡は

「ええぇえっ! 俺はいないのか?」

 と泣きそうな顔でせがんで来た。だが桜庭はそれをあしらう様に

「知ーらないっ」

 と答え、ステップを踏みながら会館を後にした。それを追いかけるように山岡も

「千恵子、待ってくれよぉ」

 という情けない声だけを残しながら、会館を後にした。

 その半時間後

 施錠係である教団の幹部が宿直室からやって来て、各部屋の電気を消して窓の鍵をかけ、最後に会館の扉の鍵をかけた。

 年若い彼の表情はどこか暗い影があり、それにあわせて揺れるように、月明かりに揺れる木々の陰が彼の周りに降り注いでいた。それはまるで復讐に燃える黒い炎の様であった。

「鈴木さん。俺が貴方の敵を討ちます」

 そんな彼の様子など気にも留めず、ポケットからけたたましいスマートフォンの着信音が流れた。

[森、すまないが至急、代表の事務室まで来てくれないか]

「わかりました萩彦く……いえ、三島さん」

[堅苦しい言葉はいいよ。俺とお前は一つ違いだし、友人の様に呼んでくれ。お前と俺の仲だろ]

 意味ありげに含み笑いをする電話の声の主に、森は

「じゃあお言葉に甘えて」

 と軽くいいながら、心中ではかき乱されるほどのおぞましさと歯痒さを抱いていた。

 会話が済んで電話を切ると、堰を切った様に森は罵詈雑言を並べた。

「この男娼ヤロウ! 昔されたことで頭がイカれやがって。お前にされて喘いでいる自分にも虫酸が走るが……それも後もう少しだ。もうあの大国に連絡は入れてあるし、後は鈴木さんを殺めた三島萩彦……貴様を殺すだけだ」

 この出来事は冷たい月だけが知っていた。

 山岡が三島と対すること、森が三島を裏切り、そして、その裏切りは森が想像する以上の惨劇になること。

 そのすべてが冷たい夜の中に出て、そして誰にバレる事なく消えていった。


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