18章-2
この日、滝野明日香は所属している女子陸上部の顧問に『退部届』を出した。それを見た顧問の女先生は、驚いた目で明日香を見返して質問した。
「滝野さん一体どうしたの。あなた県大会で優勝して、今度は全国というところで辞めるだなんて」
それに対し、滝野は泳がす目をごまかす様に伏せてこう答えた。
「体調が良く無いのです……。大事を取れと、医者にも言われました」
彼女の様子は何か引っかかるものがあるが、嘘ではないと女教師は思った。ここ最近の滝野は県大会のように切れがないどころか、別人の様に体が重たい。本人もそれに気がついたらしく、練習を休んで病院に行くと言っていたのだ。
「……分かったわ。病院でそう言われたのなら、学校生活もあまり無理をしないようにね。何かあったら私にでもいいから相談するのよ」
女教師はそう言って、滝野の言葉を信じてみることにした。
それを聞いた滝野本人は、ホッと胸を撫で下ろした様に
「ありがとうございます」
と礼を述べて職員室を去った。
丁度その時、陸上部所属の一年の少女が、滝野と入れ替わる形で顧問の先生のもとへ尋ねに来た。
「先生、これ一年の練習のメニューです。確認お願いします」
「ありがとう、そこに置いといて」
顧問に言われたとおり、一年の少女は練習メニューを机の上に置いた。そして顧問に心配そうにこう尋ねた。
「あの……滝野先輩、どうかしたのですか」
顧問の先生は、後輩が純粋に先輩を心配したものだと思い、簡単に滝野の事情を伝えた。
「でもあまり心配すると彼女も不安になると思うから、誰にも言わずに優しく見守っていてね」
顧問の女教師の言葉に
「はい、分かりました」
と、一年の女子は返事をし、何食わぬ顔で職員室を出て行った。
だが、教室に入ると同じ部活仲間に、早速そのことを暴露し始めた。
「滝野先輩、体調不良で練習来れないんだって」
「マジで、やっぱりあの噂は本当かも」
「それって、吹奏楽部の子も噂してた『おめでた』説!?」
少女三人はわくわくしながら、こっそりと噂話に華を咲かせており、部活でもその話しで持ち切りだった。
そんな彼女達のうわさ話を、陸上部二年の女子はチラと小耳に挟んだ。そして彼女は顔を輝かせて、一年達の噂話に聞き耳を立てた。
(なになに、明日香に『妊娠』疑惑?! ふふっ。面白いネタ聞いちゃった)
うきうき気分で練習に戻る彼女に、同じ部活仲間が声をかけた。
「なによあんた、ニヤニヤしちゃって」
「ふふっ。一年の噂をきいたんだけど凄いのよ。いい、私達だけの秘密よ」
彼女は誰にも聞こえないヒソヒソ声で、部活仲間に耳打ちをした。内容を聞いた仲間は、驚愕と歓喜の声を小さく上げた。
そして次の日は、その部活仲間がクラスメイトに『ここだけの秘密』と言って滝野の噂を流した。
こうして滝野の知らないところで、噂はますます広がった。しかし何も知らない当人は、一人ひっそりと産婦人科に足を伸ばした。
「緒方先輩の、智君の未来を、私は絶対作ってみせる」
彼女はそう固く決意しながら、夏の陽炎の中に姿を消した。
次の日、相生七瀬は教室に着て驚いた。
彼の席はめちゃくちゃに荒らされ、机の上は罵詈雑言の落書きと、花が生けられた花瓶が置かれていた。そして座席にはいくつもの画鋲が、針側を表に張られていた。
「誰だ、こんなことをしたのは」
冷たく問う七瀬に、クラスの男子は失笑して答えた。
「誰だって。まさかお前、クラスメイトを疑るのかよ」
「誰もクラスメイトとは言ってないけど」
その言葉に、クラスの男子はカッとなった。
「うるさい、この殺人犯が! 知ってるんだぞ、お前が警察に連れて行かれたのを。その上お前、西宮さんが作った弁当も捨てたそうだな」
それを聞いた七瀬は、眉をひそめて反論した。
「僕は人を殺してなんかいない。それに西宮さんの弁当に関しては、爪や髪の毛を入れられていたんだ。そんな弁当、捨てるのは当たり前だろ」
それを聞いた別の男子は、七瀬に勢いよくつかみ掛かった。
「何言っているんだお前! 優しい西宮さんがそんなことする訳ねえだろっ! 言いがかりつけんな」
しかし七瀬も負けじと冷静に言い返す。
「言いがかりは君だ。弁当の件は僕と西宮さんの問題だ。関係ない君が、僕に暴力振るう権限は無い」
「いい加減にしろ!」
そう言ったのは、教室に入って来た担任の先生だった。彼は二人の様子を見て、慌てて大声で怒鳴ったのだ。
「二人とも席に着きなさい」
「嫌です」
七瀬の反抗に、担任の先生は顔を青くし、次に赤くさせた。しかし七瀬は顔色を変えずに説明に入った。
「僕の椅子には画鋲が張られています。こんな席に座りたくありません」
その言葉に癇癪を起こした担任は、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「いい加減にしろ、相生! お前のその態度がイジメのターゲットにされるんだ。挙げ句に殺人犯の疑いまでかけられやがって。俺が担任の間に迷惑をかけるな! どうでもいいからさっさと席に着きやがれ!」
それを聞いた男子達は、チャンスだと言わんばかりに大勢で七瀬につかみ掛かった。
「さっさと席に着けよ相生」
「座れっていってんだよこのクズ!」
大勢の手によって無理矢理画鋲付きの椅子に座らされようとした七瀬だったが、彼の一声で一瞬その場が固まった。
「僕は今、警察に盗撮されているんだぞ。それでもいいのか!」
それを聞いた担任と生徒達は、顔を青くして教室を見回した。そしてテレビ画面の直ぐ下に、小さなカメラが在るのを発見し、どよめきと驚愕の声を上げた。
担任と男子達は、警察に今の状況を知られてはたまらないと、慌ててカメラを外しにかかった。
その隙に七瀬は男子の集団から離れ、鞄を持って教室を出た。
「あっ、待てっ!」
担任の声に七瀬は振り返ることは無かった。
「僕はもう、教室に来ません」
とだけ言い、走ってその場を去って行った。
それを見た西宮は、誰にもバレないようにひっそりと笑みを漏らしていた。
(作戦成功。私に気があるクラスの馬鹿男子を煽って、権力に弱くて責任感のない担任が居る前で、派手なイジメを繰り広げてくれたのは計算どおり。でも、私が仕掛けた盗撮カメラをこんな形で使うなんて、さすが七瀬様。機転が利く男って素敵♡ でも貴方の行動も私の予想どおりよ)
教室はしばらく騒然となったが、桜庭が機転をきかせてくれた。
「先生、彼一人のために時間を押してしまうのは皆が困ります。ホームルームを進めてください」
それを聞い担任はハッと我に返ったようになり、慌てて出席確認の点呼をした。
その後は普段通りの学校生活となり、七瀬以外は日常へと戻っていた。
「真理子、男子が言っていた『七瀬に弁当を渡した』って本当?」
休み時間に入ってすぐ、滝野は西宮にそう尋ねた。西宮はごまかし笑いを浮かべながら説明した。
「うん。実はね野球の試合の時に、七瀬がはぶられているのを見てさ。それに噂じゃあいつ、親に家追い出されたって言うじゃん。さすがにちょっと可哀想かなって思って、お弁当作って持って来たんだ」
彼女の話しに滝野はため息をついた。
「真理子、ちょっとお人好しすぎるわよ。七瀬は疫病神なんだから関わっちゃ駄目よ。もしあいつに関わったりしたら、変な噂流されるわよ」
彼女の忠告に、西宮は口を少し尖らせた。
「私も最初はそう思ったけどさ。でもよく考えたら、七瀬に近付いた人虐めてたの、ほとんど美雪じゃん。今はどちらかって言ったら、女子の間では七瀬の好感度上がっているよ」
「確かにそうよね。でも大勢の男子や少数の女子は、七瀬を目の敵にしてるわ。それだけでも厄介なんだから、変に近付かないほうがいいよ」
西宮は考え直す様に目を左右上に泳がせた後、ちょっと反省したように首を下に向けた。
「言われてみればそうだね。特に桜庭ちゃんは親の敵みたいに七瀬を意味なく憎んでいるし。あの正義感の強い美和も、七瀬に暴言吐いて楽しんでたもんね。くわばらくわばら。あっでもさあ明日香」
「何よ、真理子」
「ふと思ったんだけどさ。美和もちえちゃんも、なんで七瀬に執着するんだろ。私、あの二人の残虐性の方が恐いよ。だってさあ彼女たち、友達の私たちが失態侵しても攻めて来そうじゃん」
それを聞いた滝野は、一瞬ギクリとなって考え込んだ。それは彼女自身が世間的に『後ろ指を刺される』秘密を抱えていたからだ。
その時、後ろから美和の声がした。
「二人とも、何の話ししてるの」
無邪気に尋ねる美和に、西宮と滝野はごまかし笑いを浮かべた。
「うっ、ううん。真理子が変な同情心で七瀬に弁当上げたっていうから、あまり近付くなって言っただけ」
「そうそう、明日香にそう言われて反省してたとこ」
それを聞いた美和は、あきれた顔を西宮に向けた。
「もしかして、七瀬の言っていたことって全部本当?」
「うん、本当……」
しおしおと答える西宮に、美和はさらに問いつめた。
「もしかして、髪の毛と爪を入れたのも」
「ううん、あれは誤って入っていたんだと思う。慣れない手料理で手を切ったりして、あたふたしたもんだから」
西宮は弁解するようにそう答えた。だが真実は別だった。
(うっそ~ん。私、料理プロ並みに得意だもんね。髪の毛と爪だってわざと盛大に入れて、七瀬様の心を『がっちり』掴んだも~ん)
だが美和はそうとは知らず、西宮の言葉を丸まる信じ込んだ。
「あの男、少々のことで騒ぎすぎよね」
美和の言葉に、滝野はこう付け加えた。
「そうそう。今日の件だって、さっさと画鋲付きの椅子に座ったら丸く治まったってのに」
キャハハっと笑う滝野と西宮を見て、今度は美和の心がもやっとした。
実は今日の七瀬へのイジメは、弟の聡が日記に綴っていたイジメ内容とほぼ同じだったからだ。その日の彼の日記には、画鋲で傷つけられた痛みで、風呂に入るのが辛かったと書かれていた。
そのことをふと思い出したが、一方で美和はこんな考えを持っていた。
(そうよ。聡が相生七瀬のこと好きになったおかげで、聡は高橋に酷い目に遭わされたのよ。元はと言えば、相生七瀬のせいじゃない。それに父さんが死んだのも、あいつの父親のせいだし。そうよ。そんな奴なんか、この世にいなくなればいいのよ)
それこそが美和が七瀬を虐める理由であった。彼女の中で七瀬は『不幸にならなければいけない悪人』だった。
なので美和も直ぐに二人に合わせるようにして笑い、しばらく七瀬の非難する話しに華をさかせた。