天才と呼ばれた少年の現実
「僕は知っている。この普通の日常は、『牢獄』であると。」
明るくなって行く光に導かれ、「現実」の浅瀬に連れて行かれる。
「朝だ・・・。」
目を開くといつも見ている天井がある。
次に窓から見える「悲しいほどの青」が目に焼き付いた。
「学校にいかなきゃ・・・」
彼はベッドから起き上がり、高校の制服に着替える。
一階の洗面所に向かうために、二階の自室から階段を使って下まで下りる。
その途中、何かを焼く「ジュワッ」という音と、香ばしく食欲をそそる匂いが漂ってきた。
しかし、この正体である「温かい朝食」にありつけるのは、自分では無い事を彼は知っていた。
洗面所で身支度を整えて、自分で洗ったユニフォームをさっとたたみ、部活用のバッグに入れる。
台所に入った彼は「おはようございます」と、そこにいた母親に挨拶をする。
調理中の彼女は忙しそうに朝食の準備をし、彼の挨拶に対する返事は何も無かった。
彼は食卓の自分の席に座り、冷えきった目玉焼きと、トースト、そして取り繕ったように置かれたサラダをただ、黙々と食べた。
それを横に、パタパタという足音と、「おはよう」という明るい、中学生ぐらいの少年の声が聞こえてきた。
母は声の主に「おはよう。煌輝」と明るい笑顔で返事をする。
彼も弟に「おはよう」と返事をする。
兄のそんな機械のような挨拶に、母も弟も目もくれず
「からあげもっといれてよ」
「お肉ばかり食べちゃだめよ」
と二人で他愛の無い会話を、笑いながらかわしていた。
そんなやり取りを他所に、朝食を終えた彼は
「行って来ます」
と言い残しその場を去る。
台所を出る時に取った弁当を持って玄関に向かっていたとき、奥の部屋から足音が聞こえてきた。
目をむけると、そこには父が寝室から出てきたところであった。
一瞬、父と目が合ったが、
「おはようございます。お先に学校に行ってきます」
と彼が言ったきり、父からの返事は何も無かった。
玄関を出た先は青い空が広がり、住宅街の空気を冷たく、澄んだものにしていた。彼は目的地の高校まで、この寂しい空間をただ黙って歩いて行った。
彼の通う山守高校付近は、生徒たちの「おはよう」の声と笑い声が、朝の小鳥のように響き渡っていた。その中のひとりが彼を見てこう言った。
「あ。相生七瀬だ」
それに対し、そういった少年の隣にいた少女がこう言う。
「七瀬様。いつ見ても麗しい美少年よね。おまけに成績優秀で、運動神経も抜群。すてきよね~」
そんな彼女に彼はムッとした。
「でもあいつ、気持ち悪いんだよ。無愛想で無表情。おまけにあの噂」
彼女も彼のいわんとしている事を察したらしい。
「私もそれ知ってる。でも彼ぐらい器量がよかったら、そうなっちゃうでしょ」
そういう二人の侮辱の瞳も彼、相生七瀬の日常のようである。彼は皆の黄色くもあり、侮辱と憎悪の言葉を気にもとめず、真っ直ぐ歩いて行く。
しかし、そのいずれの声も、彼に直接話しかけるものでは無かった。
七瀬の高校生活は、授業を静かに聴き、休み時間や昼休みは宿題や予習、復習をおこなう真面目すぎるものであった。
そんな彼に
「変態七瀬」
と侮辱し、くすくすあざ笑う少女たちがいた。
「何か用?川崎さん」
七瀬の質問に中心人物である、黒髪の美少女はこう返事をした。
「よく分かってるじゃない。自分が変態だって」
そして彼女の取り巻きらしき少女たちも
「美雪勇気あるよね。私、七瀬きもいから、声掛けれないのに~」
「七瀬とは小学校いらいだから、コイツの弱点よく知ってるんでしょ。さっすが美雪」
と意味のない言葉をはやしたてる。
それを見た七瀬は
「用が無いなら失礼するよ」
と、そのまま彼女たちを無視して、教室を出て行った。
自習室へ向かう途中彼は、友人と話したり、じゃれあったりするクラスメイト他所にこうつぶやいた。
(これでいいんだ・・・)と。
放課後。
七瀬は部活である野球部の練習に、一身に取り組む。
走る事も、バッドの素振りも、彼にとってはこの窮屈な世界で唯一、心臓の奥から呼吸が出来る時間だった。
特に一番自由を感じるのは投球の練習だ。
手に持ったボールを思いっきり投げられる瞬間は、狭い空間から一気に広い世界に飛び出すことが出来た。
(もっと早く。もっと上手に。もうだれも追いつけないように)
彼はただただ誰よりも速く、早く、なりたいために、必死で投球に明け暮れた。
「相生。もう休め」
そう彼に声を掛けたのは、野球部の主将、三島萩彦であった。
「少し根を詰め過ぎだ」
「え・・・?」
七瀬はふと、時計を見た。時計はすでに七時を回っており、グラウンドは薄暗くなっていた。
「あっ。しまった!」
我に返った七瀬はあわてて給水場に向かい、自分の水筒を手に取るとゴクゴクと水を口に含む。体はかなりカラカラだったらしく、水がするすると体に染み渡る。
三島は少しあきれながらため息をつく。
「エースが倒れたらチームもオレも困ってしまうぞ」
「すみません。あれほど自己管理に注意しろと監督にいわれていたのに・・・」
そういって肩を落とす七瀬に、三島はポンっと肩をたたく。
「まあ、それだけ皆お前に期待してるんだ」
七瀬は「・・・はい。」と返事をし、その場を去って行く三島の方を見た。
三島と七瀬の間。
そこには何か冷たい空間が開いていた。
七瀬が家に帰ったのはかなり遅い時間だった。
家族は皆、夕食を済ませた後であり、彼は自分の冷めた夕食をレンジで温めて食べた。
その後、自分で使った食器も洗い、二階の自室へと向かった。
机に向かい、学校で終える事が出来なかった宿題と予習、復習を終える。
次に、母が風呂から出てきた足音を確認してから、最後に七瀬が風呂に入る。風呂場を片付け、入浴前に自分で洗濯機にセットし、洗い終えたユニフォームを脱衣所の外付けのベランダに干す。
そして二階の自室に戻った頃には、七瀬はくたくたに疲れてしまい、パタリとベッドに横になった。
その間、家族の誰も七瀬に声を掛けなかった。
また七瀬も、家族に話しかけた所で迷惑な顔をされるのが分かっていたので、学校であった事も何もかも話さなかった。
「明日は金曜日か・・・。彼に話そうかな・・・」
七瀬は「彼」に話す内容をぼんやりと考えながら、徐々に眠りに落ちて行った。