保健室登校の先輩 5
暖色系の目立つ広間に敷かれたカーペット、その上に置かれたふかふかのソファに座らされる。つい、浅く腰かけてしまったのは仕方ないだろう。
資料になるとか、そういうことでもなく、ついきょろきょろとあたりを見回してしまう。
大きいのか、それとも普通なのか、あるいは小さいものかわからないけれど、一般家庭につけられているシャンデリアなんて初めて見たな。小学校とか中学校のときの演劇鑑賞会なんかが行われたホールに飾ってあったものは見たことがあったけれど、それはそういう場所だからこそだろうし、ここは個人邸宅だ。
日陽先輩は感動したような面持ちでいるけれど、僕はそんな気にはなれず、落ち着かずに、唾を飲み込む。
待っていてくださいと言われたけれど、やはり、藤堂先輩がいないと、なにをしたらいいのか、間が持たない。
そんな中、日陽先輩は普段と変わらない、好奇心を押さえきれない様子で。
「ねえ、空楽くん。写真って撮ってもかまわないのかしら?」
「僕に聞かないでくださいよ。藤堂先輩に聞いてください」
しばらくして、藤堂先輩がゆったりとした部屋着に着替えて戻られると、日陽先輩は待ちきれないとばかりに、さっそく尋ねていた。
目の前の高そうな机の上でお茶の準備をしてくださっている藤堂先輩は、柔らかく微笑まれて。
「写真など、いくら撮っていただいても構いませんよ」
「ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えて」
藤堂先輩に許可をもらった日陽先輩は、さっそく立ち上がり、ポケットからスマホを取り出す。
僕も誘われたけれど、後で撮った写真を見せて貰えればと断った。
「せっかく藤堂先輩が淹れてくださったのに、すみません。落ち着かない先輩で」
どうぞと勧められた、これもまた高そうなカップに入れられた紅茶は、いい香りがした。
「いいえ。紅茶なんて、自分の好きなときに、好きなように、お口に合うように飲んでいただければ、それが嬉しいことですから。それから、ここは藤堂家で、今は仕事に出ていますけれど、父も母も藤堂ですから、私のことは弥生で構いませんよ、秋月さん」
なんだろう。
日陽先輩も、奏先輩も、それから藤堂――弥生先輩も、年上の女性は下の名前を呼ばせるのに、なにか入れ込みでもあるのか? それとも、僕が過敏なだけ?
「わかりました、弥生先輩」
ともあれ、相手がそれを望んでいるのだし、僕としても否はない。まあ、自分のことも名前で呼んで貰うという、そこまではハードルが高く、言い出せなかったのだけれど。
紅茶の違いがわかるほど、舌が肥えているわけではない、むしろ貧乏舌なので、ティーバックではなく、缶からスプーンで取り出して、ポットの中でお湯に呑まれて、踊っている茶葉の名前など、パッケージを見てもさっぱりぴんとこなかった。
「ダージリンです。お好きでしたか?」
そう尋ねられても、返せる言葉もない。
ダージリンだとか、アッサムだとか、それからアールグレイなんかの、名前くらいは耳にしたことがあるけれど、具体的にどんなものなのか、どんな違いがあるのか、ちっともわかってはいない。
「ええっと、すみません。無知なもので、どう違いがあるのかさっぱりで」
どちらかといえば、缶コーヒーのほうが飲むことは多いけれど、それだって、銘柄がわかっているわけでもない。もちろん、紅茶とコーヒーの違いくらいはわかるけれど。
弥生先輩は微笑んだまま、ダージリンというのは世界三大銘茶のひとつで、ヒマラヤの千メートルくらいのところに畑があって、厳しい環境に耐えるために養分が蓄えられ、それが香りやうまみになるのだとか、アールグレイは人工的に香りをつけられた着香茶であり、アイスティーなのが飲みやすいのだとか、アッサムはインド原産の茶葉であり、ミルクティーにするとおいしいのだとか、そんなことをすらすらと教えてくれる。
それから、飲み比べてみますか? とも勧められたのだけれど、慌てて大丈夫ですと断ると、楽しそうに微笑まれた。
「というか、弥生先輩は、休まれていなくて大丈夫なんですか?」
こんなところで――自宅にいる相手に対してかける言葉ではない気もするけれど――僕たちの相手をしているような余裕なんてあるのだろうか?
「ええ。大丈夫ですと言ったとおり、自分の身体のことで、慣れていますから」
そうは言うものの、弥生先輩の表情はどことなく寂し気というか、諦めか、羨望か、そんなものが浮かんでいるようにも感じられた。
慣れている、か。
僕が口出しする――できるようなことではないんだろうな。
「海原さんと秋月さんは文芸部なのでしたよね」
私も本を読むのは大好きなんですと、弥生先輩は宙を見つめる。
小さいころから身体があまり丈夫でなかった弥生先輩は、自宅の花の世話や読書――つまり、家の敷地から出ずに行えること――をして過ごされることが多いのだという。
「それなら、文芸部に入らな――入りませんか、藤堂先輩」
日陽先輩が瞳を煌めかせる。
同士が増えることが嬉しいのだろう。
今のところ、文芸部の部員はふたりしかいないからな。たとえ、それが三年生でも、部員数がふたりの部にとっては大きな前進だ。
しかし、弥生先輩は申し訳なさそうな顔をして。
「お誘いはとても嬉しく思いますが、やはり、活動に参加できず、名前だけを置いていても意味はないと思いますから。お気持ちだけ受け取らせていただきます。ありがとうございます、海原さん」
文芸部の活動は、文化部らしく、それほど運動をするようなこともないのだけれど。せいぜい、ネタ探しの散歩くらいのものだ。
しかし、本人がやりたくないと言っていることを、無理に誘うことはできない。部活なんて、結局、好きでやることだからな。
弥生先輩の体質(と言ってもかまわないのだろうか)が、どういうものなのかはわからないけれど、文芸部の活動なんて、集まって本を読むか作品を書くか、まあ、五分間作文はやっているけれど、せいぜいそのくらいで、僕たちが言ってしまうと身もふたもないのだけれど、部として活動している意味があるのか、微妙なところだからな。まあ、学内に部室が、それから少なからずも部費が貰えるというメリットはあるけれど。
僕にとっては、自分の書いた小説を日陽先輩に読んで貰えて、そのうえ、感想や批評までもらえるという、絶対の価値というか、貴重な体験の得られる場所だけれど、似たようなことは、べつに部に入っていなくても、家でもできることだからな。
あとは、日陽先輩は(それから僕も)気にしないだろうけれど、弥生先輩は三年生だということも気にされているのかもしれない。
それから、古澤さんが持ってきてくださったスコーンも、日陽先輩は大絶賛で、なんというか、そっちが目的なのではと疑いたくもなった。
「日陽先輩。そろそろ」
スコーンを食べ終えたのを見計らい、日陽先輩に声をかける。
あまり長居して、弥生先輩の体調に障るといけないし、僕たちも文芸部員として活動をしたい。
「そうね。それじゃあ、そろそろお暇させてもらいます、藤堂先輩。また、お話しに来てもいいですか?」
藤堂先輩もたくさんの本を読んでいて、話が弾んだことはたしかだったし、僕も楽しかった。
「ええ。ええ、もちろん。おふたりとも、またぜひ、いらしてください」
日陽先輩が尋ねると、弥生先輩は嬉しそうに微笑まれた。
さっきの古澤さんの態度からも、親しい相手がいなかったというのは、事実なんだろうな。
同じ趣味について語り合える相手がいるということの嬉しさは、僕もよく知っている。
また来ます、と約束をして、僕と日陽先輩は藤堂家を後にさせてもらった。




