出会い 5
日陽先輩に渡した原稿には、赤での修正がたくさん入っている。というより、ほぼ真っ赤といっていいだろう。
設定やらの話ではない。日本語として、あるいは文章作法の間違いだ。
文芸部の部室には、パソコンなどという機器は置いていない。代わりにと言ってはなんだけれど、原稿用紙やルーズリーフ、大学ノートは山のように置いてあった。
「これは使用しても構わないものなのですか?」
「もちろんよ。原稿用紙は文字を書かれるために存在しているんですもの」
館先生に入れられた赤ペン、今読むと違和感のある言い回し、それらを適宜修正しながら別紙に起こす。
それにしても、最初の作品だけに、こうしてあらためて読み直すと恥ずかしさが込み上げてくるな。
拙い文章というのもそうなのだけれど、設定の薄さというか、話のつなぎ方というか。
「空楽くん。今は難しく考えなくていいのよ。内容は置いておいて、まずはしっかりとした文章作法で書くことだけを目標にしましょう」
新たに話を考えるのではなく、元々ある話を修正するだけだ。
思い出しというか、羞恥や後悔、反省に気を盗られなければ、書き直すという作業自体はそれほど大変なことではない。もちろん、手や指は疲れるけれど。
二時間くらいかけて僕が小説の修正をしている間、日陽先輩は椅子に座って小説を読んでいた。ゆっくりと、一文字一文字を噛みしめるように、実に幸せそうな顔で。
本当に、読むことが好きなんだなあ。
僕も、好きな物語は何度読んでも、同じように感動できるし、その気持ちはよくわかる。
ここの言い回しはこっちに変えたほうがいいかな。
あー、ここ誤字してる。こっちは脱字。
あれ? この台詞喋っていたのって、別の人物じゃないか?
読めば読むほど、自分の未熟さが浮き彫りになり、恥ずかしさとともに、嬉しさも込み上げてくる。
そうか。まだ僕にはこんなに、いいいや、ここにもまだないものも含めて、ずっとたくさんの成長する余地が残されていたんだな。
一作品を書き終えたときには、これ以上の話なんて作れない。できることは全部出し切った。これが最高のヒロインだ。
そんな風に考えていたけれど、こうして直していると、どんどん新しいインスピレーションを貰える。
書いている最中でも、直前に書き直したところに新しい表現、付け足しが思い浮かぶ、
そのたびに、そのシーンに戻り修正を施し、その都度書き直し。
「空楽くん」
そんな風に日陽先輩にやさしい声をかけられるまで、時間が経っているのを忘れていて、ふと窓の外へと視線を向ければ、すっかり日の沈んでゆく時間になっていた。
「あっ、すみません、日陽先輩。もしかして、下校時間ですか?」
「ごめんなさい。真剣に紙に向かっている空楽くんのことは、もう少し、やらせてあげたかったのだけれど、ここの鍵も返さないといけないし」
ごめんなさい、と頭を下げる日陽先輩に、こちらこそご迷惑をおかけして、と謝って、原稿用紙と筆入れを片付ける。
あー、なんか、すごく肩と首が痛いかも。
そう思って、首を回せば、すごい音がした。もちろん、肩も。
「ふふっ。ずっと同じ姿勢で頑張っていたものね」
「付き合っていただいて、すみません、日陽先輩」
せっかく待望の新入部員だったらしいというのに、僕は自分の小説を直すことに没頭し過ぎていた。
日陽先輩は、もっと他にしたいことがあったかもしれないかったのに。
「いいえ。私も空楽くんが一生懸命自分の作品を書いているところを見ていられるのは、とっても幸せな気分だったわ。ああ、今、まさにひとつの物語の誕生の瞬間に立ち会っているのねって、とっても特別な気持ちになれたわ」
「そうなんですか?」
そう言われても、僕にはさっぱり……って、時間!
「すみません、日陽先輩。慌ただしいですが、これで失礼させていただきます。この後、用事があるので」
「用事?」
机の下にあったスクール鞄を肩に掛けた日陽先輩は、興味深そうな顔をして。
「お家の用事? それとも、誰かと約束かしら?」
約束、ではあるだろう。
「実は、昔から武術を習っているのですが、週に数度、平日は放課後に稽古をつけていただいているのです」
「そうだったの。バスとか電車の時間は大丈夫かしら?」
「ええ。自転車通学ですから」
そう答えると、日陽先輩は真っ赤な瞳をぱちくりとさせて。
「お家が近いのね。私も近所なのよ。バス通学だけれど」
「そうなんですか」
それなら、もしかしたら、小学校とか、中学校とかでも、すれ違うくらいはしていたのかな。ひとつしか違わないわけだし。
いや、でも。
僕は日陽先輩のことを、失礼とは思いつつも、じっくりと観察するように、上から下まで眺めてしまう。決して、やましい気持ちがあったわけではないけれど。
真っ白な髪に、真っ赤な瞳。
これだけ十分に日本人離れしていたら、一度見たら忘れられないと思うけれど。
しかし、小学校でも、中学校でも、そんな先輩がいるという話は聞いたこともなかった。
「どうしたの、空楽くん。あっ、だめよ、私はまだ高校二年生だし、空楽くんだって、入学したばっかりでしょう。そういうのはもっとちゃんと、好きな人としっかり話し合って、結婚してからでないと」
日陽先輩は真っ赤になって、ひとり芝居のようになっている。
いったい、なにを言い出しているんだこの先輩は。
これって、逆セクハラで訴えられるのではないだろうか。
「そんなことしませんよ」
もしかして、最初の官能小説の話が尾を引いているのか?
だいたい、たしかに日陽先輩は美少女ではあるけれど、現実の世界でそんなアダルト小説のようなことをすれば、即逮捕だ。普通の人間ならば、理性が勝る。
僕は心の底からのため息を吐き出して。
「あー、空楽くん、今、先輩を馬鹿にしたでしょう」
「していません。呆れているだけです」
黙って椅子に座って本を読んでいれば、まぎれもなく美少女なのに、どうしてこう、妄想たくましいというか、いや、それこそが文芸部員に重要な素質だというのなら、日陽先輩はまさに文芸部員であると言えると思うけれど。
鍵を返して校舎を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
春先なので、そこまで寒くはないけれど、日陽先輩は手袋をしていた。
よく見れば足にも黒いタイツを履いているし、もしかして、結構な寒がりなのかもしれない。
夜の空には半月が雲の合間から見え隠れしていた。
淡い光に照らされた道には、僕たちの他にも、ちらほらと下校途中の生徒の姿も見える。
「僕は自転車通学ですけれど、日陽先輩はバスなんですよね」
「ええ、そうなの。住宅街の向こうにアパートが並んで三棟あるでしょう。あそこの一号棟なのよ」
駅から学園まではバスで四十分ほど。
通行規制とか、信号――は自転車も同じか、それを考えても、バスのほうが楽な距離であることには違いないだろう。
日陽先輩は文科系少女で、あまり運動も得意そうな身体つきはしていないからな。
「じゃあ、空楽くん、また明日」
「はい、また明日です、日陽先輩」
僕は自転車にまたがり、日陽先輩に背を向けたところで。
「あっ、空楽くん」
後ろから呼びかけられて、振り向いた。
日陽先輩はやわらかな微笑みをたたえていて。
「初めにも言ったけれど、今日は来てくれて嬉しかったわ。本当よ。ありがとう、空楽くん。できるなら、これからもよろしくね」
「できるならって、それはむしろ、こちらからお願いしたいことですよ、日陽先輩。本当に、ありがとうございます。明日からもよろしくお願いします」
ものを書く人間にとって、読んで、それに感想までくれる相手が、どれほど助かり、心の支えになることか。
文芸部にいるのだから、日陽先輩だってそのことはわかっているはずだ。
なのに、わざわざ口にするなんて。
「日陽先輩。また明日です」
「ええ、空楽くん。また明日」
今度こそ、僕たちはそれで別れた。