目の前にチャンスが降りてきたのなら 9
◇ ◇ ◇
「いやあ、たいしたことだよ」
「そうですよ、奏先輩。すごいことです」
下校時刻になり、僕と日陽先輩が下駄箱に行くと、偶然、軽音部の人たちも帰るところだった。
なにかいいことでもあったのか、会話が盛り上がっているというか、より正確にいえば、奏先輩を囲んで、尊敬とか、羨望とか、そういった類の視線を向けているような気もする。
当の奏先輩はといえば、照れているのか、それとも別の感情なのか、ぎこちない感じで笑っている。
「あっ、少年。きみは奏の知り合いだったね?」
僕と日陽先輩に気がついたらしく、大野先輩に声を掛けられ、僕たちは会釈を返した。
すでに夕方過ぎではあったけれど、その日初めて会った相手ということで、おはようございますと挨拶をさせてもらい。
「えっと、大野先輩、でしたよね。奏先輩がどうかしたんですか?」
「実はさっきレコード会社の人が訪ねてきてね。どうやら、オーディションを受けてみないか、というスカウトだということだったんだ」
どうやら、この前のこども祭りと、路上ライブで、奏先輩に注目したていた、ということらしい。
それは本当にすごい。
音楽だって、小説と同じように、年齢は関係ないことだとはいえ、高校二年生の奏先輩が直接声を掛けられるなんて。
もちろん、僕は音楽には詳しくないので、実際にどれくらいすごいのかということは、想像でしかないのだけれど。
「おめでとうございます、奏先輩」
「え、あ、うん。その、ありがとう、空楽くん……」
しかし、奏先輩は、どこか上の空というか、心ここにあらずというか。
なんだろう。やはり、結果次第では、学生バンドから、いきなりのメジャーデビューかもしれないということで、信じられない気持ちだということだろうか。
大野先輩たちが話してくれたところによると、どうやら、一次で面接、二次で実際に演奏するということらしい。
「私たちはこれから奏の激励も兼ねてミニヨンに寄るつもりなんだけれど、二人も来るかい?」
そう誘われたけれど、僕たちは遠慮させて貰った。
財布の中身が心もとない、ということではなく、いくら当事者には気にすることはないと言われたとはいえ、そんな席に並ぶのは躊躇われたからだ。
「あれ? 奏先輩の激励、ということは、声を掛けられたのは皆さんも一緒にということではなく、奏先輩個人が、ということですか?」
まあ、奏先輩はギター兼ボーカルで、たしかに、バンドの中でも一番目立つポジションだからな。
それに、僕も奏先輩の演奏と歌声が、一番耳に残っているし。
「そうなんだ。ソロアーティストのものだったの。だから、私、まだ返事ができていなくて」
奏先輩がそんな風に、なぜか、自信なさげなのに対して。
「聞いてくれよ、二人とも。普通、そんな風に声を掛けられたら、ふたつ返事で了承するだろう? オーディションとはいえ、そんなチャンスにすら、いったい、何度巡り合えるかわからないんだから。それに、奏は、自分から受けに行くというのではなく、先方から受けてみないか、と誘われたんだぞ」
「そうですよね。私たちは少し寂しいですけど、奏先輩にはすごいチャンスですもんね」
「応援してます、奏先輩」
「悔しいけど、私たちもこのまま止まるつもりはないよ。だから、奏は心置きなく行ってきなよ」
他のメンバーの人たちは、多少、思うところがないわけではなさそうだけれど、すごく興奮しているというか、喜んでいる様子だった。
軽音部のメンバーにそう背中を押されていた奏先輩たちを見送る。
なんとなく、一緒に昇降口を通るのは躊躇われた。
「凄いですね……」
「ええ。でも、あの演奏なら納得だわ。私、音楽のことは、全然わからないけれど、あの演奏は胸に響いたもの」
熱気の去っていった下駄箱に立ち、僕たちはどちらからともなく、そう呟く。
高校生をスカウトとか、現実にあることだったんだな。なんだか、遠い世界のことのような気がしていた。
「でも、違う世界だとか、そういう話ではないんですよね。僕たちだって、べつに年齢で評価が変わるわけではありませんから」
小説だって、すごい作品、面白い作品だと認められれば、受賞するだろうし、本にもなるだろう。
それが、中学生、高校生の作家だとか、あるいは、定年を過ぎたご老人の作品だとか、そういうことは、ほとんど考慮されないだろう。多分。
「そうね。どんなことでも、それが人に感動を与えるだろうと判断されれば、本になるものね」
僕たちなんて、ほとんど部外者なわけだけれど、せっかく知ったことだし、なにか、お祝いとかしたほうがいいのかな?
プリン? でも、『昼休みデザートプリン』としてではないという話らしいし。
「日陽先輩。僕、今なんだかとっても小説を書きたい気分です」
ネタがあるわけではない(ないこともない)けれど、こう、ペンを動かしたいというか、キーボードを叩きたいというか、そういう衝動が。
いや、それはいつも思っていることなのだけれど、今は特別というか。
「負けられないとか、負けたくないとか思った?」
「どうなんでしょうね」
日陽先輩の言うことも、たしかに、本音の一部ではあるだろう。
いや、それこそが本音なのかもしれないな。表現者として、負けたくないと思わされたというのが。
そう答えると、日陽先輩はなんだか眩しそうに微笑んでいた。
差し込む夕日のせいだろうか? 最近、日も随分長くなってきたからな。
「どうかしましたか、日陽先輩」
「いいえ。ただ、後輩の成長が素直に嬉しいなって」
なんのことだろう?
僕の小説の表現の実力なんて、そんなにすぐには……まあ、書き始めの頃から比べれば、月とスッポンどころではない進歩があったわけだけれど、それは、そもそも、僕に基本的な知識がなかっただけだし、今言われるようなことでもないと思う。
「そういうことじゃないわよ。空楽くん、自分のことだから、案外、気付き辛いのかしら? それとも、ふふっ、わざと?」
そんな風に日陽先輩が笑う。
なんだ、わざとって。
僕はそんな、どこぞの鈍感主人公のようになった覚えはない。
「前、といっても、それほど前でもないけれど、以前の空楽くんなら、こう、わーって感じになって、また自分の殻に閉じこもっていたような気がして」
「そん――」
そんなことはない、とは言い切れなかった。
実際、別ジャンルとはいえ、評価されている奏先輩に嫉妬して、また感情の負のスパイラルに陥っていた可能性はかなり高かっただろう。
それが、日陽先輩に促されたからとはいえ、素直に、負けられないとか、負けたくないとか、そういう感情を持てたということは、少しとは言え、僕自身、成長――技術的なことではなく――できている証拠なのかもしれない。
いや、自分で言うのも恥ずかしいけれど。
「そうですね。でも、今はそんなふうに極端になる気はしませんし、そんなつもりもありません」
日陽先輩が、僕の小説を読んで、素直に感想をくれるから。
たとえ、この世界にたった一人だけだとしても、絶対に読んでくれるという信頼は、なにより嬉しいことだった。
「あら、だめよ、空楽くん。私が読んでいるだけで満足してちゃ」
「満足なんてしていませんよ。ただ、なんて言ったらいいんですかね、前ほど焦らなくはなったと言いますか」
もちろん、落選すれば、また落ち込むだろうことは変わらない。
けれど、どんな作品だろうと、日陽先輩が読んでくれるのだと思えば、また、次の作品を書く勇気も湧いてくる。
「受かると良いわね、沖田さん」
「そうですね」
僕たちは、奏先輩たちが歩いて行った先を見つめた。




