七海春善の謎 37
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引きこもりの部屋から顔を出した天照――ではない、日陽先輩を、海原家のご家族は温かく迎えられた。
光輝さんと朝香さんは照れているような、あるいは嬉しそうに、しかし、二人とも頬を紅く染めていたけれど、御両親は申し訳なさそうなお顔をされていた。
しばらく見つめ合われた後。
「……日陽さん」
ぎこちなくはあったけれど、咲嬉さんが日陽先輩のことを真っ直ぐに名前で呼ばれたのは、僕がこの海原家にお邪魔させていただいてから初めてのことだっただろう。少なくとも、僕の聞いている限りでは。
母親が子供の名前を呼ぶなんて、僕たちからしてみれば、普通というか、当たり前というか、それ以前の問題で、しかし、この親子にとっては大きな一歩だったのだろうことは、日陽先輩の驚いたような、あるいは、それでも浮かべている微かな笑みから想像できた。
「ごめんなさい。あなたにあんな小説を書かせるまでに追い詰めてしまって」
さっき僕の言ったことが届いていなかったのかと、僕は反射的に反論しようとしたけれど、弥生先輩と一ノ瀬先輩に止められる。
「いいんです、お母さん。あの経験だって、今の私を構成する一部です。あの小説が書けたからこそ、私にはこうして気の置けない友人がたくさんできましたから」
友人かなあ。
同学年である一ノ瀬先輩にはそう言っても構わないかもしれないけれど、弥生先輩と僕はどうだろう。
中学時代、体育会系の部活で、仲は良好だったとはいえ、上下関係ははっきりしていた部活に所属していたから、あるいは道場でも目上は敬うものだと教わっているからか、そういう関係であることにどことなくひっかかりを覚える。
弥生先輩は嬉しそうだし、細かいことを気にするのは野暮というものかもしれない。
「気の置けないと思ってくれているのなら、こうなる前にきちんと説明しておいて欲しかったわね」
一ノ瀬先輩は今回の日陽先輩の暴走を簡単に許されるつもりはないのか、あるいは、今後同じような騒動を引き起こさせないための予防線のつもりなのか、簡単に流されたりはされなかったけれど。
「あなた一人の身体ではないのよ?」
「うぅ、ごめんなさい」
真面目な雰囲気だったので、下手に茶化したりはしなかったのだけれど、言葉を飲み込んだところを見咎められて、一ノ瀬先輩には呆れたような視線を向けられる。
「秋月くん。なにか言いたいことでもあるのかしら?」
「いえ、滅相もありません」
たった一言からでも自在に妄想を膨らませることができるのは、作家としては称賛に値する能力だと思うけれど、それを対象に悟られては自然な行動を見られなくなり、小説の参考にするには多少弱くなる。
もちろん、演技をすることが悪いと言っているわけではない。時と場合によるというだけで。
「せっかくだし、お茶にしましょうか。駅前の……いえ、こんなにたくさん素敵なスウィーツがあるんですもの。わざわざ買いに出かける必要もないわね」
皿に並べられた、弥生先輩の作られたたくさんのスウィーツを見て、日陽先輩は表情を綻ばせる。
日陽先輩を連れ出すために弥生先輩がお菓子を作っていたのは知っているし、僕も本当に微力ながらお手伝いもさせてもらっていたけれど、これほどの量になっていたとは思っていなかった。
そういえば、クッキーやら、マフィンやら、ドーナツやら、色々種類もあるなあと思ってはいた。ひとつひとつはそれほどでもないけれど、種類が集まると、これだけの量になるのか。
もちろん、以前、カロリーの話をして空気を固めたことのある僕は、余計なことは口にしない。
あっ、スウィーツで思い出したけれど。
「そういえば、奏先輩たちに協力をお願いしていたのをすっかり忘れていました」
定期試験直後で、クリスマスライブ直前というこの時期に、まあ、お願いしたというよりは、現状を話したら駆けつけてくださると言われたというのが正しいのだけれど。
そう口にした矢先、海原家の御屋敷のチャイムが鳴らされる。
「海原さん。もうすぐ――あれ、皆揃ってる」
ギターのケースを背負った奏先輩に続くように、軽音部のメンバーの方たちがひょっこりと顔を見せられる。
「もう解決していたのか。ひと足遅かったようだね」
「和美。それだと、残念がっているように聞こえるわよ。解決したのなら良かったじゃない」
「漫画やアニメだと私たちの演奏で心を動かすみたいな展開になるかと思ったんですけど」
「仕方ないわよ、栞。これは軽音部じゃなくて、文芸部の物語だったのよ。主人公が私たちじゃなかったのも当然だわ」
駆けつけられた軽音部の人たちを見て、やはり、海原夫妻は驚かれていた。朝香さんと光輝さんは喜んでいるみたいだったけれど。
バンドをやっている人たち、というのは格好良く映るものだし、奏先輩たちは容姿も整っていらっしゃるから、余計にかもしれない。
「それじゃあ、せっかくだからプリンも作りましょうか」
咲嬉さんが嬉しそうにキッチンへ向かわれ。
「ねえ、でも、せっかくここまで来たんだし、一曲くらい演奏しない?」
奏先輩がそう提案され、最初はそのつもりでいたとはいえ、僕たちは予定よりきちんとした形で、ライブを観賞できることになった。
「初めまして。奏の父の源一郎です。とはいっても、今日は僕の出番はないみたいですが」
どうやら、奏先輩のお父上が、ここまで『昼休みデザートプリン』のメンバーと楽器を運んでくださったらしい。もちろん、車で。
指揮者をしているという源一郎さんは、年末にもどこだかの公会堂でオーケストラを振るらしく、大変忙しいらしいのだけれど、娘――奏先輩のお願いで、ここまで付き合ってくださったらしい。
源一郎さんは順繰りに僕たちの顔を見回され。
「きみが秋月空楽くんだね」
なぜか、僕のところにまで視線を戻された。
「え、ええ、そうですけれど……」
なぜわかったのか……いや、この場には僕が奏先輩にお声をかけて来ていただいたのだし、男は僕一人しかいない(晴彦さん、光輝さんは歳が離れているし、源一郎さんは当人だ)のだから、わかるのも当然か。
初対面であるはずの僕に、いったい、なんの話があるというのだろう。
いや、奏先輩には事あるごとにお世話になって、ご面倒をおかけしているし、そのことでなにか言われるのかもしれない。
しかし、源一郎さんはすぐに表情を崩されて。
「きみのことは奏からよく話を聞いているよ。なんでも頼りにしてくれて嬉しいとか――」
「お父さん! 今その話はしなくていいから!」
奏先輩は焦ったような様子で源一郎さんを(可哀そうにも思えたけれど)隅のほうへと追いやられて。
「空楽くん、お父さんが言っていたのはなんでもないから。忘れて」
「いや、言っていたと言われても、途中までしか聞こえていませんでしたから」
決して、僕が難聴なのではない。そんな主人公的スキルは備わっていない。単純に、奏先輩の言葉が被せられてしまい、その後の言葉がかき消されたというだけだ。
「そ、そう」
奏先輩は、喜んでいらっしゃるような、残念なような、複雑な表情を浮かべていた。
よくわからないけれど、きっと、スウィーツを食べたら機嫌も直るのではないだろうか。
文芸部にいて学んだことだけれど、やはり、女性が甘いお菓子を好きだというのは、おおむね、真実であるようだから。弥生先輩の手作りなら、味は絶品に違いないし。
もちろん、奏先輩たち『昼休みデザートプリン』のライブは大盛り上がりだった。
観客こそ、僕たち数人しかいなかったけれど、そんなことは大した問題ではなかった。




