七海春善の謎 35
しばらくの間、周囲は静寂に包まれていた。
僕たちもなにも言葉を発したりしなかったし、日陽先輩からの返答もなかった。
「……とても面白いお話しだったわ」
ややあってから、呟くような声が聞こえてきた。
「ついこの間まで小説の書き方もわからなかったんです、なんて言っていた空楽くんが、こんなにいいお話しを書けるようになって先輩として私も嬉しいわって言ったら、偉そうですねって叱られてしまうかしら」
日陽先輩の声は届いているものの、どこか遠くへ向かって話しているように聞こえ、おそらくはドアに背中を預けているのだろう。まだ、こちらを振り向かせるには足りないようだ。
「それは、館先生ももちろんそうですが、弥生先輩と一ノ瀬先輩、それから、一番は日陽先輩のおかげですよ」
日陽先輩が読者でいてくれなければ、四月のあの時点で、僕は小説なんて書くのを止めてしまっていただろうから。
「日陽先輩はいてくれるだけでいい、とは言いません。これから先も、僕の小説を読んで、感想をいただきたいと思っています。そして、その感想は日陽先輩だけのものですから、他の誰かに務められるものではありません」
それはもちろん、弥生先輩と一ノ瀬先輩にも、あるいは、小説を読んでくれた誰にでも当てはまることだけれど。
「もちろん、来年以降、新入生が入ってくれるかもしれません。ネットにあげている小説にも、読者はついてくれるかもしれませんし、中には奇特な方が……なんて言ってはいけませんね、親切な方が感想をつけてくれることも、あるかもしれません」
そのどれもありがたいことではあるけれど、やっぱり、僕の小説の一番の読者である日陽先輩の感想がなによりも得難いものであるという事実は変わらない。
「――あっ、いえ、べつに、弥生先輩や一ノ瀬先輩の感想が嬉しくないとか、そういうことではありませんから。おふたりにも、とても感謝していますから」
もちろん、奏先輩にも、縁子ちゃんにも、氷彩さんにも、読んでくれる人には、すべからく。
「……空楽さん。その、女性とそういう話をしているときには、他の女性の方のことはあまり口に出されないほうが」
弥生先輩は変なところを気にされるんだな。
いや、ライトノベルにおいて、好意を寄せている主人公が他のヒロインと一緒にいるところにやきもちを焼くヒロインという構図は、よくあるどころか、様式美とか、定番などといわれる以前の問題であることは事実だけれど。
「秋月くん。そういう話は創作とはあまり関係ないわよ」
一ノ瀬先輩がやや呆れたような感じでわずかに目を細められる。
「いえ、ですから、今はラブコメの話をしているわけではなくて、日陽先輩を説得しようとしているわけなので」
告白でもするときには、それはたしかに、わかりやすく、ストレートに告げるべきだとは思うけれど。
僕はただ、これからもずっと日陽先輩に僕の書いた小説を読んでもらって、感想を聞いたり、ネタ探しをしたり、表現力向上の訓練をしたり、知識や体験を手に入れたり、小説家を志す者としては失格かもしれないけれど、そのほかにもたくさん、言葉で語りつくせないほどの体験を共有したいと思っているだけだ。
「とにかく、僕には、いえ、僕たちにはこれからも日陽先輩が必要です。それだけで足りないというのでしたら、無理やり、理由づけをしても構いませんよ」
日陽先輩が抵抗を諦める気になるのであれば、どんな言葉も尽くせるというものだ。
「出会ったころ、僕がネットにあげた小説の件で不貞腐れていたとき、日陽先輩がかけてくれた言葉は、本当に嬉しくて、勝手ではありますが、救いになるものでした。ですから、今度は僕に日陽先輩がそこから立ち直る役目をください」
誰になんと言われようと、秋月空楽は海原日陽に感謝している。
それは尽きることはないし、これから先も増え続けていってほしいと思っている。
「でも、私と一緒にいると空楽くんたちまで奇異の目で見られるかもしれないわ」
おそらく、小学校、中学校時代に同級生に言われたことが、日陽先輩の中ではいまだにトラウマとなっているのだろう。
過去に戻ることができるというのであれば、そんなことを言うような感性がマイナスに振り切れているような相手のことは、文字どおり、ぶっ飛ばしてやりたいところだけれど、そんなことが現実でできるはずもないし、いまさら見つけたところで、悪口を言った本人はそんなこと覚えてもいないだろう。
言われたほうはいつまででも覚えているけれど、言ったほうはすぐに忘れてしまうものだ。
しかし。
「なにを言っているんですか、日陽先輩。奇異の目で見られているのではなく、羨ましがられて見られているんですよ」
小学生男子がよくやってしまうという、伝説の、好きな相手にはつい意地悪をしてしまうんだ現象というやつだ。
どうせ、人間、皆老いるし、そうなれば全員、髪の毛なんて白くなるものだし、プールや海にでも入れば、目だって赤くなるものだ。
そもそも、銀髪のヒロインは人気が高いことが多いし、美人、美少女として書かれることが大抵だ。
そんな、日々、創作の波に溺れている僕からすれば、むしろ、素敵な要素だとすらいえる。他人は見る目がないと、優越感を覚えたりもするかもしれない。いや、僕自身はそこまで性格が悪いつもりではないけれども。
「僕は日陽先輩の真っ白な髪も、真っ赤な瞳も、大好きですよ。他の人がいらないというのであれば、僕がすべていただきたいくらいです」
これはさすがに引かれるだろうか。
いや、でも、事実しか口にしていないわけだし、かまわないよね?
「で、でも、私はあまり陽射しの下にも出られないことは事実よ。身体に異常が発生したり」
「……私も長時間外にいることは得意ではありませんし、外で運動するよりも、家の中でお菓子を作ったり、本を読んでいるほうが好きです。身体もあまり強いほうではありませんし」
今度は弥生先輩が手助けをしてくださる。
身体が弱いことだって、だからなんだと言ってしまえる。
弥生先輩だって、毎月病院に通われているけれど、そんなことを気にしている人は、すくなくとも極浦学園には存在しない。
「……それとも、日陽さんはそういう身体の弱い人は皆、表舞台に立つべきではないとおっしゃりたいのでしょうか?」
日陽先輩がそんなことを言いたいわけではないということは、弥生先輩にも、僕たちにも十分過ぎるほどにわかっている。
そもそも、日陽先輩の――七海春善先生の書かれた小説の登場人物によって、その説はとっくに、作者自身の手によって、否定されているのだから。
たしかに、あの小説では結末まで――ようするに、告白だとか、結婚だとかまでは――書かれなかったことは事実だけれど、ヒロインが立ち直ったということも、また、事実ではあるのだから。すくなくとも読者的には、そういう認識でいるということだ。
「……そんなことはありませんけれど」
「私は極浦学園の生徒会長として、一人の生徒が有望な前途を投げ出そうとしているところを、黙って見過ごすわけにはゆかないわ」
日陽先輩の迷いを断ち切るように、一ノ瀬先輩がはっきりと宣言される。
「あなたがどんな思いであの小説を書いたのか、本当のところを押し量ることは、私たちの誰にもできないわ。もちろん、限りなく近い推測は可能かもしれないけれど。現代文のテストみたいにね。でも、はっきりわかることは、あの小説が素晴らしい作品だということよ」




