私が読むわ 6
募集している賞は数あれど、応募するにはどれも、十万文字以上が必要だった。
これはおそらく、単行本を一冊出すのに、最低でもそのくらいの文字数は必要だということなのだろう。
四月末の締め切りの賞に応募するためには、残り一週間とちょっとでそれだけ書かなくてはならず、全て書き直した場合、一日のノルマはおおよそ一万四千文字とちょっと。原稿用紙にすると、約三十六枚分だ。
かなり無茶苦茶な目標設定だと自分でも思うけれど、とりあえずの目標はあったほうがいい。
大丈夫。
設定自体はこの間のものを使えばいいのだし、大まかなストーリーラインもできあがっている。
なにより、僕がどんな物語を書いたところで、絶対に最後まで読んでくれるという人が、一人は確実に、今僕の目の前にいるのだ。その安心感はモチベーション的にもかなり大きい。
時計の針の音すら聞こえないくらいに執筆に没頭する。
部室にもパソコンがあって、インターネットに繋がれば、面倒なこと――つまり原稿用紙からの写し――をする手間が省けるのだけれど、もちろん、そんなハイテクなものはこの部室にはない。
そもそも、もらえる部費だけでパソコン一台を買えるほど、文芸部は人員がいるわけではないだろうし。なんと言っても、今の部員は僕と日陽先輩だけのふたりきりなわけで。
スマホで打つのは、それ以上に面倒だし。
「それなら、パソコンルームに行きましょう」
そう言って、日陽先輩が立ち上がる。
「え? パソコンルーム?」
「ええ。校舎の一階にあるのは知っているでしょう?」
もちろん、知っている。
正面入り口から入ったすぐ脇といってもいい場所にあるその部屋、というより、ラウンジのようになっている場所だけれど、そこのことは、毎日、嫌でも目に入るからな。
「けど、あそこって、授業に使う場所ではないんですか?」
放課後の、いわば自由時間ともいえる部活で使用しても構わない場所なのだろうか。というより、普段は鍵がかかっていて入れないようになっていると思ったのだけれど。
「大丈夫じゃないかしら。ちょっと、私、先生のところに行って聞いてくるわね」
そう言い残し、日陽先輩は部室から出て行ってしまう。
まさか、強引に許可をもらってくるつもりじゃないだろうな。
いや、それを僕が気にしても仕方ない。そんなことより、現実に差し迫っている問題として、時間はどんどん消費されているのだ。一秒だって、無駄にはできない。
ほとんど思いついていたというか、出来上がっていたストーリーだけあって、執筆作業は滞りなく進む。考える時間がほぼないに等しいのだから、当然といえば当然か。
出て行ってから十分もしないうちに日陽先輩は戻ってきて。
「許可は貰えたわ。行きましょう、空楽くん」
「早過ぎませんか?」
思わず声に出してしまった。
「えっへん。もっと先輩のことを尊敬してくれてもいいのよ」
日陽先輩は薄い胸を張りながら、おそらくは自分が格好いいと思っているのだろうポーズで鍵を指の間に挟み、もう片方の手には。
「それ、USBですか?」
「ええ。必要でしょう?」
それは、あったほうがはるかに助かる、というか、段違いだけれど。
「どうしたんですか、それ。まさか、先生の机から勝手に拝借してきたというわけではないですよね?」
「失礼ね。そんなことしないわよ。きちんと先生に理由をお話しして貸していただきました。家に帰れば新品のものもあるのだけれど、今日のところはこれで我慢してね」
なんというか、行動力の凄まじい先輩だな。
「いちいち、部室から移動するのも面倒――時間の無駄だし、通販サイトで注文して、学園に届けてもらいましょう。今なら、明日には届けてもらえるはずだわ。一番安いノートパソコンなら、部費で十分に賄えるはずだし。それから、インターネットの回線も引いて貰って――」
日陽先輩の話は、僕を置き去りにして、どんどん進む。
部費って、それはさっき、ふたりだからあまり出して貰えていないと言って……いや、聞いてなかったか。
「日陽先輩。部費って、そもそも、貰えているんですか?」
昨年まで、日陽先輩ひとりきりだったはずだけれど。
いや、そういえば、部室に置く本のために使っているのを見た、聞いた記憶はある。しかし、本当にパソコンを購入して、ネット回線まで引いてもらえるほどにあるのだろうか。
というかそもそも、勝手にそんなことをして大丈夫なのか? いや、許可をもらっているというのは、そこまで含めてのことなのか?
「……そんなことの心配は、空楽くんはしなくて大丈夫よ。部長であるこの私がしっかりやっておくわ」
なんだろう、今の間は。
かなり怪しい。
「日陽先輩、本当に大丈夫なんですか?」
まさか、怪しげなお店でバイトするとかって話じゃないだろうな。
たしかに、日陽先輩の体型のほうは、そういうお店で働くには少し――いや、かなり不向きだろうとはいえ、間違いなく、顔はいいからな。なにしろ、普通の日本人ではありえないだろう、真っ白な美しい髪と、真っ赤な綺麗な瞳だ。
とはいえ、現代日本で髪を売るとか、あるいは売血なんて、できなかったと思っていたけれど。
「本当に大丈夫よ。べつに、バイトをするとか、そういう話でもないから。部費はあるのよ、本当よ」
日陽先輩が、証拠を持ってくるわなどと言い出して、職員室まで舞い戻ろうとするので。
「べつに、疑っているわけではないので大丈夫です」
本当は半信半疑だけれど、日陽先輩がそこまで言うのなら、信じても大丈夫だろう。
いずれにしても今の僕にできることは、ただページを埋めることだけだ。
パソコンルームで、僕がキーボードに指を走らせる正面で、日陽先輩は腕を枕に、机に頭をつけるような格好で微笑んでいた。
「……どうかしましたか、日陽先輩」
「うふふ。なんでもないわ。ただ、空楽くんがこうして一緒にいてくれるのが嬉しいなって」
なんでもなくないじゃないか。
そういう恥ずかしいことをさらりと言わないでほしい。
僕は顔がほてり始めたのを誤魔化すように、手で扇ぐような真似をしつつ。
「……あの、ずっと見られているのも気になるので、日陽先輩はどこかそこらへんで、適当に小説でも読んでいてくれませんか」
執筆姿なんて、見ていて面白いものでもないだろう。ただ、キーボードをカタカタと叩いているだけなのだから。
なにより、落ち着かない。
「はーい」
日陽先輩は一旦部室へ戻って小説を抜き出してきて、また隣の席に座り直した。
だから……はあ、もう、いいか。多分、なにを言っても無駄だろう。
集中するんだ、秋月空楽。この程度のことで集中できなくなるほど、軟弱に鍛えていたつもりはないぞ。
自分で自分を叱咤し、そういえば、ここの表現は似たよう箇所があの本にあったような、なんて、途中で参考にしたりもしながら、僕はキーボードに指を走らせ続けた。パソコンの置いてある机の上には、日陽先輩が持ってきたものも含めて、十冊ほどは小説が溜まっていた。
執筆は、思ったより、というより、おそらくは小説を書き始めてから一番と言えるほどにはかどり、書き終えた原稿用紙――正確にはページだけれど――がどんどん溜まる。
目の前で積みあがってゆくページ数を見るのは、なんというか、こう、嬉しいというか、ある種の達成感というか、気持ちを高揚させてくれる。
いやいや、落ち着け。まだ、なにも為してはいない。
とはいえ、気分高揚効果があることは事実。
十枚くらい溜まったところで、いちいち、スクロールしてしまうほどには、顔が緩んでしまう――って、だから、緩んでどうする。
「空楽くん、楽しそうね」
「ええ」
勝手に話が浮かんでくるなんて、そこまでの境地には達していない。
事前に組んだプロット――つまり、例の小説――に肉付けをしているだけだ。
それでも、これだけ気分まで乗るのは、初めてではないかと思えるほどだった。
時間を忘れ、見回りが来るまで、部屋からは文字を打つ音が途切れることはなかった。




