文化祭 4
「全然、そんな、みっともないところなんて……」
小説は時間をかけて文章を考え、推敲し、手直しをすることができる。
しかし、現実での機会は一度きり、それも突然訪れる。かけられる言葉なんて、僕に咄嗟に思いつけるはずもなかった。
「すみません、少し抜けますね……」
そう言い残して教室の前から立ち去る氷彩さんを、このままひとりで行かせるのはよくないと感じた。
僕には女心なんてわからないし、慰め方も知らない。口説くのなんてもってのほかだ。
でも、氷彩さんの絵を初めて見たときの感想に嘘はない。それだけは、心の底から思っている。
「氷彩さん」
おそらく、そういう場所を目指して歩いていたのだろう。
別棟の屋上には、どこの団体の出店もなく、他の人の姿は見当たらない。
手すりに腕を乗せて、校庭を見下ろすように文化祭の様子を眺めているような格好の氷彩さんは、僕が声をかけると、ゆっくりと振り返り。
「……なんで追ってくるんですか」
拒絶の言葉。
というより、人間誰だって、ひとりになりたい時というのはあるだろう。そんなところに、他人が入ってきたのだから、それは拒絶したくもなる。
「ごめん。ひとりになりたいかなとも思ったのだけれど、なんとなく、その、放っておけなくて。あっ、いや、べつに、口説いているつもりとか、そういうつもりは全然なくて……」
先回りして否定とか、大分気持ち悪いな。
しかし、ほかに言いようもなく、咄嗟に嘘もつけない僕は、思ったままを口にするしかなかったわけで。
「……ご家族とのことって、聞いてもいいのかな」
多分、一番、デリケートな問題だろうから。
家族とか、兄弟姉妹というのは、つまり、一番身近なカテゴリーで、ほとんど離れることはできない。ましてや、高校生の氷彩さんにとっては、かなり、いや、相当難問になるだろう。もちろん、仮定の話ではあるけれど。
「……空楽さんは妹さんが文化祭を見に来ていらっしゃるんですね」
「うん。紫乃って言うんだけど、友達の縁子ちゃんと一緒に見に来てくれて。もしかして、美術部のほうにも顔を出した? それとも、日陽先輩か弥生先輩から聞いたの?」
聞いたとすれば、日陽先輩からだろうけれど。
あるいは、美術部にも顔を出したということだろうか。
「もしかして、氷彩さん、お姉さんのこと苦手なの?」
感情は、好きと嫌いで綺麗に二分できたりはしない。
できる人も中には存在しているのかもしないけれど、大多数には不可能だし、する必要も感じていないだろう。
野球に興味のない人に、どこの球団のファン? と聞くのと似たようなものだ。
「いいえ。姉だけではなく、兄も、それから、父と母のことも」
軽い気持ち……ということもなかったのだけれど、うっかり踏み込んだら周りは地雷原だった。
僕の表情から読み取ったのか。
「勘違いされないでください。家族仲が悪いとか、問題があるとか、そういうことではありませんから」
問題があるとすれば私のほうなんです、と氷彩さんは手すりに手をかけて、表情は読み取れない。
「ただ、私はずっと、自分は橋の下ででも拾われてきた子なのではないか、ふとそう思うときがあるんです」
「え? ちょ、ちょっと待って、それってどういうこと?」
いきなりの発言は、かなり衝撃的で、僕は一瞬、フリーズしかけていた。
橋の下で拾われたって? 悪いけれど、意味がわからない。
「そうですよね。こんなこといきなり言われても混乱されますよね」
「あっ、いや、混乱というか……どういうことなの?」
いや、本当なのだとしたら、僕なんかが聞いていい話ではないはずだけれど。
氷彩さんは張りつめたように笑顔を浮かべ。
「心配しないでください。きちんと、血縁上、私はあの両親の子供であることは間違いありませんから。でも、私はあの人たちと比べて、なんて出来の悪い子なんだろうと、いつもそう思っています」
そう言われても、僕にはまったくわからなかった。
氷彩さんの成績は上位らしいし、絵の実力は言うまでもない。出来が悪いとは思えなかった。体育の成績とか、そういうことだろうか? いや、でも、それは得手不得手の問題なのでは?
たしか、氷彩さんの家族は――御父上である悠さんが大学教授、御母上である友華さんが医者を、お兄さんである恭一さんは複数言語の翻訳家をしていて、そして、お姉さんの咲耶さんが某有名国立大学に通いながらモデルをなさっているという話だ。それについては以前聞いたとき、まるで漫画とかライトノベルの登場人物のようだと思ったりもした。
「空楽さんは、天から生まれ持った資質とか、才能という言葉に対して、そういうものはあると思っていますか?」
「ええ。おそらくは」
受け継いだものだろうが、神様からの贈り物だろうが、紛れもなくそれらは存在する。
努力を否定したいわけではないし、むしろ否定したくはないけれど、それとこれとは別問題だ。
努力次第でどうにかできることは多いだろうけれど、どうしようもないことも存在するのは事実だからだ。それは綺麗ごととか、そういうものでもなく。
「あまり使いたくはないですけれど」
ある種、卑怯な言い訳でもあると思うから。
例え話にはなるけれど、実際僕も小説を書いている。
ライトノベルを書いている人は、日本だけでも何十万人といて、書籍化されているのなんて、その内の数万人程度だろう。もっと少ないかもしれない。
しかし、その人たちが、生まれたときからそんな何万人と感動させる小説を書けたわけではない。
多くの作品を読み、表現方法を模索して、先人から学び、設定やストーリーを練り込んで。
そんな、数多の努力の末に、話は完成しているのだとは思う。
それでも、初めて書いた作品が賞をもらったり、そういう人は極々少数だろう。もちろん、その人たちが努力していないということではないということは、重々承知の上だけれど、それでも、どうしても、才能というのを感じさせられることはある。
「小学生のころ、同級生に言われたことがあります。兄と姉に全部吸い取られて生まれてきたのではないか、と」
それはおそらく、氷彩さんの心に深く突き刺さってしまったのだろう。
「勉学ですら、努力した分、全てが帰ってくるわけではないと思っています。おそらくはもっともすべての人に公平であろう分野ですけれど、それでも、努力する才人に、凡才では敵うことはないと。だから、私は中学生になり、美術部に入ったんです。父も母も、兄も姉も、誰も手を出していない分野に縋るしかなかったから」
美術にだって才能は、むしろ、芸術という分野だからこそ、大いに関係があることだろう。
しかし、氷彩さんにとっては、そんなことを選んでいる余裕はなかったと、家族の関係していない分野に手を出すくらいしか思いつけなかったのだと、そのくらい追い詰められていたということなのだろう。
「私はそうして逃げ出した人間ですから、空楽さんたちに評価していただけるような人間ではないんです」
「でも、僕は氷彩さんの作品は素敵だと思ったけど」
美術の教科書に載っているような、モナ・リザだとか、ひまわりだとか、最後の審判だとか。
たしかに、すごく上手という言葉なんかに収まる絵ではないとは思うけれど、それでも、感動したとか、目を奪われた、なんてことはなかった。
「僕は授業で美術専攻ではあっても、教科書に載るような、絵の凄さは全然わからないし、感動したこともない。でも、夏休み明け、階段のところで見た氷彩さんの絵にはしばらく見惚れちゃったよ」




