夏季休暇 40
◇ ◇ ◇
後日、縁子ちゃんが秋月家までわざわざお礼を言いに来た。
「命を張って助けてくださったこと、心よりお礼申し上げます」
紫乃ではなく、僕の部屋に上がった縁子ちゃんは、三つ指を突き、小学生らしからぬ丁寧を通り越して堅苦しいとも思えるほどの態度で深く頭を下げた。
「そんなに畏まらないで、縁子ちゃん。人として当然のことをしただけで、僕一人ってだけでもないから」
連司や、道場の皆の協力が無ければ、とても縁子ちゃんの助けにはなることはできなかっただろう。
「それに、縁子ちゃんが悪いことはなにひとつとしてなかったんだから。むしろ、すごく勇気のある行動だったねって褒めてあげたいくらいだよ。僕なんかに言われても嬉しくないだろうけれど」
そもそも、そんなに上から目線で縁子ちゃんを褒められるほど、僕はできた人間ではないし。
「ですが、結局空楽さん達の合宿の時間を大きく奪ってしまったことは事実ですし、なにか、私にお礼のできることはないでしょうか」
そう言われても、僕はべつに合宿の時間を奪われたとは思っていないんだよね。
むしろ、こんなことを言うべきではないと思うのだけれど、貴重な体験をさせてもらえたと感謝したい気持ちすらある。
危険を楽しんでいるとか、そういう趣味嗜好があるわけでは決してないけれど、平凡な――真に平凡な日常などないとか、そういう哲学っぽい話はおいておいて――日常よりはいい刺激がもらえたという意味で、歓迎してすらいる。
実際、あの事件を元にして小説だって書いているわけだし。
ああ、そうか。
「それなら、縁子ちゃんにひとつお願いしたいことがあるんだけど」
「なんでしょうか。空楽さんのおっしゃることならなんでも」
「うん。まずは、誰にでも、そうすぐになんでもなんて言わないこと。世の中、良い人ばかりじゃないんだから」
「大丈夫です。空楽さんにしか言いませんから」
ここで、それでも問題があると言ってしまうと、僕が縁子ちゃんに『なんでも』する気でもあるのかと疑われてしまう可能性が、ないとも限らない。
とはいえ、この考え方は数多のライトノベルや漫画を読んできている僕だから言えるわけで、ある種、純粋な、小学生の縁子ちゃんに話せるような内容ではない。
「空楽さん? どうしたんですか?」
縁子ちゃんが心配そうな表情を向けてくる。
目の前で知り合いがいきなり顔を叩いたら、驚いても仕方ないのかもしれない。
「なんでもないよ。本当に。気にしないで」
純粋に心配されると、僕ばかりが汚れているような感覚に陥る。
実際、邪なほうに考えてしまう僕は薄汚れているのだけれど。しかも、妹の友人で、親友の妹を相手に。
いや、だから、そんなこと欠片も考えてないから! これじゃあ、ロリコンどころか犯罪者だ。そもそも、ロリコンでもないし。
誰に言い訳をするでもなく、首を横に振る僕に、相変わらず、縁子ちゃんは(最大限好意的に解釈して)心配そうな表情を見せている。
僕は咳ばらいをして誤魔化して。
「それじゃあ、前に僕の書いた小説を渡して、感想をくれないかって頼んだことがあったよね。あれをまた、これからもお願いしてもいいかな?」
「え?」
縁子ちゃんが困惑しているように僕を見つめてくる。
「だから、縁子ちゃんにお願いしたいこと。僕の書いた小説を読んで、また感想をくれるのがなにより一番嬉しいことかな」
まさか組手の相手を頼むわけにもゆかないし、そっちはすでに十分過ぎるほど足りているし。
「あっ、もちろん、放課後に極浦学園の文芸部の部室まで来てほしいなんてことは言わないから安心して。もし、頼めるのなら、連司にコピーを渡して持っていって貰うから」
でも、それは縁子ちゃんにとって、学校からもらう宿題とか課題に読書感想文が追加されるようなものだ。
しかも、その作品は名作名文などとは程遠い、素人の書いた原稿のコピー。
はっきり言って、愚にもつかない作品を延々と読むなんて、苦痛かもしれない。いや、日陽先輩や弥生先輩――奏先輩もか――は読んで感想までくれるから、昔ほどひどい出来ではないと思っているけれど。
「だめ、かな?」
縁子ちゃんの返事がないので、おそるおそる反応を窺う。
「百作でも、二百作でも、喜んで読ませて貰います」
「え? 本当にいいの?」
目の前で言われたこと、しかも自分で頼んだことにも関わらず、思わず問い返してしまう。
いや、だって、素人男子高校生の書いた妄想の垂れ流しだよ?
どこの賞にも、一次審査すら引っかからない、クソミソだよ? あっ、いや、もちろん僕は世界一面白いと思って書いてはいるけれども。
「はい。だって、この前の合宿でも読みましたけれど、空楽さんの書かれる小説は面白いです。海原さんや藤堂さんは毎日、部活で空楽さんの作品を読むことができるということですよね。ちょっと羨ましいと思っていました」
ただでさえ、ハンデがあるんですから、と縁子ちゃんは消えるような声で呟いた。
「ハンデって?」
「いえ、こちらの話です。気にしないでください」
どういう意味だろう。
「でも、それじゃあ、お礼にはなりませんよね……」
「え? なんで?」
これ以上ないくらいのお礼だと思うけれど。
むしろ、こっちのほうが与えた(僕はそうとは微塵にも思っていないけれど)以上のものを返してもらうことになってしまっているようで、お礼のお礼を考え出しそうなところだったのだけれど。
「だって、それは私にとっても、とても嬉しくて、楽しいことですから。迷惑をおかけしたお礼にはなりません」
「嬉しくて楽しかったらお礼にならないの?」
縁子ちゃんが僕の小説を読むことをそういう風に感じてくれるということなのだとしたら、それこそ、僕にとっては最高の贈り物なのだけれど。
「僕は縁子ちゃんからの感想がもらえたら嬉しいな」
反応をもらえるということは、なにより嬉しいことだから。
もちろん、悪意のある感想をもらったこともある。それも一度だけだけれど。
しかし、それでも、どんなものでも、自分の成長には繋がると思うし、繋げてゆくよう努力しなければならないと思う。
まったくなんの反応ももらえないというのは、物書きとして、いや、おそらくはすべての作家(小説家に限らず、建築でも、陶芸でも、物を創ることを生業とする職業人すべてに当てはまるだろうけれど)にとって、一番、辛いことだと思うから。
「で、でも、空楽さんには私のほかにも、海原さんや藤堂さん、それに沖田さんのように感想をくださる方はたくさんいらっしゃいますよね」
「でも、感想はひとりひとり違うものだから。そこから得られるものだって違うよ。誰のものがありがたいとか、そういうことではなくて、どれも皆ありがたいんだよ」
小学生とか、高校生とか、男とか、女とか、そんなことは関係ない。まあ、縁子ちゃんが挙げた人たちは皆、高校生女子だったけれど――って、そこは問題ではなくて。
「とくに、今回の小説は縁子ちゃんにこそ読んで貰いたくて。なにを、どういう風に感じたか、自分だったらどうしたのかとか、そういうことを教えてもらえると嬉しいな」
もちろん、今回の小説のモデルが縁子ちゃん――正確には、先日巻き込まれた事件だからだ。
当事者としてはどういう気持ちでいたのかとか、場面ごとの感想なんかをもらえると、なお嬉しい。もちろん、モデルがどうこうの話は、できれば話したくはないけれど。
まあ、奏先輩のときとは違って、簡単にはばれたりしないとも思っているけれど。
「わかりました。謹んでお引き受けいたします」
「ありがとう。よろしくね」
さて、そうと決まれば、さっさと小説を仕上げないとな。
縁子ちゃんが帰った後、僕は一心不乱にパソコンと向かい合った。




