夏季休暇 35
◇ ◇ ◇
相手からほぼ一方的に絡まれたこととはいえ、巻き込まれたことは事実だったので、駆け付けた警察の人たちにより、僕たちは署まで一緒に向かうことになりそうだったのだけれど、それからすぐにいらした師匠に、
「それは私が」
と応じられてしまった。
警察の方たちも、師匠の顔はご存知だったらしく、対応に敬意が感じられた。
警察に顔が利くことは知っていたけれど、本当に一体全体、どういうわけなのだろう。師匠は、まあ、いろいろだ、と言ってはぐらかしたようだったけれど、聞いてはいけない、あるいは、聞かせないほうがいいと判断したということなのだろう。僕自身、面倒なことを回避できるのなら、それに越したことはないし。
作家根性というか、非常に気にはなったけれど、仕方ないと諦めて、先輩たちには感謝を告げて、僕たちは帰路についた。
連司や道場の先輩たちと別れ、藤堂家のドアを入ったところまでが、縁子ちゃんの限界だった。
気が強く、しっかり者であることは事実だけれど、小学五年生、十歳の女の子であることも事実なのだ。むしろ、現場で取り乱したりしなかったことのほうが驚きだった。
靴を脱ぐまでもなく、ぺたんとその場でまるで糸が切れたように――実際、張りつめていた緊張の糸を切らしたのだろう――腰を抜かしてしまった縁子ちゃんに。
「本当に大変だったね。とってもすごかったと思うよ」
僕はしゃがみ込んで、頭を撫でた。
自ら相手の隠れ家に乗り込んで、犯人に対して指を突き付けたりしたのだ。本当に、半歩でもなにかが狂っていたら、いまごろ、無事にここまで帰ってこられていなかったかもしれない。
大した勇気だと思う。
「すごいことを経験しちゃったわね、空楽くん」
日陽先輩が興奮気味の早口でまくし立てる。
「ここ数日だけで、いったい、どれほどのことが起こったのかしら。怪しげな取引の目撃でしょう、尾行者との接近でしょう、悪者のアジトに乗り込んで、快刀乱麻の大活躍。事実は小説より奇なりとは言い得て妙よね。これだけで一冊書けてしまいそう」
最後に、本当に申し訳程度に、不謹慎かしら、と付け加えた。
いや、僕もそう思う。本当に、小説になりそうな体験だったと思う。そうでもなければ、現実で拳銃を突き付けられるなんて経験、滅多に……いや、従軍でもしていないのであれば、生涯巡り合うことのないようなシチュエーションだっただろう。
だからといって、そう何度も経験したいか、と聞かれたら、思い切り首を横に振るだろうけれど。
「佐伯さんと秋月――紫乃さんは、先に入られてください。一番お疲れでしょうから」
弥生先輩はそこで一旦、言葉を区切られ。
「それで、その、空楽さん」
「え、えっと、その、はい、なんでしょう」
弥生先輩は今まで、秋月さん、と呼んでくれていたのに、突然、下の名前で呼ばれて戸惑ってしまうというか。
いまさらなにを言っているんだ、と思われるかもしれないけれど、一般的な高校一年生男子の反応としては当然だと思う。童貞とか、そういうことは関係ない。
僕がそんな様子だったからか、弥生先輩も顔を紅くされて。
「す、すみません。その、紫乃さんと一緒にいらっしゃる際、どちらのことか混乱されてしまうかもしれませんから」
「そ、そうですよね。同じ苗字ですからね。区別はつけたほうがいいですよね」
日陽先輩だって、奏先輩にだって、わりと初対面の頃から下の名前で呼ばれているし、女子の間ではそれが普通なのかもしれない。クラスメイトは普通に、秋月、秋月くん、だから、クラスメイトという以上の親密度は必要みたいだけれど。
いや、まあ、名前の呼び方くらいで、親密度とかそれほど変わるわけでもないし。そもそも、僕だって、弥生先輩、と下の名前で呼ばせてもらっているし。
ただ、ちょっと、そわそわするというか。
というか、弥生先輩は、御自身で言い出したことなのに、そんな反応をされると、僕のほうが困るのだけれど。
「いい、紫乃ちゃん、縁子ちゃん、あれがラブコメの波動というやつなのよ。思春期になると出せるようになる必殺技よ」
そんな風に日陽先輩が突っ込んで(いや、この場合はボケか?)くれなければ、しばらく固まっていたに違いない。
これ以上の見世物にされずに済んだことは助かったけれど、どうせなら、もうすこし普通に話しかけてきてほしかった。
「なにを吹き込んでいるんですか、日陽先輩」
「私くらいになると、ラブコメの波動を視認できるのよ。できないということはまだまだ修行が足りないわね、空楽くん」
いや、それは眼下に行くべき案件だと思う。それとも、脳神経外科か?
「はいはい。わかりましたから、早いところ皆で夕食の準備をしてしまいましょう」
ここ数日、面倒な相手に絡まれていたせいで、せっかくの合宿だというのに、まともに時間がとれていないのだ。
いや、たしかに、創作の時間はあった。
しかし、心のどこかで、彼らのことを気にしてしまい、完全に没頭できていたかどうかと言われると、怪しい。そんなことに気を取られていられるような実力でもないにもかかわらず。
よし。
さっき日陽先輩が言っていたとおり、縁子ちゃんや紫乃には申し訳なくも思うけれど、せっかく、ネタが仕入れられたのだから、活用しない手はない。
鉄は熱いうちに打て、好機逃すべからず、矯めるなら若木のうち。
そう思っていたところ。
「それもそうですけれど、空楽さんは先にお風呂に行かれたほうがよいかと思います」
弥生先輩に言われ、僕は自分の格好を見下ろす。
なるほど、外で大立ち回りを演じただけのことはあり、たしかに、服も体も埃まみれだった。これでキッチンやら食卓やらに入るわけにもゆかないだろう。
ただし。
「それは皆さんにも言えるのでは? 外から帰ってきたばかりなことは事実ですし」
レディーファーストというか、僕は別に後でも構わないのだけれど。
汚れているというのなら――実際に汚れているし――浴槽を使うのは最後のほうが、なにかと節約できるのでは?
「えっと、それは、その……」
「はい。空楽さんには先に入っていてほしいです……」
日陽先輩と縁子ちゃんも言葉を濁す。
なんだろう。僕はべつに、変態的な趣味はしていない(つもり)と思うのだけれど。
しかし、この場にいる僕以外のほとんどが全員そう言うのなら、僕も従うより他にない。
一応、声をあげなかった一人にも聞いてはみたのだけれど、
「紫乃は先に入る?」
「ううん。紫乃も後から縁ちゃんと一緒に入る」
と、結局全員に遠慮されてしまったので、時間節約のためにも、不毛な譲り合いは起こさず、僕はありがたく一番風呂をいただかせてもらった。
とはいえ、もちろん僕たちはまさに帰ってきたばかりで、今、藤堂家に他に人はいないので、お風呂が沸いているということもない。
湯船を張っている隙に、僕は身体を丹念に洗った。シャワーを出しながらでも、湯船を張っているほうの蛇口から出る水の勢いが変わらないことに少し驚く。一週間ほど合宿をしておいて、いまさらだけれど。
目立った怪我はなかったけれど、こうしてお湯を被るとわずかな痛みを感じる箇所もある。まだまだ未熟だな。
それでも、湯船につかっていると、疲れも、今日あった出来事も忘れて、心の底から癒されてゆくような感じがするのだから、日本人の心に風呂というのはそれなりに根付いているのだなあと、先程までの緊張が嘘のように、どうでもいいことをのんびりと思い浮かべたりもしてしまう。
いやいや。
待っている人たち、それも女性がいるというのに、のんびりしている場合ではなかった。それに、忘れないうちに、メモに起こしてもおきたい。鮮烈な記憶が焼き付いているうちに。
「よし」
僕はもう一度、顔を洗い直すと、風呂場を後にした。




