夏季休暇 33
ナイフ程度で怖気づくとでも思っているのだろうか。
たしかに、ナイフの殺傷力は高い。掠るだけでも傷を与えられるし、そもそも、凶器として認定されるくらいには危険な代物であることに違いはない。
ただし、相手は特段ナイフの扱いに優れているとか、軍人崩れだとか、そういうわけでもなく、それならば、少しリーチが長いだけの相手と思えばいいだけだ。
ナイフを握る手は右手だけ。
狭い直線の通路――間口であり、肩の位置から考えれば、突かれる軌道も予想はつく。スペースの関係上、むやみやたらに振り回す、みたいな方法は採らないだろう。
集中力は極限まで研ぎ澄ませられていて、相手の視線、肩の位置、タイミング、それだけをただ視界に収める。
周囲の音が遠く聞こる。
避けることはできない。避ければ、連司と縁子ちゃんに危険が及ぶ。
目の前の男は口を開いていて、なにか言っているのかもしれないけれど、本当に聞こえてはいなかった。
突かれる直前、僕は左手を振り上げながら身体を半分だけずらし、直後にそのまま振り下ろす。
金属音が響くのとほとんど同時に前へと踏み出し、無防備な相手の懐にぶちかまし。
うめき声と共に、崩れ落ちた音が聞こえ、直後には僕は扉の外に飛び出すべく、床を蹴っていた。
倒れた人間を踏みつぶして進んで来る、とはゆかなかったようで、僕が飛び出すのと同時に連司が扉を思い切り蹴りつけ、大きな音を響かせながら、扉が閉まる。
「縁子ちゃん、通報!」
僕と連司は扉を背中で押さえつけ、正面の階段の格子に足を伸ばして、全力で突っ張る。
相手の武器がどの程度のものなのかはわからない。しかし、これである程度の時間は稼げるはずだ。
「スマホは僕のズボンの左ポケットに入っているから」
手は離せない。
調べるまでもなく、アパートの外壁には住所を示すプレートが張り付けてあった。
スマホを引き抜いた縁子ちゃんが階段までたどり着き、駆け下りて、安全だろう距離まで離れたのを見計らい、僕と連司も突っ張るのをやめて。
「いけそう?」
「いくしかねえだろ」
僕たちはそのまま通路の壁に足をかけ。
「待たんかい、クソガキ!」
勢いよく扉が開かれるのと同時に、そこから飛び降りた。
怖いとか、危険とか、そんなことは言っていられない。所詮は二階だ。
エレベーターだとか、階段だとかより、圧倒的に時間も距離も短縮できる。
下はアスファルト。下手はできない。いくら距離を短縮できたとしても、そこから足が痺れたとか、そんな理由で足止めを喰らうわけにはゆかない。
地面に触れると同時に膝でクッション。必要かどうかはわからなかったけれど、そのまま転がるようにして、五点着地を敢行する。
「案外楽勝だったな」
「そうでもないよ。なに言ってるの。というか、まだ終わってないし」
砂を払いながら連司が笑うので、僕もつられて笑顔を浮かべる。
笑う以外にどうしろというのだろうか。
「空楽さん、兄さん」
縁子ちゃんが駆け寄ってきて、スマホを手渡してくれる。
「通報は?」
「済ませました。すぐに来てくださると言ってくれました」
こういう場合って、僕たちはここから逃げないほうが良いのだろうか。
僕たちが移動すれば、当然、相手は追いかけてくるだろう。今だって、階段を駆け下りてきているのが見える。
逃げるんじゃねえぞ、とか、待ちやがれ、みたいな声が聞こえてきていて、そう言われて待つ奴も、逃げない奴もいないだろう、と思っていたのは、時と場合によって不正解にもなり得ると、身をもって思い知った。
「場合によっては、というより、まず間違いなくそうなるだろうけれど、ここで迎え撃つことになりそうだから、やっぱりまだスマホは縁子ちゃんが持っていてくれる?」
僕と連司はスマホを縁子ちゃんに手渡す。
気にしている場合ではないとはいえ、やはり、ポケットから滑り落ちるかも、と考えてしまうと、動きが制限される恐れがある。
問題は相手の人数だ。
半分くらいが女性だったとはいえ、女性だから肉弾戦をしてこない、と考えるのは早計だ。身近にも舞さんという例がある。
本当は、縁子ちゃんには走って逃げて貰いたい。しかし、僕と連司の二人だけで、相手全員をここに留めておくのは不可能に近い。挑発に乗らず、追いかけられでもしたら、その時点でアウトだ。
僕と連司は縁子ちゃんを間に挟むようにして、背中合わせに身構える。
さっきの相手程度の練度であれば、飛び道具――つまり、拳銃を使われなければ勝ち目はある。銃刀法に違反して所持している場合は、まあ、腹をくくるしかないかな。
「逃げずに待っているとは上等じゃねえか」
「ちょっとくらいできるからって調子に乗ったか? ああ?」
さっき中で一人倒しているため、残っていた――外まで追いかけてきたのは、ひぃ、ふぅ、みぃの……五人か。
全員男ということは、女性はそういう要員としているわけではないのだろう。
べつに、女性が相手だと殴れないとか、そういうことはないけれど、どちらかと言えば、相手が年上の男性のほうが遠慮なく戦える。慢心しているわけでもないけれど。
「縁子ちゃん、こっち」
僕たちはふたりしかいない。
相手に連携ができるとは思えないけれど、できないと考えるのは早計だろう。
駐車場というか、隣の区画との間の壁際まで縁子ちゃんの手を引いてゆき、一方向を完全に壁で覆う。これで、死角はかなり減ったと言っていい。もちろん、相手が壁の向こうへ回り込んで乗り越えてきたりした場合は違うけれど、塀は結構高いし、その心配はほとんどしなくて構わないだろう。
車でも止まっていれば、陰に縁子ちゃんを隠すことで、遮蔽物――つまり、飛び道具(あるいはナイフなんかを投げてきた場合にでも)にも対処できたのだけれど、あいにくとそのようなものは見つけられなかった。
とはいえ、相手がナイフを手放す可能性は低いと感じていた。手ごろに用意できるもので、殺傷力の高い得物だからな。先ほどのやり取りを見ていれば、素手の練度は高くないし、それでは僕たちに勝てないだろうと直感しているのだろう。
あるいは、ナイフを見せればこちらが怯むと思っているのか。
「マジでいい加減にしろよ、おまえら。今ならまだ許してやる」
いや、そんなはずはないだろう。
プライド的にというか、実際問題として証拠を握られている(と思っている)とか、考えずとも嘘だとわかる。
「そうかい。でも、俺らのほうは許すつもりはねえんだ」
連司が挑発するように睨みつける。
「減らねえ口だな」
この段階になっても銃を取り出さないということは、所持していない可能性が高い。
そもそも、日本において、個人で所持するのにはハードルが高いからな。おいそれと使用できるものでもない。
エアガンくらいならもしかして、と思わないでもないけれど、そんなものを持っている雰囲気でもないしな。
「すでに通報は済ませましたからね。時間は稼げるだけ稼がせていただきますよ」
「舐めやがって」
結局、相手のしてくることは変わらない。
怒気を孕んだ声で恫喝し、怯ませたところで、一気に叩く。
しかし、僕も連司もそんなことで引くような決意で乗り込んできてはいないので、こちらが引かないところを見ると、舌打ちをして、突っ込んでくる。
「空楽。縁子を任せた」
そう言って、連司は前に踏み出すと。
「せいっ!」
回し蹴りで、まず一人。続けて、肘内で二人目を沈める。
「おまえらなにやってんだ、ガキひとりに手こずってんじゃねえ」
「だったら、おまえが来いよ」
裏拳でもうひとり張っ倒した連司が怒鳴る。




