一人目・了
打ち上げられた湖の水が落ち着くと、そこには巨大な竜が顔を出し、私のことを見下ろしていた。
この竜のせいとはいえ、初対面の相手を前にすっかりびしょ濡れになってしまった私は居心地の悪さを感じた。
せめて傘でも持っていればよかったのだけど、こんなに晴れていたら持っているはずもない。
「どうしたのだ、そんなに濡らして」
「あなたのせいよ、そんな風にいきなり現れるなんて、濡れるなというのが無理というものだわ」
私は竜に文句を言いたかったが、濡れた服がどうにも気持ち悪い。
「ところで聞きたいことがあるのだけど、ここに金色のカブトムシは来なかった?」
「金色のカブトムシ? それを求め、お前はどうする気なのだ?」
竜の言葉に私はドキリとする。どうしてそんなことを聞くのか。
どうしてそんなことを言わなくてはいけないのか。
「まあいい、金色のカブトムシはここを抜け、北を目指して飛んで行った」
「北に? ありがとう、親切な竜さん」
私は色々と詮索されないうちに竜のもとをあとにすることにした。
「あれと一つになりたいのか?」
「……」
竜の質問に私は答えなかった。
「叶わぬ願いだな」
私は答えなかった。
私は竜に言われたとおりに、北に向かい歩いた。
地図も、磁石も、道しるべもなく、ただただ歩き続けた。
やがて辺りは暗くなり、夜がやってきた。それでも私は歩き続けた。
あの金色のカブトムシはどこに行ってしまったのだろう?
ふと、あの庭園の老婦人を思い出した。
あそこに留まればよかっただろうか?
あの親切な言葉にそのまま甘え、あそこで穏やかな夜を迎えるべきだっただろうか?
ふと、あの湖の竜の言葉を思い出す。
「それを求め、お前はどうする気なのだ?」
「あれと一つになりたいのか? 叶わぬ願いだな」
叶わぬ願い……。
私は口の中でその言葉を反芻する。
しかしすぐに否定した。
そんなことあるものか。そんなことあるものか!
あのカブトムシは私のものだ。あのカブトムシは私のものなんだ!
やがて、雨が降り始めた。あの日の雨のように。
夜の雨は私を溶かしていく。
それでも私は夜の雨の中を歩いた。
ぬかるんだ地面が私の靴を飲み込もうとする。濡れて張り付いた服が引っ張られる。
重い。足も、肩も、腕も。進めなくなる。これ以上、進めなくなる。
行かなきゃ……行かなきゃ……
私の口はそんな言葉ばかりを繰り返すようになっていた。
やがて靴は泥にとられ、汚れた靴下も脱げてしまいいつの間にか上着もなくなっていた。
私は重い荷物を捨て、中身だけで進むことにした。
皮膚が雨に溶け、肉が土にかえり、骨が支えるものを失い必要となくなった頃。
私は雨となっていた……。雨となり、それでも歩いた。
そしてようやく私はそこにたどり着いた。
私と同じくらいの子が遊んでいるその場所へ。
私は遠くからそれを見ている。
あの人はここにいる。
ああ、でも……このままでは逢えない。
こんな格好で逢えるものか。
私は雨の中、立ち続けた。
風雨に似た声を上げて呼び続けた。想いを送り続けた。
ほしい……ほしい……
私に靴をちょうだい
私に服をちょうだい
私は叫び続けた。雨の中で……
そうして幾度の雨の時を過ごし、私は一人の子に目をつけた。
キレイな肌、キレイな髪、キレイな手足……
ああ、これなら金色のカブトムシもきっと気にいるだろう。
あの子がほしい。私は雨の中であの子が私に気がつくのを待った。
何日も、何日も。
そして何度目の雨の日のことだったか、あの子は私に気がついた。
私は力の限り叫んだ。あの子に聞こえるように。
「こっちに来て! 私に気がついて!」
声は風雨に阻まれて届かない。豪雨のような私の声は雨の中に沈むばかり。
そんな雨の日が幾度も続く。私の中の豪雨はそのたびに激しさを増した。
でも、その時はやってきた。みんなが部屋に帰ろうとした時、あの子が振り返ったんだ。
群れから離れた。
傘を持ち、一人で、私に、近づいてきた。
「……」
あの子の声はよく聞こえない。
ああ、でも、それでもかまわない。
「やっと、やっと来てくれた」
私は必死であの子の手をつかんだ。
逃がさない。逃がさない。
あなたは私のものだ。
その時、雨が一際冷たくなったような気がした。
雨の奥で、得体のしれない何が笑う。
いえ、今はそんなことはどうでもいいこと。
私は夢中であの子のことを抱きしめた。




