一人目
あれはいつ頃からだったかしら?
雨の日にあの子があらわれるようになったのは……。
みんなは気がついていないようだったけど、私は、あの子のことに気がついていた。
たぶんだけど、あの子も、私が気づいていることを知っている。
でも、あの子が私に話しかけてくることはおろか、近づいてくることもない。
私も、そう。あの子がいることはわかっていても話しかけたり、近づいていくことはなかった。
あの子が来るのはいつも雨の日。
あの子と私の間にはいつも雨が降っていた。雨が私たちを近づけないようにしていたはずだった。
その日も雨が降っていた。
その日もあの子は雨の中に立っていた。
雨が降る日にだけ、あの子がやってくる。
私だけがあの子の存在に気が付いていて、みんながあの子のことを何も言わないから、私も見ないようにしようと思っていた。
あの子の気配を感じても見ないようにした。
目を向けないように、耳を向けないように、気持ちを向けないように……
寒くないのかな?
どんな声をしているのかな?
どんな顔をしているのかな?
それでも私は知りたかった。
雨が隠しているあの子のことを。雨の音が遮ってしまうあの子の声を。雨粒が覆ってしまうあの子の顔を。
知りたい。あの子のこと、私は知りたい。
だから私は決めたんだ。
次の雨の日にあの子に声をかけよう。
いつも遠目から見ているあの子に近づいて声をかけよう。
私はそう決めた。
持っていた傘に入れてあげて話をしよう、と。
どこから来たの?
あなたの名前は?
どうして雨の日にしか来ないの?
ううん、そんなこと、いきなり聞けない。
あの子を困らせてしまうかもしれない。もっと聞きやすいことから聞かなきゃ。
寒くない?
こっちで一緒にお菓子でも食べない?
猫は好き? ここには可愛い黒猫がいるのよ。
そんな当たり障りのない話から始めよう。
私は雨の日を待った。
テレビが知らせる天気図と予報を確認するのが日課になった。
やがて雨が来た。
傘を持たず外に出ればアッという間に、びしょ濡れになってしまうほどの雨だった。
冷たくて、寂しい音がする。
だけど、私の気持ちは踊っていた。待ちに待った雨なのだから。
この雨の向こうにはあの子がいる。
私は傘を持って飛び出した。
地面にできた世界地図みたいな水たまりなんておかまいなし。私はあの子のもとに駆け寄った。
するとどうだろう。雨の日にしか現れないあの子は雨だったのだ。
あの子の表情は、豪雨の日の窓ガラスを通して外を見ているように見ることができない。
声も、暴風で壁ができたみたいに途切れ途切れ。
……私の声はあの子に聞こえているのかしら?
「ねぇ、あなたは誰……?」そう口にしようとして私は思わず言葉を飲み込む。
何かおかしい。違和感がある。
この問いかけは相応しくない……そんな気がする。
言葉が出てこない。
いつもはこんなことないのに。お茶会に招待することぐらい、わけないのに。
ふいにあの子の手が私を握った。
豪雨が近づく。
暴風が耳につく。
言葉がでない。
雨と風が言葉を飲み込んでいってしまう。
その時だった。
一匹の虫が私の前を飛んで行った。
「カブトムシ?」
それは確かに、角の立派な金色のカブトムシだった。
カブトムシは薄羽を羽ばたかせ、私の目の前を過ぎ、あの子の胸に飛び込んでいった。
雨の中にカブトムシは消えたんだ。
カブトムシはいなくなった。
私は、カブトムシがいなくなったあの子の胸をジッと見た。
激しく雨の降るあの子の胸をジッと。
後ろで誰かが私の名を呼んだ。
私は振り返ろうとしたけど遅かったみたい。
私は近づきすぎた。
角の立派な金色のカブトムシに気持ちをとられ、消え去ったその姿を追ってしまった。
あの子の胸に近づきすぎた。
雨の腕が私を抱き寄せる。
振り返ることなんてとてもできない。
私はあの子の胸で溺れた。
息ができない。
底の見えない
青い、蒼い、碧い、世界。
もがくこと許されず
身体中に重りをつけられたみたいに私は沈んでいく。




