その6
男の半生の前半部分はあまりにも僕のこれまでの半生と酷似していた。
誰からも気づかれない青春時代。喜びのない毎日。その果てにある絶望。
男は僕と同じように死を決意した。だが、死ぬ前に一度だけ挑戦してみたいことがあった。
それは、女風呂に忍び込むこと。男は自分の気づかれなさがどれほどのものか挑戦してみたかった。
さすがに気づかれるだろうと思った。でも、その時の男は死を決意していた。
女風呂に忍びこんだ罪で警察に捕まるならそれはそれで構わないと思った。男の両親は共にすでに他界していて、男が捕まったからといって悲しむ者は誰もいなかった。
男は女風呂に忍び込んだ。脱衣所で服を脱ぎ、全裸になって大浴場に入って湯船に浸かった。
夕方のまだ混み始める前の時間だったので客もそんなに多くはなかったが、湯船からあがって身体を洗っている時も、誰からも何も言われなかった。
そして、もう一度湯船に浸かって脱衣所で服を着て出るまで、結局誰にも気づかれることはなかったという。
「その時、俺は悟ったんだ。これこそ俺の生きる道だったのだと。俺は今日この日の為に生きてきたのだと。人から気づかれないというこの体質は俺の個性であり長所だ。今日からこれを活かして生きていくべきだと気づいたんだ。それが今から十年ほど前のことだ」
その後、もっと人の多い夜の時間を狙って女風呂に忍び込もうとしたが、入ろうとした所を従業員に気づかれ、男湯と間違ったふりをして難を逃れた。
男は自分の気づかれにくさにも日によって波があることに気づき、どんな時も常に気づかれにくくあるよう、修行を重ね、やがて誰にも気づかれないようになったという。
「そうして今に至るってわけさ」
男はコーヒーの最後の一滴を飲み干してそう言った。
「どうだ。俺の弟子になる気はないか。死ぬくらいなら俺みたいに誰からも気づかれないようになって、好きなことやりたいだけやって、それから死んでも遅くないじゃなか」
「師匠」
「何だ、弟子」
結局僕は男の弟子になった。
自分の気づかれなさが個性であり長所であるという男の考えは魅力的だった。死ぬくらいなら、人から気づかれないという自分のこの才能を、もっと伸ばしてみたいと思った。
と格好良くいえばそうなのだが、本当のところ、僕も師匠と同じように女風呂に忍び込んでみたかった。
くだらない目標だ。でも、くだらなくても目標は目標だ。目標なんてものとは長らくご無沙汰だった人生なので、僕の毎日は充実した。
仕事が終われば師匠のもとに駆けつけ、気づかれなさを磨くトレーニングに勤しんだ。
「今日僕は受付嬢の柴坂さんを一分間もガン見してやりました。上から下まで舐めるように見てやりました」
「気づかれたか?」
「いえ、全く。その証拠に彼女、ちょっとだけ鼻ほじってました」
「そうか。敵との距離は?」
「十メートルほど」
「遠いな。もっと至近距離でやりなさい。その方が君も興奮するだろ」
師匠の教えに従って日々トレーニングした結果、僕の気づかれなさは日に日に向上していった。
今まで出社したら誰かしらには気づかれて挨拶されたものだったが、誰からも挨拶されなくなった。
また、ちょっとしたミスも見逃さない上司の目の前で致命的なミスを犯したというのにお咎めなしだった。
受付嬢の柴坂さんの目の前を通りかかっても彼女は全くの無反応だった。今までだったら心のこもらない笑顔でお疲れさまですと必ず声をかけてくれたのに。
「はい。次は五メートル離れた場所で挑戦したいと思います」
「うむ。そうしたまえ」




