その10
犯人の男の脇腹をくすぐった。
「うっ……」
男は身体をくねらせ逃げようとする。だが、逃がさない。さらにくすぐる。酒臭い。でも、我慢してくすぐる。
客席を見ると、皆あっけにとられたように男を見ている。男の異変には気づいても、その原因を作っている僕には気づいていない。
くすぐる手を一回弱め、それからまた強くくすぐる。
男の手から力が抜けた瞬間を見逃さなかった。包丁を握る手首を掴み、反対の手で包丁をさっと抜き取ると、人のいない方へ放り投げた。
皆何が起きているのか分からない様子で唖然とした顔をしていたが、一番近くにいたサラリーマンらしき男が「うぉぉぉぉ」と雄叫びをあげながら犯人の男に飛びかかった。
僕は巻き添えにならないよう飛び退く。
サラリーマンが男を羽交い締めにし、他の客たちも次々に加勢し、たちまち男は床に組み伏せられた。
人質にされていた女の子も無事保護され、事態の急転を知った警官も飛び込んできて、犯人の男を捕まえた。
僕は、人質の女の子が女性客に差し出された水をごくごく飲み干すのを横目に見ながら事件現場を後にした。
結局最後まで僕という存在に気づいた人は誰もいなかった。
その日は終電に乗って帰った。もう死ぬ気も失せていた。
人助けをして気分が良かったので、珍しくコンビニでビールとつまみを買って家で飲んだ。レジに商品を置いても誰かのいたずらと思われて元の陳列棚に戻されてしまうので、お金はレジの前にそっと置いてきた。
ビールを飲みながら、こんな風に誰からも気づかれないという能力を活かしてマーベルのヒーローみたいに活躍する人生もいいかも、と思った。
気がつくと寝ていて、目が覚めて何となくテレビをつけると大変なことになっていた。
昼間の情報番組に写っているのは自分だった。
昨日の人質立てこもり事件の居酒屋の店内が、防犯カメラによって一部始終撮影されていた。
その防犯カメラにはっきりと自分が写っている。にも関わらず同じ空間にいる誰もその存在に気づいていないのが奇妙なこととして取り上げられていた。
昨日の現場にいた客や人質の女の子もインタビューを受けていたが、誰も僕の存在に気づかなかったと不思議そうに答えた。
それにしてもテレビの中にいる僕は頭がボサボサでよれよれのTシャツを着ていてだらしないことこの上なかった。
テレビに映るならもっとお洒落でもしておくのだった。
他のチャンネルでも、話題は昨日の居酒屋立てこもり事件のことで持ちきりだった。立てこもり事件そのものというよりも、犯人逮捕のきっかけを作ったこの謎の男は何者なのかということが話題になっていた。
大変なことになったな、と思ったが、僕はどこか他人事のような気分でテレビを眺めていた。
人から注目されるのなんて、人生で初めての経験だった。ちょっと愉快でさえあった。
マスコミが僕という存在に辿り着くのにそう時間はかからなかった。
テレビ局から取材を申し込まれた。
ちょっと前まで働いていて、いつの間にか行かなくなった会社の上司が報道を見て僕のことを思い出したらしく、情報を売ったのだった。
せっかくなので、テレビ局の取材に応じ、それからしばらくの間テレビに引っ張りだこになり、僕は時代の寵児のようになった。
実際に同じ場所にいるのに誰も気づかない。なのにテレビの画面越しに観るとそこには確かに僕がいる。
そのことが面白おかしく扱われた。
僕は自分の風変わりな人生について正直に喋った。僕が昔好きになった女の子のところにも取材が行ったが、誰一人僕のことを覚えている女の子はいなかった。その時はやっぱりちょっとだけ寂しかった。
出版社からの打診があって、本も出版した。「僕は誰からも気づかれない」という本。
本は三十万部売れ、異例の大ヒットとなった。ファンレターもたくさんもらった。
僕は誰からも気づかれないはずだったのに、街中で気づかれて声をかけられるようになった。著書にサインを求められれば快く応じた。
僕はいつのまにか人から気づかれやすい男になってしまった。師匠の教えを守らなくなり随分経つのだからそれも不思議なことではない。
その後、著書のサイン会に来てくれた僕のファンだという女の子に連絡先を渡され、付き合うようになった。紆余曲折あったが結婚して、子供もできた。
その辺にいるごく普通のパパであり旦那になった。
人から気づかれにくいわけでも、気づかれやすい訳でもない。
しかしそれこそが僕が子供の頃から願っていたことだった。
そんな自分にようやくなれた。
今では、それなりに幸せに暮らしている。
人生何が起きるか分からない。




