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「……まぁ、色んな噂はあったけどね。どこどこの家のだれだれが怪しい。男性女性、性別も年齢層も様々で、住民同士が疑心暗鬼になってた」
でも、だからといって適当な誰かを吊るし上げるわけにはいかない。記事にするには裏付けがいる。
「―――――週刊誌の記者が何を偉そうにって、顔、してるな」
ふふと、息を落とすように笑ったその人は憤慨しているわけではなく、むしろひどく落ち着いていて諦観すら滲んでいた。
「娘の容態が悪化して、また手術が必要だと言われたのもその頃だな。奥さんから電話で逐一、連絡もらって、時間ができたら病院にも顔を出して。……分単位、秒単位で生きてた気がするよ」
小嶋はふと、ぼんやり視線を彷徨わせてから、大きく息を吐きだした。
「だけど仕事に対するやる気だけはあった。若かったし、特ダネをモノにして名を売れば、また記事が書ける。仕事の依頼も舞い込んでくるだろうし、収入だって安定するだろう。……娘もきっと持ち直して―――――、まだ、未来は明るいと思ってた」
饒舌とは言い難いが、言葉に詰まりながらも止まることなく話し続ける小嶋。職業柄なのか、聞いている人間を話に引き込むのが上手い。だからだろうか、彼が話しているのはまるで、空想の世界の出来事みたいだった。
紗幕の向こう側で起こることはすべて輪郭が曖昧で、もしかしたら何もかもが夢なのではないかと思えてくる。
そのとき、ぱちぱちっと室内が二度ほど明滅した。見上げれば、二本並んだ細長い蛍光灯の一つが力を失ったかのようにその役目を終える。
薄暗くなった室内に、大きな窓から入り込んできた太陽の光が目に痛い。小嶋もそう感じたのだろう。片目を擦っている。
そのタイミングを見計らったかのように芳郎が声をかけた。
「あの、……記事にあったAさんとはどこで知り合ったんですか?」
重々しい空気に息が詰まる。
「出版社の事務所に、突然現れたんだよ」
「突然、」
「そう。名指しではなく、この事件の担当は誰ですかって。話したいことがあるからと訪ねてきた」
初めは編集長が対応してしばらく話を聞いた。その後、自分が呼ばれたと抑揚のない声で語る。
対峙した「A氏」はバケットの帽子を目深に被り、マスクをしていた。だから顔は見えなかったけれど、微かに見えた目元はすっきりとしていて聡明そうだったと、その印象を教えてくれた。
「その人が携帯の画面を見せてくれてね。ある写真を見てほしいと。……そこには小さな子供の裸の写真が複数枚あって……。いきなりなにを、と思ったら。この写真をある人物が大切にしまってるんですって言うんだ。そしてここに映っている子供は、あの事件の被害者なんだって」
すぐには信じがたかった。そもそも、素性もはっきりと分からない人間を信頼できるはずがない。見せてくれた写真だって、確かに幸三郎ちゃんに似ているとは思ったけれど確証はなかったと視線を落とす。
「被害者の写真は、そんなに出回るものじゃないからね。当時は、SNSなんか流行ってなかったし。今とは状況が全然違う。遺族や警察が提供してくれる資料が全てだった」
小嶋はポケットから煙草の箱を取り出し、中を覗いた。吸うのだろうとその様子を見守っていれば、「おっと、危ない危ない。吸うところだった」と茶化すように笑う。そしてそのまま、胸ポケットに煙草を戻した。
「考え事をしてるとつい、ね」なんて言いながら。
灰皿に山となった吸い殻のことを考えれば禁煙しているわけでもなさそうだけれど。
私たちを気遣ったのだろう。
こんな風に、他人へ優しさを示すことができる人なのに。
「この写真を隠しもっていたのは、幸三郎ちゃんの家の隣に住む男だと言われた。そして、その男の写真も渡されて」
「……、」
「どうやら小さな男の子を好んでいるようだと、そんな話をされたんだ」
「……え?」
とと、と転ぶように心臓が早鐘を打つ。
「信じたんですか?」語気を強めた芳郎が応接台に手をつき、立ち上がりかけた。掴みかかりそうなほどの勢いだったけれど、小嶋はその雰囲気に呑まれることなく淡々と告げた。
「信じたわけじゃないよ、もちろん。けど……、『もしかしたら』とも思った。だから、記事にしたんだ。憶測で記事が書けるのは週刊誌の悪いところであり、良いところでもあるからね」
「……良いところ?」思わず呟けば、
「そう。新聞記事にするには確固たる根拠と証拠が必要だし、あくまでも『事実』じゃなきゃならない。だが、週刊誌はそうじゃない。だからこそ、時には巨悪を暴くきっかけとなることがある」
「きょあく」
「ああ。いわゆる『問題提起』というやつさ。この世界では『こんな悪いことが起こってる』って知らしめることができるだろう?」
「でも! さっきは、記事をするには裏付けが必要だって……、」
ずっと握りしめていたペットボトルがぱきっと音をたてる。間抜けな音だった。ふっと笑んだ小嶋は何を思ったのか、ほんの二、三秒だけ窓のほうに視線を向ける。
そこにはただ、四角い空が広がっているだけだ。けれど、彼には見えるものがあるのかもしれない。
「一つだけで良かったんだよ。裏付けなんてね。たった一つで良かった。だから当時の記者たちは必死に、犯人の手がかりとなるようなものを見つけ出そうとしていた」
一つだけ何か裏付けとなるようなものがあれば、記事にできる。
私と芳郎に向き直った記者が姿勢を正した。
「その程度の記者だったんだよ。俺はね。さっきも言ったけど、あの頃の俺は駆け出しの記者で……、要するに世間知らずの若造で。自分の書いた記事がどうなるのか、何を生み出すのか、世間にどういう影響を与えるのかも分からないまま、ただ『心象』を優先した。事実よりも真実よりも、『疑わしい』という心象を」
そしてそれで、正義を果たしたつもりだった。そう、思い込んだ。
「だから、書いたんですか? ―――――あの人が、犯人かもしれないって……、」
声が震えた。きっと顔色も失っていただろう。平静を装うことなんてできない。
そんな私に気づいているのかいないのか、小嶋は深く頷いた。
「限りなく黒に近いと思った。十中八九、変質者の仕業で、だとすれば近隣の人間が怪しい。あの神社は観光客向けじゃないし、人気もない。あそこに足を向けるのは近所の人間くらいだ。だとすれば必然的に、怪しい人間というのは絞られてくるだろう?」
「……、」
「辻褄が合う。近所でも噂になってた。あの男が怪しいって」
「……でもそれは、週刊誌が出た後で、」
「いや、違うよ。あの記事が出るよりも前から、そういう噂が流れてた。いくつも流れていた噂の内の一つがそうだったんだよ。実際、情報提供者もそう言っていたし」
「……そんな!」
声を上げてからはっと息を呑む。私はあくまでも被害者遺族の友人でしかない。だから、こんな風に動揺してはならないのだ。第三者なら、もっと冷静に話を聞けるはずだから。
「実際、ドライブレコーダーにあの男が映っていたと報道され始めたのは、記事が出たすぐ後くらいじゃなかったかな?」
額に汗が滲むような感触があり、手の平で押さえる。その仕草を見て、貧血でも起こしたのかと思われたのか「……大丈夫?」と小嶋が心配そうにこちらを見た。
咄嗟に言葉が詰まって、ただ首を振る。
「……ところで小嶋さん」
そこにぽつりと落ちた芳郎の声。
「その情報提供者って、誰なんですか?」
今日、私たちが最も訊きたかったことだ。小嶋の視線が、私から芳郎に移る。
「答えるわけにはいかないな。記者にとって、情報源というのは絶対に守られなければならない存在だ」
「……、分かってます。―――――でも、知りたい」
屋外から、風に巻き込まれた子供たちの笑い声が室内に運ばれてきて。胸の奥が切なく痛んだ。
宇都宮の三兄弟と私でヒーローごっこをして遊んだのを思い出す。芳郎はいつも悪役を買ってでて、征二郎と幸三郎が正義の味方。私は悪役に捕らわれたお姫様。
芳郎に柔く拘束された私を、幸三郎がヒーローさながら救い出してくれるのだ。
小さな手が私の指を掴む。その温度に愛しさを覚えた。
「……気持ちは分かるよ。それに、察しはついていたからね」
きっと情報提供者について訊かれるだろうと思ったと、記者は今日何度目かのため息を吐いた。
それから何か考え事をするみたいに視線を彷徨わせて、ソファの背もたれに上半身を預け、天井を見上げる。何となく視線の先を追ったけれど、そこには当然、何もない。
「娘は、」
互いにどのくらい黙り込んでいたのか。小嶋は再び、思い出をなぞるように話し出す。
「相変わらず予断を許さない状況だったけれど、今なら会えると病院から連絡が入って、編集長からどうにか半日だけ休みをもらった。娘につきっきりの奥さんとは病院の待合室で落ち合うことになっていて。だから、急いで病院に向かったけど待合室に奥さんの姿はなかった。娘の入っていたHCUは、病院の決まりで、付き添いは一人しか入れない。感染症の心配があるからって例外は認められていなかった。だから奥さんが出てくるのを待つしかなかったんだ。早く娘の顔を見たかったけど仕方ない。ソファに座って、テレビをぼんやりと眺めてた」
そしたら、―――――。
相手の相槌さえ必要ととせず、落語でもしているかのような緊迫感を醸し出す。息継ぎさえ惜しむように一気に喋るその姿はどこか鬼気迫るものがあった。
「ある人が、ある事件について語ってた。……そう、当時世間が最も関心を寄せていた幼児が沼に沈んでいた事件だ。自分も記者として現場にいたし、記事も書いている。それまでは何となしに聞き流していたが、がぜん興味が沸いた。だから、テレビの真ん前まで移動して、音量も上げてテレビ画面に集中したよ」
玄関先でインタビューを受けているのか、その人は、上がり框のところに膝をついていた。磨き抜かれたフローリングの色を今でも覚えてる。あくまでも顔は見えないように、胸の下あたりから映し出されていたので正座した太ももの上に重ねられた両手がよく見えた。
泣いているのか、ハンカチを握りしめて。指をぎゅっと曲げていた。
「幸三郎という子がどんな性格だったのか、……好奇心旺盛で元気がよくて、三歳の誕生日を迎えたあたりからいっそう活発になって、大人が考えもつかないような突飛な行動をすると語ってた。優しい口調で、だけどその子を失った悲壮感と、犯人に対する憎しみを隠すことなく」
事件が事件だし、カメラを前にして落ち着かないのだろう。ハンカチを握りこんだ両手の指を何度も組み替えていた。右手を上に。左手を上に。その指が、一瞬ほどけた。
顔を映せないからか、その悲しみがいかほどのものなのかを視聴者に届けようとしたのだろう、カメラがその指先に迫る。
白い指先が小刻みに震え、その絶望を物語っていた。しかし、
「目を、疑った」
人差し指の第一関節のところにほくろがあるのに気づいたんだ。そう言って、男が右手で目元を覆った。その指の隙間から、こちらを覗く。
いや、覗いているのはこちら側か。―――――覗いているのは誰で、覗かれているのは誰だろう。
「ほくろに、目を疑ったんですか?」訊いたのは芳郎だ。
「……ごめん、やっぱり吸っていいかな」
小嶋は項垂れるように席を立ち、胸ポケットを探る。足早に窓辺に寄ると、右手でライターを弄びながら煙草を口にくわえた。そして、先ほどと同じく窓の桟に腰かける。
けれど彼は、煙草に火をつけなかった。
「俺は、画面を食い入るように見つめながら思い出していた。ある日突然現れたバケットを被った奴を」
「そいつは俺に写真を見せながら、しきりに顔を隠すような仕草をしてた。……マスクをしているし、帽子も深く被っているのに、だ。ずれてもいないマスクを何度も直した。どうしても身元を特定されたくなかったんだろう。そういう心理は理解できなくもない。何せ殺人事件のタレコミだ。だからあえて見て見ぬふりをしたし、身分を証明するようなものの提示は求めなかった。それよりも有益な情報が欲しかったからだ」
けど、一挙手一投足を観察するように努めた。嘘を言っていないかが気になったから。
今でも覚えているのは、その指だ。
「振る舞いはどこか上品で、育ちがいいんだろうなと思った。指の動きが丁寧で雑じゃない」
その人差し指に、ほくろがあった。
「―――――な、え? ……何?」
ざっと音がしたのは、耳の後ろで。血液が一気に足元に落ちたのが分かる。それは多分、芳郎も同じだ。
小嶋に視線を向けたまま微動だにしない芳郎の横顔は、あの日の母親と同じだった。頬を通る血管の色が見えるほどに真っ白で、紙よりももっとずっと白い。
「怖くなったよ。俺は何かとんでもないことに巻き込まれたんじゃないかって」
第三者であるはずの自分はいつの間にか共犯者になっているような感覚。ぞっとして息もできなかった。
「A氏と、テレビでインタビューに答えていた人物は、同じだ」
「A氏は、幸三郎ちゃんの、」