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そもそも、池の底で見つかった幸三郎は、なぜ事故ではなく他殺と判断されたのか。―――――それは、あの子の遺体にいわゆる「着衣の乱れ」なるものがあったからだ。
あの日、きちんと母親に着せられたはずの長袖のシャツが脱がされていたらしい。
履いていた膝丈のズボンはそのままで、靴下は片方だけ履いていたと聞く。靴は脱がされたのか、脱げたのか。ともかく、あの子は実に、不可解極まりない格好で発見されたのだ。
幸三郎が自分で衣服を脱いだかもしれないという説は、始めから、否定されている。
警察は随分早い段階で、幸三郎殺害事件を変質者の仕業によるものと結論付けていた。幸三郎にいたずらしようとした人物が、いざ犯行に及ぼうとしたけれど抵抗され、動揺のあまり思わず池に投げ込んでしまったのだと。
あまりにも短絡的といえる動機付けだと思う。
「おじさんが犯人だって、誰もが思い込んだのは……、週刊誌によるものも大きいけど。ニュース映像もその一つだよな?」
「うん、そうだね……」
―――――週末。
件の記者に面会のアポイントを取って、さっそく会いに行くこととなった。
私と芳郎が住む街からは少し離れているが、それでも決して遠くない場所にその人が事務所を構えていたのは、どういう巡りあわせだろう。会いに行くのに、荷造りの一つも必要なかった。
偶然といえば偶然だが、奇妙な縁を感じざるを得ない。
父を追い詰めた人間がすぐ近くにいて、さして苦労もなく会いに行ける。これは一体、何の因果だろうと思いながら、被害者遺族と会うことに躊躇う様子もなかったらしい男の姿を想像してみた。
意地の悪い顔をしているのだろうか。
電車に揺られながら窓の外を見る。ブランコや滑り台がぽつりぽつりと点在する公園の中を、我が物顔で闊歩する茶トラの猫が居た。表情までは見えないが、暑くも寒くもない日よりで、心地良さそうだ。
「……なぁ。あれって、本当にお前の親父だった?」
唐突に問われて、隣に顔を向けるも視線が合うことはなかった。彼も窓の外を見ている。
曇ったガラスに二人の影が映っていた。
「あれって?」
「……ニュースで流された映像に映ってたの、本当におじさんだったか? 本当の本当に?」
先頭車両に向かって二人ずつ横並びの座席が並んだ車内には、数えるほどの人しか乗っていない。私たち以外は皆、二人席に一人で座っている。当然、誰も喋っていない。けれど、電車が走る音のせいで隣にいても耳を澄まさなければ、芳郎の言葉を正確に聞き取るのは難しかった。
「……、」
「みち?」
促されてもなお返事を躊躇ったのは、ここで肯定してしまうと、父が犯人だと認めてしまうような気がしたからだ。
それほど「強力な証拠」ともいえる映像が、テレビ番組で流れたのである。
「みち。大丈夫だよ」通路側に座っている芳郎がこちらを見た。柔和な顔つきだ。
そうだ。この人は、怒っていなければ実に優し気な表情をしているのだ。彼を産んだ母親と同じように。
「……私には、よく分からない。映像も乱れていて、そもそも後ろ姿だったし、似ている人が他にいないとも言えない」
それは、神社の鳥居まで続く長い階段の下に停めてあったトラックのドライブレコーダーに映り込んでいたのだという。
一人で階段を登る小さな幸三郎の背中と、その後を『追いかけるように』登っていく父の姿だ。
しかし、二人が階段を登ったのには僅かながら時間差があり、実際、父も「こうちゃんの姿は見ていない」と話している。自分はあくまでも仕事の合間に休憩がてら散歩をしただけで、いつも通り、お賽銭を投げ、鈴を鳴らし手を合わせた後は、本殿の周辺を少し歩き回って自宅に戻ったと。
私も父のその習慣は知っていた。
「……それを、幼い子を物色して歩き回る不審者と捉えた人間もいた」
当時は、報道番組を含めワイドショーでもその映像を使い、まるで声高に「犯人を見つけた!」と叫んでいるようだった。
各番組にゲストとして呼ばれていたのは犯罪心理学者なる人で。
犯罪心理学から導き出された犯人像と、映像の男は年代や背格好が一致すると、至極得意げに語っていた。覚えていたくもないのに、そのしたり顔を忘れることができない。
自宅で、一緒にテレビを見ていた母は息を呑み、たちまち顔色を失った。
無意識だったのか、私の手を、潰れるほどに強く握って「大丈夫よ」「大丈夫」と繰り返す。あまりに何度も言うから、これから何かとんでもなく恐ろしいことが始まるのではないかという予感に震えた。
公共の電波を使って、執拗に、何度も繰り返し流された映像から目を背けることは難しい。
幸三郎らしき小さな男の子と同じ道を通った男性が纏っていた紺色のジャケットは。
確かに、父がよく着ていたものに似ていた。
でも、近所の大型スーパーで購入したものだから、他にも同じジャケットを持っている人はいただろう。
ズボンや靴はよく見えなかった。
神社の階段付近は遠目にしか映っていないし、幸三郎らしき男の子も、父も、別人だと言われれば、そうかもしれないと思えたし、また、似ていると言われれば似ているような気がした。映像はそれほど鮮明ではなかったのだ。
それでも、警察に属する「専門家」は父の可能性が高いと言った。
事実として、家宅捜索の際に我が家から持ち出された父の靴の裏からは、ため池周辺の土が採取されたと聞く。逮捕の決め手は恐らく、それだろう。
残念なことに、父が犯人だと特定できるものはいくつもあった。彼が犯人で間違いない、疑う余地もない。……と、誰もがそう思ったに違いない。
「ニュースでもおじさんの証言は取り上げられてた。散歩に出ただけだと話してるって。……けど、あのときは誰も、おじさんを信じなかった」
「……、」そうだ。ただひたすら、皆が父を疑った。そして、疑いの目で見れば、何もかもが疑わしく見えてくる。
「だけど、違ったら? そもそも本当のことしか言っていないとしたら?」
それなら、と芳郎は一つ呼吸を置く。
「神社を散歩したのが事実なら。参拝した後、ため池の近くには行ったのかもしれない。でも、あの池は大きい。それに、池の周辺には大人の背丈を超える草が生い茂っていたはずだから、幸三郎があそこにいたとしても見えなかったかも……」
父は他人に嘘を吐くことを良しとしない人だった。大抵の親が子供にはそう教えるはずだ。
嘘を吐いてはいけないと。
なのに私は、いや、私も父を疑った。信じきれなかったのだ。
「お父さんの言葉を信じるなら、お父さんがあの階段を登った後、誰か別の人が神社に向かった可能性は捨てきれない」
トラックがあの場所に停車していたのは、階段の下に一つだけあった商店に荷物を運んできたからだ。荷物はさほど多くなく、停車していた時間も短い。その短時間に偶然、幸三郎の姿が映っていた。
「週刊誌による報道だけなら、ガセだって思う人はいたはずだ。でも、……おじさんが犯人かもしれないと思わせるような映像が流れるともう、だめだった。だろ?」
世間も、―――――警察ですらそうであったかもしれないが。変質者の父が幸三郎を襲ったという仮説を信じ、それをまるで真実であるかのように吹聴した。
「家宅捜索のとき、女性の刑事さんが来て私だけ別室に呼ばれたの」
怖がらなくていいから正直に言ってね、と。微笑みすら浮かべた、とても優しい顔で問われた。棘の一つもない柔らかな声が、逆にそら恐ろしい。
内緒話でもするかのようにゆっくりと近づいてきた顔は能面のようだった。頬にかかった吐息はひんやりとしていて、生身の人間から吐き出されたものとは思えない。
『お父さんと一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たりする?』
首を振れば、『そう、女の子だもんね。……違うよね』と呟く。独り言だったのか、あえて聞かせたのか。当時はその言葉の意味が分からなかったけれど、あれはもしかしたら「男の子ではないから対象外」ということを言いたかったのではないだろうか。
つまり、あのときにはもう父は「変質者」の烙印を押されていたことになる。
「……幸三郎がおじさんに何かされていた場合、俺だってその対象に入るはずだ。征二郎も。でも、何もされてない。頭を撫でてもらったり、抱き上げてもらったことはあるよ。でも、そういう……、あのとき誰もが想像したような性的接触というのは一切、ない」
僅かに語気を強めた芳郎が、すっと視線を逸らす。自分の指先を見ていて、少し、震えているような気がした。
私の視線に気づいたその人が両手で顔を覆う。
ごとん、ごとんと電車が揺れた。
「―――――おじさんがもし、犯人じゃなかったとして。真犯人を見つけた場合、どうするんだろうって。いや、どうなるんだろうって考えたりする」
「……、」
「お袋、付き合っている人がいる」
あまりにも突然の告白に、寸の間、理解が追い付かずぽかんと口を開けてしまう。
「……え?」
「あの立派な家、その人がお袋のために建てたんだ」
俺と征二郎はついでに住まわせてもらってるみたいなもん。そう続けて、芳郎は顔を上げた。
「お袋はもちろん、幸三郎のことは忘れてない。当たり前だけど。……毎朝、仏壇に話しかけて泣いて。仕事から帰ってきたら真っ先に仏壇の前に座る」
その様子を思い出しているのか、遠くを見るように瞼を下ろす。
「俺や征二郎はさ、時々忘れるんだ。家に帰って幸三郎に『ただいま』っていうのを。男兄弟なんてそんなもんだと思わないか? 結構、お互いの扱いが雑なんだよ。生きてても……、そうじゃなくても。でも、お袋は一度だって忘れたことがない」と、どこか懐かしむような顔をする芳郎は今、どんな気持ちなのだろう。
「食事だってさ、いまだに幸三郎の分も用意するんだよ。チビだったあいつのために、いかにも幼児が喜びそうなキャラクターに似せたおにぎりとか、小さな唐揚げとか。たこさんウィンナーってやつ? 並べてさ。そういうのがだんだん、小学生が好むようなものになっていって。量も増えていく。―――――幸三郎の成長に合わせて。さすがに、そこまでやる? って、俺は思うけど。でも、お袋には必要なことなんだ」
ずっと苦しんでる。ずっと、ずっとだ。
「そういうお袋を、大切にしたいって人が現れてさ。周囲が、もういい加減、未来をみたほうがいいって言う中で。過去を見ながらでもいい、時々、前を向いてくれればそれでいいっていう人が」
「、」
「優しい人だよ。こんな厄介な事情を抱える家、選ばなくても、他にもいい人いっぱいいるだろうに」
「……、」
「そんな人に、お袋は選ばれた。だから絶対に幸せになる」
絶対に、ともう一度つぶやいたその声は、強い決意に満ちている。
そうであってほしいと私も願う。当然のことだ。
「だけど、―――――」
自分が幸せになれるかどうか分からないと、芳郎は言った。
もう、分からないと。どうやって幸せになればいいのか、分からないと。
******
今はフリーライターをやっているというその人は、想像していたよりも随分、若かった。
「散らかってて悪いな。片付ける暇もなくて……。この後も九州の方に取材に行く予定なんだ」と、苦笑して、応接台の上に放られていた雑誌や新聞を端に寄せる。
灰皿には山のようになったたばこの吸い殻が放置されていて、そういえば、こういうのを見るのは随分久しぶりだと感慨深くなった。昔はドラマや映画でよく、男女問わず、誰かがたばこをふかしながら考え事をしていたけれど。
座って、と促されたソファは背もたれの皮が一部、剝がれている。
「新しいのを注文してるんだけどなかなか届かなくてね」と、私の視線に気づいたのか、その人は気まずそうに笑った。
古いソファに不満を持っているように捉えられたのではないかと、頬に熱が上がる。
すみませんと頭を下げながら、芳郎と並んで腰かけた。
そうしている間に、今の今まで事務作業をしていたと思しき女性がすっと立ち上がり、部屋の隅にぽつんと配置された冷蔵庫からペットボトルを二本とって、応接台に置く。
「どうぞ」とそっけなく言われて、再び頭を下げた。
「おいおい、コップにくらい入れてやれよ」と記者が、元の席に戻ろうとしている女性の背中に声をかければ「コップなんてありませんよ」と温度のない声が返ってくる。
「……ああ、そうか。確かに」
合点がいった様子の男が胸元から名刺を取り出して、私たちの前に一枚差し出した。
小嶋という名前は、週刊誌の署名と同じで。彼があの記事を書いたのだと思えば、何とも言えない感情になる。なぜ、あんな記事を書いたのかと大声をあげそうになるけれど、いまだに、目の前にいる人物があの記事と書いたというのが信じられない気分でもあった。
「私、外に出てますから」
互いに沈黙していたことに気づいたのは、席に戻って事務作業していたはずの女性が立ち上がったからだ。
はっと我に返ったのは小嶋も同じだったようで「……ああ、悪いな」と声をかける。
カーデガンをひっかけて、さっさと部屋から出ていく彼女は私たちには全く興味がないようだった。
「―――――何から話そうか」
口火をきったのは小嶋だ。低い声が地面を這うようで足の裏がびりりと震える。どのような真実を聞かされるのか、背中に冷たい汗が滲んだ。
「ところで君たちは友人なのかな? 兄妹…ではないよね? 君のところは全員男の子だったでしょう?」
首を傾げながら芳郎に問う男が怪訝そうな顔をしている。
「はい、ただの友人です。……が、事情はすべて彼女にも打ち明けてます」と、記者の顔をまっすぐ見据える芳郎。嘘を吐いているわけではないが、事実を述べているわけでもない。
小嶋はちらりと私の顔を見た後、膝の上で組んだ自分の手元に視線を落とした。
そしておもむろに立ち上がると、窓を開けて、外を眺める。
柔らかな風と共に、近くに公園でもあるのか子供たちの笑い声が室内に入り込んできた。
振り返った男は、窓の桟に軽く腰かけて「当時、俺には奥さんと子供がいた。もう離婚したけど」と言う。
左手の薬指を、右手で擦っているけれどそこに指輪はない。
「……娘が、病を患っていると知ったのはちょうど生後三か月くらいだったかな。先天性の病気で、すぐに手術が必要になった。長時間の手術で何とか一命を取り留めたけど、完全に回復することはないと言われたんだ。……この先ずっと、投薬治療が必要だってね」
駆け出しの記者だった彼はとっさに思ったそうだ。
「金がいる」
通院しなきゃまともに生活ができない病に冒されている娘。だけど薬を飲んでちゃんとした医療さえ受けられれば成人式も迎えられる。医者からそう説明されたときは安堵した。良かったと心の底から思ったし、奥さんとも手を合わせて喜んだと続ける。
けれど自宅に帰ってネットを検索すれば、決して安くない治療費が必要だというのが分かった。
一生、生活費とは別のお金がかかる。
「……結婚したときは、教会で永遠の愛を誓いながら、愛さえあれば何でもできると思ってたはずなのに、……どうにもならないこともあるんだなって打ちのめされたよ」
それで俺は、とにかく仕事に打ち込むことにした。奥さんは娘の看病で仕事に出られないし、両親もできる限り助けてはくれたけれど金の無心をすることはできなかったから。手術費用は保険で何とかなるって分かってたけど今後のことを考えると少しでも稼いでおいたほうがいいのは明白だった。
「もちろん転職も考えた。けど、辞めるなら次の仕事が決まってからじゃないと、月々の支払いさえ滞る。だからとにかく、何でもいいから記事を書きたかった」
「―――――そんなときだよ。あの事件が起こったのは」
おかあさーん!と、舌足らずな声が響く。窓の外に視線を向けた小嶋が、口元に笑みを浮かべた。
何が見えたのだろう。
「勘違いしてほしくないのは、それでも、金と引き換えにあの記事を書いたわけではないってことだ」
遠慮しないで飲みなさいと、応接台の上で汗をかいているペットボトルを指さされて、口をつけないのも失礼かもしれないと慌てて手に取る。
窓を開け放ったままこちらに戻ってきた彼は、私がペットボトルのふたを開けるのをじっと眺めていた。
「編集長にね、なんでもいいから特ダネ掴んで来いって叱咤されて、現場にも向かった」
「……、そう、ですか……」
相槌を返す芳郎の声はどことなく弱々しい。不安なのだ。私も、そうだった。
「けど結局、現地では芳しい成果を得られなかった」