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6

あの日、何が起こったのか説明しろと言われても、うまく話せるか分からないと芳郎は言った。


お袋は夕飯の準備をするってキッチンに入ったんだけど。

あの家、覚えてる? うちとお前の家、作りがほとんど一緒で。対面型のキッチンだっただろ?

カウンターの向こう側に流しとコンロがあって、お袋はそっちからダイニングを見ることができたんだ。子供たちの様子を見ながら料理ができるのが嬉しいって、そう言っていたのを覚えてる。


あの日もそうだった。

ダイニングには俺と、征二郎と幸三郎の三人がいて。征二郎は絵本を読んでた。確か、乗り物がたくさん載ったやつだよ。あの頃はその本がお気に入りで、いつも眺めてた。

それでそのとき幸三郎は、積み木で遊んでたんだ。真四角のやつとか長方形のやつを積み上げて、倒して、また積み上げて。そんな風に遊んでた。何度も何度も同じことやって、何が楽しいんだろうって思っていたけど。

「お袋はあの時、俺に言ったんだよ。幸ちゃんを見ててねって」

俺はもちろん「うん」って言った。

視界の隅で、積み木を放り投げたり、床に並べる幸三郎を見ながら。

「別に何も考えてなかった。どうせ、キッチンにいるお袋からもこっち側が見えるし、征二郎もいる。そんなに俺が見てなくても大丈夫だって、多分、そう思ってた」

だって、いつものことだったから。


―――――どのくらい経ったか分からない。

ふと、幸三郎の気配が消えてることに気づいた。


「でも、家の中にいると思った。だから、ダイニングから出て廊下を見てみたんだ」


まさかどこにもいないなんて思いもしない。トイレやお風呂場を覗いて。それから階段を見た。

小さな幸三郎はあの頃、階段をよじ登ることはできたけど、一人で勝手に二階に行くことは許されてなかった。滑ったら危ないし。だから、階段の前にはベビーゲートを置いてたんだ。まさかとは思ったけど……。もしかしたら自分で柵を避けて二階に上がったかもしれない。

「二階も確認して」

どきどきと音をたて始めた心臓を抑えるように、深く息を吸った。

でも、二階は静まり返っていた。誰もいないのはすぐに分かったけど、それでも、きっちり閉められていた扉を開けて中に入った。

がらんどうのように大きな口を開けた、真っ暗な部屋。

「焦りだしたのは、そのときなんだ。―――――遅いよな」

「……、そんなこと……ないと思うけど」

「いや、遅かったよ。すごく、遅かった」


だって、そんなことする前に、幸三郎がいないって気づいた時点でお袋に話してたら、こんなことになってなかったかもしれない。いや、絶対に、こんなことにはならなかった。

一分一秒が争う事態なのに……。俺はただ、幸三郎をちゃんと見ていなかったことを、親に咎められるのを恐れてたんだ。


芳郎はそう言って、震える息を吐きだした。


「俺、あの日……。ゲームしてた。クラスで流行ってたやつ。あのソフト、クラスのみんな持ってたのに、俺だけなかなか買ってもらえなくてさ。誕生日まで待ちなさいって言われてたんだけど我慢できなくて。テストで良い点取ったらご褒美に買ってほしいって親にねだったんだ。……それで、約束通り買ってもらったやつで」


嬉しくて、夢中になった。ロールプレイングってやつ。少しでも先に進めようと思った。クラスの奴らに遅れをとってたし。必死になってたのかも。


「だから、幸三郎がいなくなったってわかったとき、咄嗟に思った。しまったって。やらかしたって。……そんな程度だったんだよ。最初は、ね。トイレにもお風呂にも二階にも、どこにもいないって分かるまでは」


そうして、何が起こったのか。説明するまでもないよな、と芳郎は立ち止まった。

彼がこちらを見ているのは分かるが、街灯の明かりがちょうど届かない位置にいるので、どんな顔をしているのかよく見えない。


「誰も責めなかったよ。お袋だって言わなかった。もちろん親父だって。お前がちゃんと見てなかったからだとか、お前のせいだとか、一言も口にしなかった」


けど、幸三郎の葬式の日。親戚に言われた。


「今度は、お母さんをちゃんと支えてあげなきゃねって」


ああ、知ってるんだって思った。俺が何をしたのか。―――――いや、何をしなかったのか。


「大人たちは皆知ってて、それを黙ってた」


子供の頃、お前を学校で殴ったことあっただろ? あれ……、謝っても許されることじゃないってわかってるけど……。本当にごめんな。痛かったろ?


そう続けた芳郎が、小さく鼻をすする。泣いているのだと思った。

けれど、許すも許さないも言葉にするのは違うような気がして、ただ黙り込むしかない。

「あのとき、誰よりも幸三郎を殺した犯人が捕まることを祈っていたのは多分、俺だった。親は、幸三郎がああなってしまった原因を知りたかったんだろうけど、俺は……、犯人が捕まればそれで良かった」

だってそうじゃなきゃ、


「俺のせいで、幸三郎は死んだんだって―――――、」


誰もそんなことを言わないけど、そうなんだって……、思ってたから。

だから、おじさんが犯人だって信じることで、自分の心を救ったんだ。あんなに優しくしてくれたのに。


今度ははっきりと、ひくりと喉がひっくり返る音がした。

苦しい。私も、息ができないような気がする。


「長々とごめんな。こんな話、今更聞かされてもって感じ、だよな。……分かってる。分かってるよ」


だけどありがとな。聞いてくれて。と、芳郎は暗がりの中で頭を下げた。

喉が締め付けられるようで、声も出せずにただ首を振る。彼にはきっと見えなかっただろう。

そしてしばらくの沈黙の後「明日また学校で」と振り切るように踵を返したその人の背中を見送った。

街灯の光から外れてしまえばそこは完全な暗闇で、その姿が見えなくなるまではほんの一瞬だ。

去っていく足音に耳を澄まして。しばらくそこに立っていたのは、動けなかったからである。

全身が熱を持っているような気がして、なんだかおかしいと頬に触れてみれば、指先がぐっしょりと濡れる。

自分も泣いていることに気づいたのは、そのときだ。瞬きの度に、涙が零れ落ちていった。


悲しい。ただ、悲しかった。

何が悲しいのか、誰が悲しんでいるのか、もはや何もわからないほどにただ、苦しい。


あんなことが起こる前。

私たち家族は、京都へ旅行する予定だった。夏休みになったら行こうねと新幹線のチケットを手配して、それから、家族三人でお揃いの旅行鞄を買いに行ったのを覚えている。

そのあと父と二人で本屋さんに行って、京都観光の名所が掲載された本を何冊か選んだ。一冊だけ選ぼうとしていた私を見て、その人は「全部買っていいよ」と笑った。

二泊三日で、時間が限られているからあらかじめ行きたいところを選んでおくといいよ、と。

頭を撫でててくれた大きな手を、思い出す。


その指を握って「楽しみだね」と返した。お母さんにもこの本、見せてあげようねと二人で微笑みあって。

私はきっと、これから先ずっと京都には行かない。―――――行けない。


果たされなかった約束を、思い出すから。



*

*


なるべく音がしないように玄関のドアを開ける。そこには行儀よく並んでいるのは母のパンプスだけだ。

あの名前も知らない紳士はもう帰ったのだろう。

「ただいま」と声をかけるが返事はない。

先ほどと同じく、玄関のすぐ前にある扉は閉まっていた。そっと開けて、慎重に中を覗き込むと、ダイニングテーブルにうつ伏せになっている母の背中が見える。

「……お母さん?」

声をかけるが動かない。

近づけば、小さな寝息が聞こえてきた。目の下には隈が浮いている。

芳郎の話からすれば、母は毎朝、それもかなり早い時間に玄関の扉を確認していたはずだ。

私が眠っている間に、そうと気づかせないように。想像するだけで背中が重くなる。

振り返れば、シンクに二つ分の湯飲みがあった。私がさっき、母の連れてきた男性に出した分と、恐らく母の分だ。中身は空っぽで、捨てたのか飲み切ったのかは判断できない。

どのくらいの時間ここにいて、どんな話をしたのだろうと考える。

私に言ったのと同じことを話したのだろうか。


「お母さん、」


無意識にも、もう一度その人を呼ぶ。決して大きな声ではなかったというのに、ぴくりと肩が揺れて、ゆっくりと瞼が開いた。「……ごめん、寝ちゃってた……」そう言いながら、半身を起こす母。

「……あれ、みち……、あ、そうか……貴女、どこか行ってたのね」

ふう、と吐き出されたのはため息か、それともただの深呼吸なのか。突っ立ったままの私にちらりと視線を向けて苦笑するその様には、どんな意味が含まれているのだろう。

「家に戻ったらいなかったからびっくりしちゃった。駄目じゃない。お客様、ほったらかしにして」

細い指で額を突かれて、思わず後退した。

はっきりと、責められているのだと理解する。どうしてか、胸の奥がぎゅっと小さくなった。

あの男性の、ひどく冷静な声が蘇る。


『私はね、怖いんだよ』


高校を卒業して一人暮らしを始めるのは珍しいことではない。実家から離れた学校に通う人なら大抵、そうするだろう。家賃や生活費をねん出するのは大変だが、親に干渉されないことに自由を感じる人だっているはずだ。だから私も、そう思えばいい。

自由になれるんだって。


「……あ、晩御飯……、どうしようか」


そう言いながら立ち上がる母を見る。ん? と首を傾げる眼差しは優しい。

私が家を出たら、あの人と暮らすのだろうか。ここではない、どこか違う場所で。そうなったなら私は、母と会うことができるのだろうか。彼の言い草からして、それは許されないような気がして。

母はそれをどう思うのか。好きな人と暮らせるなら、どうでもいいと感じるのか。

やっと重荷を下ろせるとほっとするのか。


私なんていなければ、とっくに幸せを掴んでいただろう母。

本当は赤の他人に指摘されるまでもなく分かっていた。

父と母の間には当然、血の繋がりなどなく、籍を抜けば赤の他人だ。父との繋がりなど簡単に断ち切れたはずで、いつでも、いくらでもやり直すことができた。

他の誰かと結婚して、新しい家庭を築いて、最初から何もなかったかのように。そういうことだってできたのに。

娘がいるから……、私が父の血を引いているから。そのせいで、多くのものを手放し、諦めざるを得なかった。


「……お母さんは、」

「ん?」


「お母さんはもう、―――――お父さんのことが嫌い?」


その瞬間の母の顔を、どう表現すればいいか分からない。驚愕、恐怖、あるいは畏怖だったかもしれない。

でも、息を呑んだのは私だ。こんなこと言うはずがなかったのに、自分でも思わぬことを口にした。

「何を言うの、」と肩を掴まれて、心臓が音をたてる。今しがた己は、何を問うたのだろう。


「誰かに何か言われた? どうしていきなりそんなことを? まさかさっきの人のこと何か、勘違いしてるんじゃないわよね? お母さん、あの人と付き合ってるわけじゃないのよ? ただ、ただね、物凄くいい人だから貴女にも会ってもらいたかっただけなの」


捲し立てるように言われてたたらを踏む。己の顔が歪んだことは誰に指摘されるまでもなく分かった。

掴まれた肩が痛かった。そして、ただ疑問に思った。

父のことを訊いたのに、なぜ、赤の他人の話が出てくるのだろうかと。


「……忘れちゃった?」


泣き声みたいに震えた自分の声が遠く聞こえる。「え?」と、間の抜けた顔をした母が降参するかのごとく、ぱっと、私の肩から手を離す。

「お父さんのこと、忘れちゃったの……?」


泣きたくなかった。父のことを思い出して悲しんでいるとは、思わせたくなかった。

あの事件以降、他の誰よりも苦しんできた母にそんなことを思わせる娘でありたくなかった。


「……いきなりどうしたの? みち?」


ごめんね、不安にさせちゃったのかな? 一度、距離を取ったはずの母が両腕を伸ばして私を包み込む。

ふわりとした感触はまさに羽毛のようで。母鳥が雛を守ろうとするしぐさそのものだった。

顔を上げれば、しみの浮いた天井とほこりを被った電気傘が見える。……濡れタオルで拭けばきれいになるだろうか。洗剤を使わないとダメだろうか。玄関の扉に書かれていた文字は、簡単に消すことができたのだろうか。なんて、詮無いことを考える。

意識を反らさなければ、声を上げて泣いていた。


「―――――お父さんのことなんて忘れていいの。貴女には、お母さんだけ。貴女の親は、初めからお母さんだけなのよ」


だからもう二度と、お父さんの話はしてはいけないわ。家の中でも、外でも。


「それとも学校で誰かに何か言われた? だから様子が変なのかしら……」と、耳元で問われて首を振る。

何でもないよ、と掠れた声が漏れた。そう、何でもない。こんなこと。

それなら良かったと笑っただろう母の声が、もっと遠くに聞こえる。



―――――あの街を出ると決めたのは、父が亡くなって、しばらくしてからだ。

日に日に増していく嫌がらせに耐えられなくなったのである。

ある日、玄関ポーチに投げ込まれたお人形。

赤ちゃん特有の、みずみずしく柔らかい肌の感触を再現した顔や、その丸みを帯びたフォルムには覚えがあった。小さな子が腕に抱えて余るほどの大きさをした、ずっしりとした重さのお人形で、私も幼い頃、それでよく遊んでいた。どこに行くにも一緒で。

そんな人形が、バラバラに解体され、投げ込まれたのである。

それも、一度や二度ではない。


週刊誌や新聞社の記者たちも相変わらず、ひっきりなしで現れては玄関チャイムを押していく。あまりにしつこいので電源を落としたら、今度は、大声で呼びかけてくる。

『お留守ですか~?』『本当はいるんでしょう~?』

学校には当然、行けなくなったし、食材を買いに行くことすら難しくなった。

それでも―――――。

世間の関心はやがて、別のところに移っていく。当時、人気絶頂だった芸能人の恋愛スキャンダルが私たちの救いの手となった。まさかそんなことでと思うだろうが、マスコミの関心が一瞬だけ削がれたのである。常に満潮だった波が、引いた。文字通り、そうだった。

だから、その隙をついて夜逃げ同然に街を出たのだ。


荷物を整理する時間なんてほとんどなかったので、家に残していったものも多い。

祖母と、祖母の友人が私たちの代わりに片付けてくれると言ったから、その言葉に甘えた。

『このままだと、みちにまで害が及ぶ。危ないから、とりあえず今は避難すべきだ』という親戚の助言もあってのことだ。

家を出るまえに、父の私物だけは全て、大きなビニル袋にまとめた。あくまでも不要なものとして。警察に持ち出されたものも多かったので、残っているものなんて少ないと思っていたけれど。中身の詰まった袋は、一つ、二つと増えていく。

その山積みになっていく袋の中に紛れ込むように置かれていた、真新しい旅行鞄。なぜか色鮮やかに見えて息を呑んだ。

事件以降、色を失ってしまった世界で、己の存在を主張するかのように奇妙な存在感を放つ。

一度も使われなかったその鞄のファスナーには、まだビニールが巻かれていた。

何となく中を覗いたら、グレーの靴下と青いビニール袋の歯磨きセットが入っていて。

履き古した靴下と、開封もされていない歯磨きセットに、父の残像を見た。

出発予定の日はまだ先だったのに、何日も前から準備していたことを知る。それ程、楽しみにしていたのだろう。


出発予定の日はとっくに過ぎ去っていて。めくられることもなく壁に掛けられたままだったカレンダーの日付には赤い〇と『京都旅行!!』の文字。

楽しみにしていたのはもちろん父だけではなかった。書き込んだのはきっと、母だ。


私たちは、仲の良い家族だった。そう自負している。

けれど、壊れるのはあっという間で。

父が逮捕された後ですら、父を信じていた母はやがて、その人を憎むようになった。



「SNSで……、あの週刊誌の記者を見つけた」


相変わらず、非常階段のところで一人で昼食をとっていたら、芳郎が現れた。彼の家を訪ねてから一週間後のことだ。『また明日学校で』と別れたはずなのに、ここ最近、彼の顔をみなかった。

階段に腰かけていた私を見上げる格好で、彼は持参したらしい紙パックのジュースを振る。

「もう弁当は食ったから」と、人好きのする顔で訊いてもいないことを答えた。

前回と同じように、とんとん、と軽く音を鳴らして階段を上がってきた芳郎を眺めていると、それに気づいた彼が目を細めた。

恐らく、面食らっている表情をしているだろう私に人差し指を向ける。


「驚きすぎ」


表情が柔らかい。そういう顔をしているとますます、おばさんに似ていると思う。


「捜すのはそんなに難しくなかったよ。SNSのプロフ見ると、何年も前に出版社は辞めて、フリーのライターやってるのが分かった。仕事用のメールアドレスも公開してる」

「……、」

理解が追い付かずに、半ばぼうっとしたまま手元に視線を落とした。膝に置いていた、コンビニの袋がかさりと音をたてる。中にはおにぎりが入っているけれど、まだ手をつけていない。


「おじさんのことが書かれた記事に署名があったから。もしかしたらと思って検索したら、案外簡単に見つかった」


前と同じように私に背を向ける格好で座った彼は、紙パックに付属されているストローを取り出した。

リンゴの写真が目立つ、自販機で販売されているものよりも一回り大きなジュースは、学校の購買でしか入手できない。


「ダイレクトメールで、……記事のことを覚えているかどうかってことと。自分は被害者遺族だってことを伝えた上で返事を待ってたんだけど」

「……、」

「きっと信用してもらえないだろうと思ったから、返事がくることは期待してなかった」


でも、すぐ返ってきた。と、芳郎はストローを口にくわえた。ごくごくと喉を鳴らす様子を見守る。

校舎の方から、フルートの音が聴こえてきた。昼休みも練習している熱心な吹奏楽部の子がいるようだ。題名も知らないのに、よく知っているメロディーに何となく耳を澄ます。

優しい旋律の、どこか物悲しい曲。


「何度かやり取りして。俺のこと……、信じたのかどうかわからないけど、会ってもいいって言ってる」


座っていなければ、足から崩れ落ちていたかもしれない。

確かに血の気が引いたような気がしたのに、視界は明るいままだ。むしろより一層、鮮明に映る。


「一緒に行く? みち」


問われて、ただ頷く。口の中が乾いて、声も出なかった。こちらが見えていないはずの芳郎にはなぜか、私の意志が伝わったらしく「そっか」と軽い口調で返される。

そして、そのまま会話が途切れる。本題はそれだけで、そもそも他愛もない話をするような仲でもない。

フルートは何度も同じ旋律を奏でて、ここだけ空間が歪んでいるようだ。

ど、ど、と鈍い音をたてる心音を無視して、おにぎりの包みを開けた。指先が震えてどうにもならなくて、なかなか手こずったけれど、それでも何とか海苔を巻く。

なるべく平静を装ったつもりだった。


私はあの街に色んなものを置いてきた。

父が殺人犯とされた事件もその一つで。八歳までの出来事は触れてはならない禁忌でもあった。自らそう課した。

でもそうして、あの場所に置き去りにしてきた「過去」は。

ずっと、私の後ろを追いかけてきた。

よろよろとよろめきながら。親を捜す、子のように。必死に、私の後を追ってきた。


―――――追い付かれたのだと、はっきりと理解する。


その手が、私の背中に触れたと。


















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