5
「……それで。ちょっと聞いてほしい」
そして芳郎は、テーブルに並べた週刊誌の中から一冊、取り出して掲げた。
もう名前も覚えていないけれど、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いと言われていたアイドルグループが表紙でにっこりと微笑んでいる。確か数年前に解散したはずだ。そんなところで時の流れを感じる。
「……嫌なもの、見せるけど」
前置きがあったものの、おもむろに父のことが書かれたページを見せられて、はっと息を呑んだ。
白黒の紙面には『普通を装った男の隠された性癖!』『妻も子も気づかなかった!幼い子供を毒牙にかけた鬼畜』などという目を塞ぎたくなるような文字が連なっている。
実の父親についてそんな風に書き立てられて。平気な人間がいるのだろうか。
いっそ大袈裟なほどに震える肩を抱き込むように、胸の前で両腕を重ねた。吐き気がするほどの嫌悪感に襲われる。
雑誌そのものに対してなのか、それともこの記事を書いた記者に対してなのか、もしくは―――――、父に対してなのか。もはや自分でも分からなかった。
無意識にも視線だけが彷徨って。
この期に及んでまで逃げ場を探そうと足掻く自分が居ることに気づく。
そうして、カチカチと時を刻む時計の音に耳を澄ました。一刻も早く、時間が過ぎ去ればいい。黙って痛みに耐えることだけが、この苦しみから逃れる唯一の方法だと知っている。
「……みち、お前が嫌だって言うなら、もうこの話はしない」
静かな声だ。でも、ほんの少しだけ震えていた。
被害者遺族であるはずの芳郎が、怯えている。それは今、加害者の娘が目の前にいるからだろうか。
「でも、できれば聞いてほしいんだ。この記事には違和感がある」
「―――――違和感?」
節くれだった長い指が、記事に掲載されている写真を差してとんとんと音をたてる。それは、父が隠し持っていたとされる複数枚の写真だった。父の知人「A氏」によって提供されたと、書かれている。
A氏は、父が数枚の写真を隠し持っていたのを知り、気持ちが悪いと感じたらしい。そして何かあっては大変だと、思わず携帯で写真を撮ったのだと語っている。
記事に掲載されていたのは、幼い子供の写真だ。ベッドで眠っているだけだが、服を着ていない。
子供の顔はさすがにぼかしが入っていたけれど、見る人が見れば分かるだろう。そこに写っていたのは紛れもなく幸三郎だ。
何枚かある写真のすべてが、幸三郎だった。
家族が持っているなら微笑ましく、ただ眺めて懐かしむだけのものだが、他人の、しかも成人男性が隠し持っていたとしたら全く別の意味を持つ。
「この、写真」
「……うん、」
「お前は見たことがある? もしくは、おじさんが持ってるの知ってた?」
「! し、知らないわ! 見たこともない……!」
そう……と、口元に指をあてて考え込むような動作をした芳郎は、つと顔を上げて言った。
「俺は見たことがある」
「―――――え?」
全部じゃないけど、この写真の内の何枚かはうちのアルバムに挟まってた。と、芳郎は続けた。
言葉を失うとはまさにこのことで。何を言っていいのか分からずぽかんと口を開けたままの私は、はたから見ればものすごくまぬけだっただろう。
「……どういうことかよく分からない……、のは俺も同じなんだけど」
まるで心を読まれているかのような錯覚に陥る。
「一瞬、この写真は俺の家から持ち出されたものかと思った。だけど、」
少し呼吸を置いた芳郎がベッドの下に手を伸ばして、そこから数冊のアルバムを取り出した。
「……お袋に黙って持ち出したんだ。いつもは仏壇のところに置いてある」
そう言いながら、マジックで「幸三郎」と書かれたアルバムの赤い表紙を開く。
そして何枚かめくって、テーブルの上の雑誌と隣り合わせにアルバムを置いた。
「すごく似てるけど、全く同じ構図じゃない。幸三郎の腕の角度がちょっと違う。でも撮られた場所は同じなんだよ。よく見ると、端のほうにデジタル時計が写ってて。これ、日付が入るやつなんだけど……。週刊誌に載ってる写真とアルバムの写真は、同じ日付だ。時間も数分違うだけ」
「……それって……?」
「連写したか、この写真を撮ったすぐ後にこっちの写真を撮ったか。同じ場所で同じ時刻、同じタイミングで撮られた写真ってことだと思う」
「……、」
つまりどういうことだろう。
「うちの父親、カメラが趣味でこれもフィルムカメラで撮ったやつなんだ。現像に出した段階では、この雑誌に載ってる写真も、このアルバムに納められている写真も一緒にまとめられていたと思う。だから全部、うちにあったはずなんだ。でも、アルバムには写真を抜かれた形跡なんてない」
要するに、アルバムに納められる前にこの写真はおじさんの手に渡っていたんだと思う。
「何が言いたいのかっていうと……」
雑誌に掲載されている写真は隠し撮りされたものでもない。うちの親が撮ったものだよ。
芳郎はそう続けて、大きく息を吐いた。そして、紙面を指差す。
「ここに掲載されている写真がおじさんのものだったとして。―――――隠し持っていたわけではないような気がする」
「……」
「あげたんだ、きっと。うちの親が」
言葉を失うというのはまさにこのことで。何を言うべきか分からず黙り込んでしまう。
全身の震えが奥歯を鳴らして、寒くもないのに凍えるくらいに指先が冷える。
数秒なのか数分なのか、ともかく重苦しい沈黙がまとわりつくようだった。
そんな、ただ事ではない様子の私に気づいたのか「うちにも、お前の写真があるよ」と懐かしむような顔をする芳郎。
「……え?」
唐突に思わぬことを言われる。
「小さい頃のみちの写真、探せばきっと何枚も出てくる」
「そう、なんだ……」
けれど確かに、我が家にも芳郎や征二郎、幸三郎の写真があった。
「……俺、ガキの頃、お前のこと妹だと思ってたんだって。いつも一緒にいたからな。どっちが自分の家か分からなくなるくらい」
ふ、と力が抜けたみたいに笑う芳郎につられるように、体の強張りが緩む。
「本当に兄妹だったら良かったな。……だったら、多分お前を恨むこともなかっただろうし」
はは、と全く感情のこもっていない声で笑うことの意味は何だろう。
じっと、その整った顔を眺めていると、
「この一週間、お前のこと見てたって言ったろ?」
「うん」
「―――――何日か前に、靴箱のところでお前を見た」
「え?」
毒にも薬にもならない話題を提供するかのように、広げた雑誌を片付けながら芳郎は言った。
下校しようとしている私を偶然、見かけたのだと続ける。
そういうこともあるだろう。別に変なことではない。まとめた雑誌を抱きしめるように抱えて、
「変な紙、入れられてたろ?」
「……、」
「近くのごみ箱に放り込んだのを見たから拾ったんだ」
―――――人殺し!
擦れた赤い文字でA4の紙いっぱいに書かれていた。人を殺めたのは私ではない。それは周知の事実だ。なのに、まるで私が殺人犯であるかのように書き殴ってくるあたり、単語自体に意味はなく、ただ単に傷つけたかっただけなのだろうというのが分かる。
実際、一瞬だけどきりと心臓が音をたてた。
でも、もはや見慣れた言葉でもあったので、動揺するほどではなかったのだ。
「その顔」
「え?」
「初めてじゃなかったんだな」
「……、」
返事など必要なかったのか芳郎はどこか淡々とした口調で告げる。
「まぁ、初めてじゃないんだろうなって思ったけど」
そして、雑誌を放り投げるように下に置いて、自分の頭をわしゃわしゃと掻きむしった。うめき声を上げ、そのままテーブルに顔を伏せる。
細くて柔らかな毛のせいか、乱れていた髪もすぐにおさまった。ふわりと揺れた髪を追うように手を伸ばしてから、途端に何をしているのだろうと思い直す。下を向いていたその人に、見つからなくて良かった。
「俺、早朝にジョギングしてるんだ」
顔を上げることなく話すので声がくぐもっている。はっきりと聞き取れずに顔を近づけると、心なしか声を潜めた芳郎が「……偶然、お前の住んでるアパートの前を通った」と、まさしく秘め事でも明かしているかのように囁く。
なぜ、そこが私の家だと気付いたのかといえば、
「扉が開く音がして何となくそっちの方に顔を向けたら、女の人が出てきて」
こんな早い時間から仕事に出かけるなんて大変だなと感心しながら、何となく視線を送っていれば、その女性が扉を拭き始めたのだという。そこで初めて、玄関の扉に落書きがあることに気づいたのだと話す。誰かにいたずらでもされたのかと、ほんの僅かに距離を詰めたとき、
―――――殺人犯の家
そう書かれているのが見えたと、芳郎はふっと顔を上げた。
耳を寄せていたので、そのガラス玉みたいな瞳に私の顔を映り込む。心もとなく不安そうな表情に既視感が過った。鏡の中の自分はいつも、こうだ。だから、誰にも悟られないように仮面を被る。
笑顔の仮面を。
「皮肉だよな。おばさんの顔を見ても思い出せないのに、落書き見た途端、記憶が蘇った。おばさんが芳君って呼ぶ声まで聞こえてくるんだよ。一瞬、小学生の頃に戻ったみたいだった」
まぁ、おばさんは俺には気づかずに、扉を拭き終わったら部屋に戻ったけど。と、息を吐くように笑う。
疲れているように見えた。
「お前は知ってた? 扉の落書きのこと」
知らなかった、と返そうとしたけれど、咄嗟に声が出ず、ただ首を振る。
そうだ。知らなかった。―――――母は、教えてくれなかったのだ。
落書きされていたのはきっと、一度や二度ではなかったのだろうと察しがつく。誰かを傷つけたり貶めたりする人間というのは、そもそもが執拗だから。自分がだれかを痛めつけているという実感を得るために、何度も何度も拳を振り上げる。それこそ、相手が立ち上がれなくなるまで。
「……だからなの? 芳くんが私を許そうとしてるのって」
「……、」
思わず訊いてから、途端に後悔する。芳郎は黙ったままこちらを見ていた。答えるつもりはないらしい。
そもそも私は、どんな答えを期待していたのだろう。
「ごめん、」なさい。声が掠れて最後まで言えなかった。
訊いてごめんなさい。同情を買えば許されるのかと一瞬でも考えた自分を、呪いたいほどに憎く思う。
「……みち、」
「うん、」
「俺はさ……。今まではただ、大人たちが言うことを鵜吞みにしてた。おじさんが幸三郎を殺したんだって思ってたし、おじさんは変態で、幸三郎に何か、変なことをしたんだって……、思い込んでた。でも、最近考えるんだ。何か変だって。この事件、何もかもが何か変だって」
「だいたいさ、この雑誌でこの写真を提供した知人A氏って誰なんだろうな。おじさんが、幸三郎の写真を隠し持ってたって告発した奴だよ。心当たりある?」
首を振って否定してから、確かに妙だと思う。当時、我が家に出入りしていた人間は少ない。在宅で仕事を請け負っていた父と時々短期のパートに行っていた母、そして私。あとは祖母と、宇都宮家の人たち。
それ以外に誰かいただろうか。
父はそもそも、友人を連れてきたことがない。幼い私は不思議に思って、聞いてみたことがある。
大人になると友達がいなくなるのかと。すると、
「子供の頃から転校ばっかりで、今でも連絡を取ってる友達が少ないんだよ」と笑っていた。
「この記事によると、おじさんはクローゼットの中にこの写真を隠してたんだって。……でもさ、それ自体、変なんだって。だってさ、知り合いっていってもさ、人の家のクローゼットを勝手に開けるか?」
もしもこの記事の通りに、この「A氏」が家探しのようなことをしていたとすれば、この人物は父に悪感情を抱いていたことになる。父に恨みを抱いていたか憎んでいたかで、父の弱みを握ろうとしたのだ。
あるいは、事件が発生してから幼児殺害の動機の証拠としてこの写真を盗み出したとも考えられるが、あのとき、私の家を訪ねてきたのは警察と記者くらいである。記者は当然、家に入れていない。
「赤の他人がみちの家に侵入したとして、どこかに隠されているはずの写真を探そうとするなら、あちこち触るはずだよな? 引き出し開けたり、中に入っているものを引っ張り出したり。それこそ、泥棒が入ったと思われてもおかしくないくらいに荒らされると思う。……けど、記憶の限り、お前の家に誰かが侵入したという話は一度も聞かなかった」
確かにそうだ。だから、ただ黙って芳郎の話に相槌を打つ。
「―――――それで、思ったんだ」
「……?」
「そもそも、この情報自体がガセだったんじゃないかって。この記事全部、何もかも嘘なんじゃないかって」
「……っ、」
吸い込んだ息の音が響く。肺の奥に痛みが走った。
私の動揺を察しているだろう芳郎はそれでも話を止めず「あるいは」と続ける。
「この知人A氏っていうのは、赤の他人じゃない。多分、お前の家のことをよく知ってる奴だ」
じゃなきゃ辻褄が合わないと。
返事をしなければいけないと思ったけれど、喉の奥に何かつっかえたときみたいにただ、変な息が漏れただけだった。泣いてもいないのにしゃくりあげたような呼吸になって。
「……みち、深呼吸して」
慌てた芳郎が私の横に座りなおして、背中を擦ってくれた。落ち着いて、落ち着いて、と優しい声で何度もそう言うから、なぜかどうしても苦しくなる。
芳郎の言っていることが正しければ、父は誰かに嵌められたことになる。
だとすれば、そんなに恐ろしいことはない。
誰かを、殺人犯に仕立て上げるなんて。どんな心情で、どんな思惑で、そんなことをするのだろう。
「とりあえず、今日はもう帰ったほうがいい。家まで送るよ」
あまりに動揺する私に、これ以上話を続けるのは無理だと判断したらしい芳郎が立ち上がった。現に、頭の中は真っ白だ。うまく返事もできないまま、促されるように立ち上がって、芳郎の部屋を出た。
廊下に出ると、少しだけ息がしやすくなる。
密室というのは文字通り四方八方をふさがれているので、精神的にも追い詰められたような感覚に陥るのだろう。すっと息を吸い込んだ瞬間、
ガチャリと、遠くで鍵の開く音がした。
はっと息を呑んだのはどちらだったか。
「悪い、―――――お袋かも……。征二郎は塾だから」
前を歩く芳郎がつと視線だけこちらに向けてくる。かろうじて頷いたものの、大きく音をたてて拍動する心臓の音がうるさい。
「隠れたほうが逆に怪しまれる気がするから、このまま行こう」と、そっと囁かれて、自分で判断できない私はただ彼の後に続く。玄関までの道のりが、ひどく短く思えた。
「……あら、お客様?」
ちょうど靴を脱いで上がり框に足をかけていた芳郎の母親がこちらを見る。「お邪魔してます」と、意識もしないうちに言葉が滑り落ちた。斜め前に立つ芳郎がすっと、私の姿を隠してくれて、
「学校の課題、ペアでやることになって。今日だけうちに来てもらったの」
「まぁ、そうなの。……貴方、ちゃんとお茶とかお出しした?」
「……いや、」
「ダメねぇ、気が利かないんだから」
ふふ、と小さく笑いながら、その人が芳郎の後ろに立つ私の顔を覗き込もうとする。
「ちょっと、」
そんな彼女を、芳郎が押しのけて「もう帰るところだから」とそっけなくいなす。
それすらも可笑しいのか、当時と変わらず美しいその人は「恥ずかしいのねぇ」と笑みを深くした。ちゃんと送っていきなさいよ、と言いながら「気を付けてね」と私の肩に軽く触れる。
お邪魔しました、とちゃんと声になったかわからない。随分、内向的だと思われただろう。
けれど、それで良かった。
名前を聞かれなかったことに安堵する。
記憶の中とあまりにも印象が変わらない彼女はきっと、私の顔を覚えていない。いや、絶対に覚えていないはずだと願う。
相変わらずけたたましく鳴り響く心音が、辺りに響いているような気がして、怖い。
するりと芳郎と私の横を通り抜けたその人が「さー、夕飯でも作るか~」と軽やかに腕まくりする。弾むような足取りで、廊下の奥のダイニングに入った。そこと廊下を隔てる扉が閉まるのを見届ける。
息が、止まりそうだった。
「……行こう」
芳郎は少し呆れるような顔をして「やっぱり覚えてなかったな」と言う。ほっとしているのか、残念がっているのか分からない。
そうして、芳郎の家を出て、二人で夜道を歩いた。ついさっきまで漂っていた煮物の香りはしない。すでに家族で食卓を囲み、たいらげた後なのだろう。そんな想像をして、いま別れたばかりの芳郎の母親の顔が蘇った。
優しい目を細めて、私に、微笑みかけたその姿。
「……俺たちが住んでたあの家、」
「……え?」
歩幅を合わせてくれているのだろう。踵を、ゆっくりと慎重に置くように歩いていた芳郎が呟く。
「俺の住んでた家と、お前の住んでた家。今は、全然知らない別の家族が住んでるよ。買い手がつくのか心配だったけど、格安で売られてたみたいだ」
「……、」
「変わらないこともたくさんあって、だけど、色んなことが変わったな」
「……、」
「みち、」
「……、うん」
「何でなんだろうな……」
―――――何で、俺たちなんだろう。
掠れた声が、何か重たいものに潰されたみたいに、ぐしゃりと歪んだ音で響く。
滲んだ視界を払いたくて、思わず上を向いたけれど。
そこには夜空があるだけで、何の救いもなかった。