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走って走って、繁華街の真ん中に立ったとき、私にはやっぱり行き場などないのだと知る。

一瞬、頭の隅に咲子の顔が浮かんだけれど。助けを求めたところで、一体何になるのかと自答した。


雑踏の中にいれば、騒音の中で自分自身の存在が薄れていくような気がする。周囲を見渡せば、今からどこかに遊びに行こうとしている同世代の少年少女もいて。甲高い笑い声が耳についた。

一方で、これから塾にでも行くのか険しい顔をして足早に通り過ぎる中高生の姿も見える。

彼らだって大なり小なり何らかの悩みを抱えているだろう。もしかしたら私と同じような境遇の人だっているかもしれない。

でも、そんな風に自分自身を励ましてみたところで、何一つ変わらない。

地面に足をつけてしっかりと立っているはずなのに、今にも崩れ落ちそうだし、もしも倒れたら二度と立ち上がれない気さえする。


いっそのこと、ここで泣き叫んだら誰か救い上げてくれたりするのだろうか。


いつの間にか夕日も落ちて、空は深い藍色に染まっている。同時に、ひしめくように並び立つ雑居ビルに掲げられた看板の電飾が灯されていく。一つ、また一つと明るくなっていく様はまさに命が吹き込まれる瞬間にも似ていて。どこか愉快だった。

暗闇の中では生活できないから、光を灯すのだけれど。まるで地上が、天から降ってくる暗闇に抵抗しているようにも思える。

無駄だと知っているのに。

足元に伸びていたはずの影も息を潜めて夜を待っているようだ。

ならばいっそ、全身を黒く染めてみようか。誰が見ても悪だとわかるように。そうしたらきっと、誰も近づいてこない。話しかけてもこないだろう。

無意味に傷つけられることもなくなる。


「……みち?」


ビルとビルの間のごく細い空間に入り込んで、そこから行き交う人々を眺めていれば、ふと目の前が陰る。聞き覚えのある声に顔を上げれば、そこには予想通り芳郎が立っていた。

「なんでそんなとこにいんの?」

特に挨拶などもなく、ごく軽い口調で実に何でもないことのように問われて答えに窮する。

意味など特になかった。

少しでも暗い場所に行きたいと思っていたら、ここしかなかっただけだ。

黙り込んでいると、おもむろに腕をつかまれた。そのまま引っ張られて、たたらを踏む。

「……制服なのに、学生鞄を持ってないのは盗まれたとか……? いや、ローファーじゃないから一回家に帰ったのか」

質問されているのかと思ったけれど、別に答えなど必要なかったのか私の返事を待つこともなく、芳郎は歩き出した。

彼自身、既に制服ではなく飾り気のない灰色のシャツとジーンズと身に纏っている。

荷物がないところを見れば、買い物に出るところだったのか。ズボンの後ろポケットから少しだけ長財布が顔を出していた。

それにしてもこんな場所にいるのは不可解だったけれど、わざわざそれを指摘するような仲でもない。

そして、その手を振り払えるほど私の立場は強くなかった。

黙ったまま、引き摺られるようについていけば「あ、わり」と歩調を緩めてくれる。

ちらりとこちらに向けられた視線はあくまでも柔らかく。再会した日の憎悪に満ちた眼差しとは全く違っていた。


だけど。

優しい顔をして近づいてきた人間は、今までにも大勢いて。

特に、子供だった私なら簡単に手なずけることができるだろうと目論んだ大人たちは容赦がなかった。

誰にも害を及ぼさないようなごく普通な顔をして、まるで手を差し伸べるかのようにこう言うのだ。

『お母さんを助けてあげようか?』


だから、お家に連れて行ってよ。


悪魔の言葉だった。だけど私には、天使がそう言っているように聞こえた。

子供の頃の私が助けてほしかったのは自分自身じゃない。夫が殺人犯なのではないかと疑われ、そういう人の伴侶だからと責めを負わなければならなかった母のほうだ。

声を殺して泣き伏すあの人を、誰でもいいから救ってほしかった。

でも、私に近づいてきたのは父の情報が欲しいだけの週刊誌の記者で。にこにこと笑いながら「お父さんってどういう人だった? 体を触られたりとか、嫌なことされなかった?」

そう訊いてきたのだった。


「とりあえずうちでいいかな。……話したいことがあるから」


いつ繁華街を抜けたのか、辺りは閑静な住宅街だ。街灯に照らされた通りには私と芳郎以外の誰もいない。時々、犬を連れた人とすれ違うくらいだ。

どこかから漂ってくるのは煮物の醤油の香りだろうか。

きっと食卓に並ぶのだろう。


そういえば、とっくに家に帰ってきているだろう母から連絡がない。スカートのポケットに入れたままになっていたスマホが着信を知らせることはなかった。もてなすように頼まれたのに、会話もままならない状態のまま放置してきた紳士は、母に何を語っただろうか。

「何か……、元気ない……?」

辺りが静かだからそうしたのか、掠れた声で囁くように問われる。

掴まれていた腕はとうに解放されているが、私は相変わらず、芳郎の斜め後ろを歩いていた。

ほんの少しだけ足を速めれば追いつくことはできたけれど、そうするのが躊躇われたし、自己分析するならこれは防衛本能のようなものかもしれなかった。

すぐに目が合う位置では、自分を守れない。

彼が振り返るそれまでに心構えをしておく必要があったのだ。

「……いや、いつも元気ないか。お前」

こちらに向けられてた視線が逸らされる。

再び前を向いた芳郎の後ろ姿を何となく眺めた。子供のときはこんな風に歩かなかった。私と芳郎は同じ年だったからこそ対等で、いつだって競うように歩いていたことを思い出す。

男女ということもあり、年を重ねるごとに話をする機会は減っていったので特別親しいという間柄というわけではなかったけれど。幼馴染という縛りはどこまでも強固で。

親同士の関係が切れない限り、私達もまた幼馴染という括りの中で生きていくのだろうと思っていた。

「ごめん、な」

「……え?」

「笑うな、なんて言って」

「……、」

「今更って感じかもしれないけど」


何が『今更』なのだろう。私の父が殺人犯だとみんなに知られてしまった今、謝ったところで意味がないということだろうか。そんなの嗤える。

だって、そもそも笑いたくなどなかった。


芳郎の家は、二階建てでとても大きく見えた。

自分の住んでいるところがアパートだからかもしれないけれど、彼の家だけでなくその周辺の家もやはり大きくて。

少し圧倒されるものがあった。

彼の家の玄関前まで来たところで怖気づいて立ち止まると、おもむろに芳郎が振り返って「誰もいないから」と告げる。そして、ポケットから自宅の鍵を取り出した。


「……おばさんは?」


その一言を搾り出すのに、何度も唾を呑み込む必要があった。緊張からくるのだろう。喉が渇く。

「仕事」

端的に答えを返されて会話が途切れた。

家の中に入ると、ひんやりと冷たい空気に触れた気がして皮膚が粟立つ。

しんと静まり返っていることから、芳郎の言うとおり、本当に誰もいないのだろう。

ふっと背中から力が抜けた私を見て、芳郎が苦笑する。

「お袋はお前の顔、分からないと思うよ。だからそんなに心配しなくても大丈夫だって」

かつては、いつだって家にいて家事に育児にといそしんでいた芳郎の母親。小さな子が三人もいれば働きに出ていなくても休む暇はない。それでもいつも、優しく笑っていた。

「夜は遅くなることもあるし、まだ帰ってこないし」

「そう、」

「……働きに出れば気分転換になるって誰かに言われたみたい。実際、そうだったと思うよ」

ふんと鼻を鳴らした芳郎の本音はどこか別のところにあるような気がした。

暗に、幸三郎さえ生きていれば今でも専業主婦だったはずだと責められているようで、頭の後ろがすっと冷える。

これが目的だったのだろうかと視線を巡らせれば、廊下に面した大きな引き戸の隙間から室内が見えた。青い畳の敷かれた、何もない部屋の端にぽつんと置かれた仏壇。鼻を掠める線香の臭い。

そこに、幸三郎の笑顔が見えて思わず足を止める。明るい笑顔と対照的な黒い縁取り。


『今日だって仏壇に話しかけながら、涙ぐんでたよ』


今まさにそう言われたかのように、耳の奥に響く声。

芳郎は、おばさんが私のことを忘れていると思っているようだけれど、実際はどうか分からない。

顔を合わせた瞬間、私があの「みち」だと気付くかも。

彼女にとって私は、自分の息子を殺した男の娘なのだ。忘れたくても忘れられないはずだ。

足元から震えと共にせり上がってくるのは苦しみを覚えるほどの恐怖である。

両腕を抱えて立ち竦んでいると、横から伸びてきた手が引き戸をずらした。木製の板に遮られて室内が見えなくなる。

「俺の部屋、二階だから」と芳郎がいら立つように言って指をさした。踵を鳴らすように歩く後ろ姿を追って、階段を上る。

まるで悪いことをしているような気分で息を潜める。そして、そっと祈った。

どうか、誰にも見つかりませんように。


「これ、覚えてる?」


部屋に入った途端に芳郎は本棚を漁って、雑誌を見せてきた。それも数冊。

見覚えのある表紙に息を呑む。

父のことが書かれた週刊誌だった。

ずっと仕舞われたままだったのか埃っぽく、端がめくれている。若干の変色も見られるのは言うまでもなく古いものだからだ。

事件が起こったすぐ後に刊行されたものなので、ざっと計算しても十年近くは前のものになる。

当時、頼んでもいないのに自宅の郵便受けに投げ込まれたことがあったからよく覚えている。いやがらせだっただろうことは言うまでもない。何が書かれているのか知らなかった母は、雑誌の中身を確認した。他人の、血の気が引く瞬間を見たのはあれが初めてだったと思う。


父は当時、インテリアデザイナーという仕事をしていて。会社には所属していたものの、自由になる時間も多かった。

親会社が外資系だということも関係してるかもしれない。

毎日決まった時間に出勤するような勤務体系ではなく、自宅でノートパソコンを使い作業をすることも多かった。

だからだろうか。

事件後、父が無職だという噂が広まったのは。

週刊誌にも、何の仕事をしているかよく分からないとか。自営のようなことをしているけど収入がないとか。そんないい加減なことを書かれた。

父が芳郎の父親にお金を借りているとまで書きたてた記者もいた。

全て、捏造である。


けれど、いい年をした家庭のある男が仕事をしていないという文面が人々に与える印象というのは決して、良いものではなかった。今でこそ専業主夫という言葉を聞くことも多くなったけれど。あのときはそうではなかった。


「まだ、取ってたんだね」


ベッドの前に置かれたローテーブルに並べられた週刊誌。触ることもできずに眺めるだけの私に言えたのはそれだけだった。

「うん」ただ、取ってただけ。記事を読んだりはしてなかった。と、芳郎は言う。

「お前に再会した後、改めて確認してみたんだ。首を傾げる部分は多かった。でも、俺には何が真実で何が嘘なのか分からない」

テーブルを挟んで向かいに腰を下ろした少年が、視線を落としたまま続ける。

伏せた瞼に並ぶ長い睫毛が揺れた。毛先がカーブしているんだなと詮無いことを思う。

ふくふくとしたほっぺを赤くしていた幸三郎も、同じ睫毛をしていた。お人形さんみたいだね、と言うと意味が分からなかったのかきょとんとした顔をして。思わず笑うと、つられたように声をたてて笑った。

かわいい子だった。誰だってそう言う。

色素の薄いビー玉みたいな目はきっと親譲りで。あの小さな子が、ため池に沈んでいたのだ。


「お前を許したいって言ったのはもちろん嘘じゃない。だから……、こんなもの引っ張り出すのはよくないって分かってる。何もかもを許すつもりなら、忘れるのが一番早い」


けど、忘れられないから、整理したい。

そういいながら、すっと視線を上げた芳郎に、正面から射抜かれたようだった。

私はただ言葉を失って、是も否やも口にはできず、彼の視線から逃れるように下を向く。正座した膝の上に置いた両手に筋が浮いた。

いわゆる加害者側でしかない私が、何を言えたというのだろう。


「……一つ、聞きたいんだけど」

「……、」

「お前は、どう思ってるわけ?」


「おじさんのこと」と、問われて。

そのあまりにも抽象的な問いに、思わず顔を上げた。

多分、彼は、父が本当に犯人なのかということを訊きたかったのだと思う。

けれど、私の考えをそのまま口にするのは憚られた。言えばきっと、彼は激高する。それが分かっていたから。

黙り込んだ私に何を思ったのか、芳郎は大きく息を吐いた。


「正直俺は、あのとき子供だったし……まぁ、お前もそうだけど……。

まだまだガキでしかなかった俺には、事件について考察することなんかできなかった。それは多分、今だって同じだよ。

こういう事件について調査をしてくれる人と知り合いなわけでもないし、どこかに依頼するって言っても、どこに何を依頼すればいいのかも分からない。

じゃぁネットで調べればいいって言っても、そこに書かれていることが真実かどうかも判断できない。

知らないこと、分からないことばかりで、何から手をつければいいか……どうすればいいかも分からない」


だから、手っ取り早く、みちから話しを聞きたかったと彼はまた一つ息を落とした。

その顔を見て、こうやって顔を合わせて話すことに、少なからず芳郎も覚悟が必要だったのだと知る。

―――――思えば、こんな風に事件のことについて正面から誰かに問われたのは初めてだったかもしれない。

子供の頃に近づいてきた記者は、実に遠まわしな言い方で、私から望む答えを引き出そうとしていた。

体を触られたことがあるかどうかの問いは、『実の娘ですら父親に怯えていたのだ』という物語を描くために必要だったのだろう。実のところ、私の意見などどうでもよかったはずだ。

要するにこれまで、じっくりと話しを聞いてくれる人間なんてどこにもいなかったということである。

それに、たとえ誰かに詳細を訊かれたとしても私は答えなかった。

そんな迂闊なことができるはずない。


父の身内である私がいくら、父は無実であると叫んだところで信じてもらえるはずもないのだから。


「……あの頃、私―――――、父の全てを憎んでたよ」


やっと搾り出した声は自分でも分かるほどに震えていた。

そうだ。父が亡くなったばかりの頃、自分が父を追い詰めたのだという事実に気付きもせず、犯した罪から目を逸らして父の全てを憎んでいたのだ。

父の存在自体を憎んでいたし、父に関係する全ての事柄を憎んだ。

父の好きだった映画、父が読んでいた本、父が飾った絵画、父の撮った写真。父が育てていた観葉植物さえも。

父が私に与えてくれたものだってそうだ。

勉強机、ベッド、カーテン、ランドセル、靴、服。父を連想させるもの全てが私の敵となった。


この名前すら。


生まれたときに、月が綺麗に輝いていたから「みちる」と名づけられたらしい。

言うまでもなく「満月」が由来だ。名付けたのは父で、私はずっとそのことを嬉しく思っていた。

優しくてかっこよくてなんでも知っていて。自慢の父親だったのだ。

「だけど、今は違う。憎んでいるのとは……、少し……、違う」

父が無実だったとしても、母や私の置かれている状況が変わるわけでもないだろう。父の名誉を回復することも、悪い評判を払拭するのも難しい。でも、


「いつも考えてる。お父さんは、もしも弁明するならなんて言ったのかなって。……私は聞かなかったから。お父さんに一度も聞かなかった。本当に、―――――こ、殺したのかって」


手の平に握りしめた爪先が食い込む。額には汗が浮くようだった。

これではまるで、自分自身が断罪を待つ犯罪者のようだ。


「……俺は聞いたよ、みち。おじさんに直接聞いたんだ」

「―――――え?」

「俺の親父が……、お前の家に乗り込んだの、覚えてる? 征二郎も一緒だったと思うけど……」

どこか躊躇うように言った芳郎が軽く首を傾ぐ。

「う、ん」

「……はは、覚えてるよな」絵に描いたような乾いた笑いだ。

「あのときさ、親父がお前の家に乗り込むよりも前なんだけど。俺、お前の家に行ったんだ」

いつもそうしていたように庭から回り込んで、ベランダから声をかけた。

「それで、おじさんに直接聞いた。幸三郎を殺したのかって」

「……、」

「違うって言ったよ。殺してないって。……まぁ、当然だよな。本当に幸三郎を殺していたとしても、自分が殺したなんて言わないだろ」


当然、俺も信じなかったよ。と芳郎は声を低くした。

両耳が圧迫されるほどの沈黙が下りる。なのに、どくどくと鳴り続ける心臓がうるさい。


「でも、そうだな。考えるよ、俺も。もしかしてあの言葉が本当だったなら。

おじさんが幸三郎を手にかけていないなら、犯人は一体、誰なんだろうって」



「誰が、幸三郎を殺したんだろうって」








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