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「人が自ら命を絶つ理由が分かるかい?」
父は明らかな自死だったけれど、どうやら不審死扱いになるようで、現場検証が行われた後、遺体は解剖に回された。けれど、結局、三日もしない内に自宅に戻ってきたのではないだろうか。
その日数が、短いのか長いのか私には判断できない。何せ、こんな自体は初めてだったし、今後も起こるとは考えにくいからだ。故に、父の死が本当に不審なものだったのか、それともただ法令に基づいて、解剖に回されただけなのかもよく分からない。
ともかく、当時の私は、幼いながらにも一つの結論を導き出していた。
この事件を知る大半の人間がそうだったように、父は「己の罪を悔いて」こういう結末を選んだのだと。
そうでなければ、なぜ命を絶つ必要があるのかと、著名なコメンテーターがテレビで発言したそれを鵜呑みにしたのである。
私は多分、それほどに幼くて。父は悪くないと反論するほどの力はなく、冷静に判断を下せるほどの聡明さを持ち合わせていなかった。
親子だから、根拠はないけど信頼できるとか。父親だから、最後まで味方をするとか。そういうことができなかったのだ。
あるいは、私がもっと幼く、何事も理解できない年齢だったなら。
私は純粋に、父を慕い続けることができたかもしれない。
けれど、そうではなかった。
葬式が行われたのは、父の遺体が自宅に戻された後のことで。
斎場を借りたものの参列者は非常に少なく、会場に現れたいくつかの報道機関の姿だけが異様に目立っていた。といっても、彼らは斎場の中に入ることができないので、建物の外に待機しており、親族の誰かが姿を現すのを今か今かと待ちわびていたようだ。
反して、人の少ない斎場の中はしんと静まり返って、息を吐き出すのにも神経を使った。マスコミに見つからないようにと、外に出ることを禁じられていた為、尚更そう感じていたのかもしれない。
空気が重く纏わりついて、身じろぎする音さえも気になった。
弔問客は恐らく、片手で足りるくらいしか来ていなかっただろう。その誰もが、母の知り合いだったらしい。父の友人や、元の職場の同僚は誰一人として顔を見せなかった。
人の少ない葬儀は、あまりに耐え難く、あまりに寂しかったと思う。
親族側で参列していたのは、母と父方の祖母、そして私だけだ。
母の両親は既に他界していたのだが、親戚ですら式に参列することを拒んだ。電報の一通も寄こさなかったと聞いている。
気まずそうにしていた斎場の係員の顔が、やけに印象に残った。
あのとき私は、これも父の自業自得だと考えていた。あんな酷いことをしたのだから、当然の報いだと。
私は、そんな酷いことを考える子供だった。
そんな私のことを見透かしていたのか。葬儀が始まる前、参列者席の一つに腰掛けた祖母が私を呼んだ。
空席ばかりだというのに、椅子だけはたくさん用意されていて。それが、ひどく虚しい。少し、滑稽であったかもしれない。
「……みっちゃん、おいで」
厳しい顔つきに、何事か分からないけれど叱責でもされるのかと身構えた私に、祖母はポケットから飴を取り出した。「ママには内緒だよ」と、相変わらず眉間に皺を寄せたまま、静かな声音で言われる。
手の平に置かれたそれは、イチゴ味だった。私が一番好きな味だ。そのことを、誰かが祖母に教えたのだろうか。そんなことを考えていると、彼女は「早く、食べなさい」と微笑んだ。
言われるがままに包み紙を開けていると、おもむろに、
「人が自ら命を絶つ理由が分かるかい?」と訊いてくる。
突然の問いに意味も分からず首を傾げていると、祖母は私の頬を撫でて、ほんの数秒沈黙した。
今思えば、息子を亡くしたというのに、祖母は取り乱すこともなく。やけに淡々としていたように思う。
それが、どのような感情からくるものなのか私には想像することさえ難しいけれど。
己の息子を、愛していなかったというわけではないだろう。
ただ、息子の身に起こった事態に感情がついていかなかっただけかもしれない。
「分からない。分からないけど……パパは、ひどいことをしたから……だから、死んだんでしょう?」
そう言った自分の声が、斎場に響き渡ったような気がした。
祖母はぼんやりと私の手の平に視線を移す。そこには、開かれた包み紙の上で行き場を失っている飴玉があった。赤い飴玉を見つめる、たるんだ瞼の奥にある双眸。そこに、どんな感情を浮かんでいるのか知る由もない。
「人はいろんな理由で死を選ぶと思われているけどねぇ。例えばそう、借金とか失恋とか、愛する人との死別とか……だけどね、」
ふと、祭壇に掲げられた父の遺影を見上げた祖母の横顔は、なぜか凜としている。
自分の息子が、人を殺したなんて微塵も思っていない顔だった。
「最後の最後にその人の背中を押すのは『孤独』なんだよ。孤独には、誰も勝てない。孤独はね、人を追い詰めるんだ」
人が命を絶つ理由を訊いておきながら、私の答えなんてどうでも良かったのか、祖母は静かな声で語る。
しわがれた声だと思った。いつもより、ずっと。
「孤独って言うのは、どんな人間にもやってくる。友人がたくさん居ても、家族が居ても、恋人が居たとしても、どんな状態だろうと関係なく、やってくる。そして、傍に誰が居ようと、自分自身が『この世に独りきりなんだ』と感じた瞬間、人は孤独に負けるんだ」
負けるんだよ、と二回繰り返して、はぁと震える息を落とした祖母は一筋涙を零した。
祖母が泣いたのは、後にも先にもその一回きりだったように思う。
そういえばあのとき、母はすぐ傍に居たはずだけれど、祖母の話を聞いていただろうか。
聞いていたなら、一体、何を思っただろう。
*
*
母は現在、近くの会社で事務員をしている。けれど、安定した収入は得られるものの、それだけでは生活できない。
その為、夕方以降の空いた時間はスーパーでレジを打っている。
比較的シフトに融通がきく分、勤務時間が不規則になるので、帰りは深夜になることも多い。
今日も確か、帰りは遅いと言っていた。
そのつもりで学校から帰ってきたのに、なぜか、玄関の鍵が開いている。
家の中に入れば、母の靴が行儀よく並んでいた。ヒールの低いパンプスだ。
飾りっけのないその靴は、真っ黒で、つま先の皮が少しだけ剥げている。
そろそろ買い換えなきゃ、と言ったきり、数ヶ月が経過していた。
その、母の靴が、そこにある。
もしかしたら今日のパートは休んだのだろうか。それなら、どこか具合が悪いのかもしれない。
投げ捨てるように靴を脱いで、一応声を掛けてみようかと息を吸い込む。
狭いアパートなので、もしも母が部屋の中に居るのなら、玄関から声を掛けてもすぐに気付くはずだ。
けれど、ためらったのは、玄関から入ってすぐのところにある扉が閉まっていたからだ。
普段は開けっ放しで、玄関から広くはない室内が見渡せるのだけれど。
今日は、そうではなかった。
それに、違和感は、他にもあって。先ほどは慌てていたせいで見過ごしてしまったけれど、よくよく足元を確認すれば、母の靴の横に、男性ものの革靴が並んでいるではないか。
訪問販売の営業か何かだろうか。我が家を訪ねてくる人間はそれくらいのものである。
しかし、すぐに違うと気付いたのは、扉を閉めていても聞こえてくる笑い声のせいだった。
母の声がいつもより、少しだけ高い。
楽しそうに響くその声に、心臓がどきりと音をたてる。痛むような、苦しくなるような、今まで経験したことのない感覚だった。
だからなのか、一歩踏み出した体勢のまま、なかなか前に進めない。
とりあえず、放り出した靴を揃えて、それと一緒に呼吸も整える。母と顔を合わせる前に、冷静さを取り戻す必要があった。
きっと、私の表情は強張っているはずだ。もし今、母が私の顔を見たなら、何があったのかと問い詰めるだろう。その顔は一体、どうしたのかと。
だけど、私にはこの感情を、上手く表現することができない。
なぜ、こんなに動揺しているのかも分からないのだから。
すると、行く手を阻むかのように閉ざされていた扉が、かちゃりと音をたてる。
薄く開かれたそこから、小さなつま先が見えて、何となくそれを見守っていると、
「あら、帰ってたの」と、明るい声が響いた。
顔を上げれば、扉の向こうから現れた母がにこにこと笑いながら首を傾げている。
「そんなところでどうしたの?」と続いた問いに、言葉が出てこない。
足を一歩踏み出したまま奇妙な格好をしている私を可笑しそうに見ている母は、「お客様が来ているんだけど、ちょっとお茶菓子買ってくるから。よろしくね」と言った。
何をよろしくされたのかも分からず、私の前に立つ母を見上げる。
「優しい人だから大丈夫よ。挨拶だけして、部屋に行っててもいいし」
ね? と念を押すように言われて、これは多分、否やなど許されない類の発言なのだろうと悟った。
要するに、現在我が家を訪れている人に、挨拶をしなければならないということだ。
母の声は恐らく、部屋の奥に居るだろう客人にも聞こえているだろう。
私は、努めて明るく「はーい」と返事をする。
こんなことは何でもないと言うように。
「良かったわ。すぐ戻って来るから。……あ、そうだ。お客様に、新しいお茶、出して差し上げてね」
すれ違い様にそう言った母は既に靴を履き終えていて、それはそれは軽やかに指示を出す。
今日のパートはどうしたのかとか、客人というのは一体誰なのかとか、聞きたいことがあったのに。声を掛ける間もなく、母は出て行った。
居なくなった母の明るい声が、余韻として耳に残る。
室内の静けさを一層、際立たせるようだった。
今度こそ、扉の向こうに顔を出すのだと慎重に足を踏み出す。右手に握り締めた学生鞄の持ち手が、急に重みを増したように感じる。
緊張しているのが、自分でも分かった。
部屋の奥の人物は、きっと母の大切な人なのだろう。
優しい人だから大丈夫、というのはつまり、怒らせるようなことをするなという意味なのか。穿った考えだとは分かっているけれど、牽制されたような気がしてならない。
「―――――はじめまして」
先方から先に声をかけられて戸惑う。部屋に入った途端、小さなダイニングの真ん中に置かれたテーブルに腰掛けていた男性と目が合った。
いかにも仕立ての良さそうな服を着ているその人は、母よりもだいぶ年上に見える。後ろに撫で付けられた髪に混ざる白いものからして、その認識は間違っていないはずだ。
こちらを見据える眼差しにも、社会的地位のある人間特有の、厳しさのようなものがあった。
世の中を知っているからこそ、安易に他人を信用することがない。そして、隙のない双眸が、私を観察していることに気付く。
「……はじめまして、」そう返した声は震えていなかっただろうか。
―――――その後、私は母に言われた通り、キッチンに置かれていた急須の茶葉を入れ換えて、お茶を出した。
彼はそれを恭しく、あるいは慇懃無礼に受け取った後、私を自分の対面に座らせて。
そうして、少しだけ話をした。いや、話を、聞かされた。
「……私が君のお母さんに援助をしているのは、単純に、君のお母さんのことを大切に思っているからだよ。好きな人には苦労をしてほしくないし、私の目の届く範囲では幸せでいてほしい。だから、これからも彼女を助けるつもりだ」
ところで君は高校生だったね? 将来は何を目指しているのかね?
その声が、ひどく冷たく聞こえた。何も答えられなかった私に、その人は失望するような顔をして。
君のお母さんは君のために、無理をして働いているんだよ。と至極当然のことを口にした。
他の誰よりも、私自身が、一番よく理解していることを。
赤の他人の、しかも初対面の男性に指摘されて、呼吸を忘れそうになる。
俯いた視界の先に、自分の膝が見えた。白く、色を失っているように見える。私はもしかしたら青褪めていたかもしれない。
「私はね、君のお母さんを援助することで、君のことも助けているんだと思っている。だからこそ、半端なことはしてほしくないんだよ。もちろん、大学の学費のことだって心配しなくていい。ただね、」
一つだけ息を置いて、彼は鋭い眼差しを、一層尖らせた。
「君には、親離れをして欲しいと思っているんだ」
淡々とした口調だけれど、相手に有無を言わせない強引さがある。実際、私には彼の言葉を否定する権利などなかった。
本来なら、母には助けてくれる人がいたのだと、ほっとしなければならない場面であるはずなのに。
なぜか、脈が速くなる。目前を、猛スピードの自動車が掠めて行ったような危機感があった。
頭の中では警鐘が鳴り響き、今すぐ、ここを逃げ出すべきだと誰かが言う。
だけど、どこにも逃げ場などなかった。
「彼女は……君のお父さんとは既に離婚していて、つまり赤の他人だ。しかし、君は違うね? 君は彼の娘だ。彼と血の繋がりがあり、切っても切れぬ仲だ。たとえ、彼が亡くなっているのだとしても」
私はね、怖いんだよ。と、秘め事でも打ち明けるように声を潜めた男の顔に、影が差す。
真に迫った顔は、冗談なんか言っているようには見えない。怖いと呟いた彼のことを、怖いと思う。
自分の息が、唇にかかって。びくりと首が竦む。
私ははっきりと、怯えていた。
続けてその人は、「分かるね?」と訊いた。私の顔を食い入るように見つめて、分かるね? と。
肯く以外に、どんな答えがあっただろうか。
「殺人犯の娘」という言葉の意味を正しく理解するなら、それはつまり「人殺しの血を引く娘」ということだ。
そんな私に、怯えた目線を送ってくる人間は、これまでにもたくさん居た。
そういう人達は、父の血を引く私自身に、警戒心を抱いていたのだと知っている。
今、目の前に居る男性が、顔を合わせた当初から私のことをつぶさに観察していたのは、そういう理由からだろう。
「高校を卒業したら、一人暮らしをするといい。部屋はきちんと用意するからね」
興味があるなら、卒業を待つまでもなく、もっと早い段階で家を出てもいいよ。と、その人は優しく笑う。
いっそのこと「早く出て行け」と言ってくれたなら、私は反抗することができたはずだ。
なぜ、赤の他人である貴方にそんなことを言われなければならないのかと。
だけど、まるで私の為だといわんばかりのその表情に、言葉を失ってしまったのも事実で。
自分自身が、あまりに子供なのだと思い知るだけだった。
それに加えて、お腹の底に抱えたのは、ぐるぐると渦を巻く実に嫌な感じのするものだった。
だけどそれは、今日初めて会った紳士に向けたものではない。
母に対してのものだった。
私の知らないところで、私の知らない男性と親交を深めて、私の知らない内に、母は孤独から脱していた。
私だけを、置き去りにして。
しかし、母はこれまで、男性の影をちらつかせたこともなければ、私のことを邪魔者扱いしたこともない。
むしろ、私の為にたくさんのものを犠牲にしてきたのではないだろうか。
だから、母を支えてくれる男性が居たことに喜びを感じてもいいはずだ。
母は独りで苦しんでいたのではないのだと。
それなのに、素直に祝福できないのは、なぜなのだろう。
どうして、母に突き放されたような感覚に陥るのだろう。
遠い昔。
これから辛いことがたくさんあるかもしれないけど、一緒に生きていこうと、小さく微笑んだ母の顔。それが甦る。母の顔は、儚く、だけど、どうしようもないほどの愛情に満ちていた。
だから、決意したのに。いつか私が、母を幸せにするのだと。
「……意味、なかった」
思わず零れ落ちた言葉に、対面の男性が不思議そうに首を傾ぐ。「今、何て?」と。
返事をする気にもなれず、ただ小さく首を振って立ち上がる。そして、部屋を飛び出した。
後ろから私を呼ぶ声が聞こえたけど、振り返ることはない。
父の葬儀のときに聞かされた祖母の言葉の意味が。今ならはっきりと分かる。
家族がいても、友人がいても、恋人がいても、自分自身が孤独だと感じたなら。
誰が傍に居ても、誰がどれ程親身になってくれたとしても、意味はない。
私には、母が居て。私のことを大切にしてくれて、それはこれから先も変わらないと確信している。
それなのに、自分はこの世に独りきりで、どこにも救いなどないと感じる。
そういうときに、人は、生きる気力を失うのだろう。