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お隣の宇都宮家には三人の男の子がいた。つまり三人兄弟だ。
長男の芳郎、次男の征二郎、三男の幸三郎だ。征二郎は芳郎の三つ下、末っ子の幸三郎は芳郎の五つ下だったので、年はまだ三つ。
男の子は言葉が遅いと言うように、幸三郎はやっと意味の通る単語をいくつか覚えた頃だった。
舌足らずに何かを伝えようと姿はあまりに可愛らしく、芳郎のご両親も、幸三郎だけ特別扱いで。
そんな両親を見て、芳郎や征二郎が拗ねていたのを覚えている。
けれど、兄弟仲は良かったと思う。
芳郎は特に、既に長男としての自覚が芽生えていたようで、下二人の面倒をよく見ていた。
征二郎や幸三郎も芳郎に懐いていたようだ。
その幸三郎が、ある日、忽然と姿を消した。
半狂乱になりながら息子を捜す、芳郎の母親の姿が目に焼きついている。
幸三郎を捜して我が家を訪ねてきた彼女の顔は、文字通り蒼白で、唇は血の気を失っていた。
私と宇都宮兄弟は、互いの家を頻繁に行き来していたから、もしかしたら幸三郎が一人で遊びに来ているのかもしれないと思ったらしい。
実際にそういうことはよくあったので、子供たちがわざわざ玄関まで回らなくてもいいように、垣根の一部を取り除き、そこを越えれば互いの家の庭に出ることができるようにしていた。
だからきっと、今回もそうしたのだろうと。
そんな期待を込めて、彼女は挨拶も早々に、私の肩を掴み「こうちゃんは?」と言った。
「こうちゃんは、どこ?」と。
彼女の、普段は内巻きにセットされていた短い髪が、そのときだけはひどく乱れていて。
何かとんでもないことが起こったのだと、私にも理解できた。
何度も何度も「こうちゃん」と繰り返す高い声。優しくもあり、柔らかくもあり、何よりも悲しげだった。
「どこにいるの」と「隠れているなら出ておいで」と、「かくれんぼ」は終わりだよ。と呼びかけながら、涙を流していた。
あまりにも悲嘆にくれた声を出すから、二階で洗濯物を干していた私の母も、自宅に居たらしい芳郎と征二郎も顔を出して、結局、総出で幸三郎を捜すことになった。
騒動に気付いた向かいの奥さんまで捜索に加わり、やがて近所の人達が集まってきて。
きっとそこらへんにいるんだよ、と。だから、大丈夫と。励ましながら、周辺を歩き回った。
だいたい三十分くらいだっただろうか。それとも、それより短かったのか、あるいはもっと長かったのか。
ひとしきり近所を探し回った後、芳郎の母親が警察に通報した。
あんなに小さな子が、1人でそんなに遠くまで行くはずがないという周囲の説得に押される形で。
そのときまで自らの力で捜し出そうとしていたのは、もしかしたら、怖かったからかもしれない。
迷子になっているなら、まだ、いい。
だけど、もしも―――――何か事件に巻き込まれているのなら……。そんな不安があったのだろう。
警察に通報することで、事態がより深刻になってしまうことを恐れた。
それに、きっとすぐに見つかるはずだと、信じて疑わなかったのだ。
今までもかくれんぼをしている途中でいなくなってしまうようなことがあり、その度に誰かが見つけ出してきたのだから。今度も大丈夫だと、懇願するような思いで幸三郎を捜していた。
きっとあのとき、幸三郎を捜していた全員が願っていたはずだ。
だから。
まさか、遺体になって発見されるとは。誰が想像できただろうか。
幸三郎がいなくなった翌日の夕刻だった。
私たちの家から、徒歩で二十分くらい行ったところにある神社の裏手で、幸三郎は見つかった。
ため池の中に沈んでおり、既に呼吸は止まっていたらしい。
発見したのは警察の捜索隊で、芳郎の両親が現場へ確認に行ったのだと噂で聞いた。
そのときにはもう、私たち家族と宇都宮家には大きな隔たりができていたように思う。
私の母はなるべく、芳郎の母親の傍に居て、支えになろうとしていたようだけれど。
その行いが好意的に受け取られたのは最初だけだった。
「どうして、私の子が」
一体、どういう話の流れでそんなことを口にしたのか、私にはよく分からないけれど。芳郎の母親がそう言ったのを聞いた。……聞いてしまった。
彼女は、私の家のリビングで、私の母に縋りつくような格好をしていた。
母の胸元を両手でぎゅっと握り締めて、搾り出すように吐き出されたその言葉が、奇妙な余韻を残す。
それはつまり、自分の子じゃなければ良かったという意味に聞こえなくもない。
母は、その言葉をどういう風に捉えたのだろうか。
ともかく、それ以降は互いに距離を置くようにしていたようだ。傍にいれば、傷つけあってしまうことを自覚したのだろう。
そして、幸三郎が遺体で見つかって一週間くらい経過した頃から。
妙な噂が流れ始めた。
私の父が、犯人ではないかという噂だ。
誰がそんなことを言い出したのか分からない。根も葉もない噂であり、根拠もない。
当然、私も母も、父に悪意を抱く誰かが作為的にそんな噂を流したのだと信じて疑わなかった。父自身も、初めは笑い飛ばすほどの余裕があった。
けれど、この噂話をどうやら週刊誌の記者が嗅ぎつけたようで。
ご近所だけでなく、街じゅうで聞き込みのようなものをしていたらしい。その為、必然的にこの話に触れる機会が多くなった街の人は疑念を抱き始めた。
本当に、父が犯人なのではないかと。
やがて、噂話に嘘か本当か分からない装飾まで施した「物語」が紙面に書き出されて。
父は、殺人犯として仕立て上げられた。
そうなるともう、歯止めはきかない。
周囲の人間はあっという間に離れていって、父が職を追われたのも、すぐのことだった。
私たち家族は、唐突に地面を奪われて、あっという間に堕ちていった。
初めはひそひそと囁く程度に噂話をしていたご近所の奥さんたちが、誰にでも聞き取れるほどの声音で父のことを人殺し呼ばわりするまでに時間はかからなかったと思う。
更に、これだけ噂が広まれば、それまでは親交が深かったと言ってもやはり疑念を抱くものらしい。芳郎の父親が我が家に乗り込んできたのは、週刊誌が書店に並んでから、そう日はたっていなかった。
激しい物音と、倒れこんだ父の背中。拳を赤く染めた芳郎の父親。そして、追いかけてきたのだろうか、開け放たれた扉に隠れるようにして立っていた征二郎。
あまりの怒声に、天上が軋んだような錯覚に陥った。
何が起こったのか分からなくて。私はただ、泣いていた。
芳郎の父親は、めったなことでは怒鳴ったりしない。子供たちが危ないことをしない限りはそうだった。
いつも穏やかな口調で話し、大抵は微笑を浮かべていて、時々、勉強を教えてくれることもあったのだ。
その人が。まるで、憎んでいるかのような顔をして、私を一瞥した。
たった一瞬向けられた視線は、私の心臓に風穴を空けるほどの威力を伴っていて。
世界は、瞬きをする間もなく、暗転して。光を失った。
父が逮捕されたのは、それからどれくらい後だっただろうか。
*
*
「……こんなとこで、飯食ってんの」
校舎裏の非常階段に座り込んで、ジャムパンの入った袋を開けているとそんな声が掛かった。
建物の影になっているので少しだけ薄暗いけれど、むき出しの階段なので風通しはいい。
あまり人が来ないから、しんと静まり返っているのも気に入っていた。
そこでぼんやりと昼食を取るのが、日課となっている。
芳郎が、私の前に現れてからすでに約一週間が経過しているが、よそよそしくなったクラスメイトとはあまり言葉を交わしていない。
唯一、咲子とだけは、いつもどおりの会話をするけれど、クラスが違うというのは隣街に住んでいるくらいの距離感があるので、なかなか顔を合わせる機会もなかった。
「……一人……?」
つい先日聞いたときと、あまりに声の質感が違うので、初めは誰か分からなかった。
私が座っているのは階段の中腹あたりで、その男子生徒は階段の下に立っている。階段の下は、一番影が濃くなっているところなので、目を凝らしても顔がよく見えない。
とんとんと、軽く刻むような足音が聞こえて。眇めていた両目を見開けば、そこに芳郎が立っていた。
私の方から彼の顔が見えずらいということは、彼の方も同じなのだろう。幾つか階段を登ってきたようだ。
校舎にしがみ付くような格好で設置されている階段は、幅が狭く、登りと下りで行き交うのも難しい。
体を斜めにすればすれ違うことも可能だが、手すりの向こう側は空中だ。バランスを崩せば、落下してしまう。
つまり、私は逃げ出すこともできずに芳郎と対峙するしかなかったということである。
階段を登れば、一時的には彼から離れることもできるが、行き着く先は各階の非常扉である。普段は施錠されているので、校舎の中に入ることはできない。
ここに来る人間が少ないのは、そのせいでもあった。
この場所に来るには、わざわざ外履きに履き替えて、校舎の外に出る必要がある。
「別に、捜したわけじゃないけど」と、芳郎は言ってくるりと背を向けた。そして、私が座っているところよりも下の段に腰掛ける。
私からは彼の後姿しか見えないけれど、丸めた背中は他の男子生徒に比べて特別大柄なわけでもない。
それでもやはり、その背格好は普通の男の子で。
当然、私よりもだいぶ大きい。
とうの昔に父親を失っている私にとっては、見慣れない男性の後ろ姿。十分すぎるほどの大きな背中だ。
その背が、頼りなく丸まっている。
先日、廊下で対面したときのような圧倒されるほどの怒りは感じない。
「……ちなみに、この学校に転校してきたのはお前が目当てだったわけじゃない」
聞いてもいないのに、彼はぽつりとそんなこと言った。
食べ損ねたジャムパンのビニル袋が、膝の上でかさりと音をたてる。
背中を向けているにも関わらず、私がパンに口をつけていないことに気付いているのか「食べれば」とそっけなく言われた。きっと、がさがさとした物音のせいだと思えば、身動きさえ取れなくなる。
「親が離婚することになってさ。ずっと別居してたから、何を今更って感じだけど。けじめは必要だから、籍を抜くって話になって。とりあえず心機一転、引っ越そうってなったわけ。……つーか、どうでもいいか。こんな話」
ぽつぽつと語る言葉にはあまり抑揚がない。話している内容に対して、あまりに淡々としているような気もした。
「……別居、してたの……?」
言葉を挟むことが正解かどうか判断できなかったけれど、思わず、訊いてしまう。
芳郎は少しだけ振り向き、ふっとこちらに視線を流すと再び前を向いた。
「まぁね。あんなことがあって、普通に暮らせる家族がいたら……そのツラ拝みたいけど」
辛らつな言葉だと思った。だけど、事実だとも、思った。
「親父が出ていったんだよ。お前らがあの街を出て、わりとすぐだったかもしれないなぁ。色々、耐えられなくなったんじゃない? 子供たち置いて無責任だと思ったけど。でも、今なら、それも仕方ないことだったって分かるよ」
うち、すげー大変だったから。芳郎はそう続けて、大きく息を吐く。
彼の背中からふっと力が抜けたのが、分かった。
「離婚しなかったのは、ただ単に、俺たちはまだ家族だっていう証明みたいなものが必要だったからかも」
「……、」
「まぁ、それもどうでもいい話か。……あ、ひとつだけ。その内、名字が変わるかもしれないけど、高校行ってる間は多分『宇都宮』のままなはずだから」
そう言いながら再び、こちらに振り返った芳郎は少し、笑っていた。
「お前には、関係ないか」
唇から少しだけはみ出した白い歯を見ていると、今にも声をたてて笑いそうな感じにも見える。
あまりにも穏やかな顔つきに、ほんの僅かに警戒心が生まれた。
それを知ってか知らずか、彼は微笑したまま「お前にとって、俺はまだ『よしくん』のままなんだろ」と続ける。
彼の態度が急変しすぎていて、感情が追いつかない。だから、上手く反応することもできずに、こくりと小さく肯いた。
「あのときから、十年も経っていない」
おもむろに立ち上がった彼が、こちらを向いたまま後ろ向きにとんとんと階段を降りる。
距離は遠くなったけれど、目線は何となく同じくらいの高さになった。
彼は「長かったように思うし、だけど、すげーあっという間だった」と目を伏せる。
いくつか呼吸を置いた頃、昼休みの終わりを知らせる放送が入った。各自、教室に戻るようにアナウンスが流れる。
それでも、芳郎は一歩も動かなかった。
「一週間、お前のこと……ずっと観察してた。今、どんな風に過ごしているのか、ちゃんと知っておくべきだと思って」
そういえばここ最近、何だか視線を感じるような気がしていたけれど、芳郎の言葉で合点がいった。
「何か、俺が思ってたのと違った。……本当に」
「……、」
笑うな!と、悲鳴のような声をあげた彼を思い出す。それと同時に、幼少期のことまで甦って、ひどく苦しくなった。
何でもないことが可笑しくてしょうがなかった子供の頃。
笑うことが特別なことだなんて、思ってもみなかった。
「自分でも考えてた。この憎しみは、いつ消えるのかって。この悲しみが、いつか癒えることはあるのかって。―――――何もかも、忘れられる日はくるんだろうかって」
光の差し込まない場所に立っているというのに、顔を上げた芳郎は、眩しいものでも見るような顔をしていた。
「……だから、許す努力をしたいんだ。憎んで、恨んで、怒ってばかりで、そういう人生にも飽き飽きしてるから。もっと、人に、優しくいられる人間でいたい。そう、なりたい」
この数日間で、一体、彼に何があったのか。私には想像もつかない。だけど、ここまで心境の変化をもたらす何かがあったのだろう。
―――――もしくは、
「お前を、許したいんだ」
優しい振りをして私に近づいて。何か壮大な復讐劇でも繰り広げる予定があるのだろうか。
その表情からは何も読み取れない。
人間は、表情と感情が一致しない生き物だということを知っている。今、こうして穏やかな顔を向けている彼だって、心の中では全く別のことを考えているかもしれない。
憎しみのあまりに、表情を失ってしまったということだって考えられる。
だけど、それでも。
その言葉に縋りつきたくなったのは。
例えば、私も経験してみたかったからだ。
目覚めた瞬間、太陽の光を心地良く感じたり。誰かと会う約束をしていて、その時間を心待ちにしたり。
未来は夢と希望に溢れて、何でもないことで唇が綻んで。友達と過ごす時間はさして貴重ではなく、それなのに心に刻まれるような優しさに包まれていて。
いつか誰かと恋に落ちる自分を想像して、どことなく恥ずかしくなったり。
不安なんてどこにもなく。怖いことなんて一つもなく。可笑しくもないのに笑い転げたりして。
そういう普通の人生を、たった数日でもいい。ううん、多分、数時間でも良かった。
人生は素晴らしいと感じられるような瞬間を、生きてみたかったのだ。
「みち。……泣くなよ、」
優しい声に、思わず叫びたくなる。
私には、そんな人生許されない。
希望に満ちた人生など、夢のまた夢で、決して実現しないことを知っている。
父は逮捕されたけれど、結局、処分保留で釈放された。
警察としては、取調べでの自白を期待していたようだが、父は頑として罪を認めなかったようだ。
最終的に、起訴するのに十分な証拠は集められず、釈放されたのだと聞く。
勾留されていた期間は、恐らく二十日前後だったのではないかと思う。もしくは、それよりも少しだけ長かったかもしれない。
一ヶ月にも満たない期間だったけれど、ありとあらゆることが変わっていくのには十分すぎるほどの時間だった。
自宅に戻ってきた父は、人相が変わっていた。
母と、祖母が一緒に父を迎えに行ったのだと聞いたけれど。そのとき、どんな会話を交わしたのか知る由もない。
ただ、憔悴しきった父の顔は、逮捕される前よりも十歳は老けたように感じられた。
自宅で父が帰るのを待っていた私は、「ただいま」と頼りなく微笑したその人の顔を見て、返事ができなかった。果たして父はこんな顔をしていただろうかと、そんな違和感を抱いたのである。
黙って、年齢の割りに老いたと感じられる顔を見上げていれば、父は私の名を呼んだ。
優しく、ささやくような声だった。
観察するような眼差しを向ける我が子のことが気になったのだろう。ひどく心配そうな顔をしていた。
私の頭を撫でようと、伸ばしてきた大きな手の平を思い出す。
触れてもいないのに、なぜか、指先がかさついているように見えた。
父は普段からよく、私の頭や頬、肩や背中を撫でてくれたから、ある意味、いつもと変わらない仕草だったと言える。普段なら、私は喜んでその手を受け入れていたに違いない。
そうならなかったのは、父が勾留されていた期間、私自身が散々な目にあっていたからだ。
逮捕されれば、犯人。大抵の人間が、そう思っているのではないだろうか。
その手の勉強をしたことがある人間なら別だろう。だけど、周囲には警察関係の人も、法律に詳しい人もいなかった。母や祖母はもちろん、弁護士に相談していたようではあるけれど、幼かった私はすっかり蚊帳の外で、父の置かれている状況など知らされることもなかった。
あえて隠していたというのもあるだろう。
だからこそ、私は勘違いしてしまった。
逮捕されてしまったのだから、父は犯人なんだろうという認識が、私にもあったのである。
要するに、小学生の乏しい知識では、そこまでしか理解できなかったということだ。
だいたい、周囲の人間が皆、口を揃えて「お前の父親は人殺し」と。そんな風に言うものだから、まるで暗示に掛かってしまったかのように、その言葉を信じ込んだ。
父が私に触れようとしたその瞬間、私は多分「こわい」と言った。「触らないで」とも。
大声で、母を呼んだ気もする。
快活で優しかった父の姿に、おぞましい怪物の姿を重ねた。
父は、得たいの知れない何かになったのだと。全身が総毛だった。
実際にどうだったのかと言えば、それは分からない。もしかしたら、父の本質は、逮捕されるよりも前と何一つ変わっていなかったかもしれない。
だけど、私自身がどう感じたかというのが問題で。触れようと、こちらに伸ばされた指先に叫び声を上げるしかなかった。
私は、ひどく怯えた顔をしていたに違いない。
あのときの父の顔を、何度も思い出す。
唇を薄く開いて、何事かを口にしようとしたその人は。即座に、その口を硬く閉ざした。
そして、その目元を赤く染めて。眉根をぎゅっと寄せて。泣き出しそうな顔をして。
それでも泣くことはなく、差し出した手を元に戻すと再び唇を開いて「……そうか」と呟いた。
何かに納得したかのように「そうか」と。
泣くのを堪えた様子だったのに、その声は震えを抑えることができず。ぐっと呑み込んだ息の音が響いた。
父と話しをしたのは、それが最後である。
翌朝、誰かの囁き声のようなものを聞いた気がして、普段より随分早い時間に目覚めた私は、母を捜して自室のある二階からリビングのある一階へと移動した。
静まり返った室内に、先ほどの声は気のせいだったかと首を傾げながら、両親が寝ているのなら物音をたててはいけないと忍び足で歩いた。
築十年は経過した家だったけれど、それでもそこここに真新しさを残していて。
ゆっくりと歩けば廊下が軋むこともなかった。
外は既に陽が登っていたけれど、廊下はまだ薄暗い。
慎重に歩いて、廊下の突き当たりにあるリビングへと続く扉を開けたとき、―――――それが、目に飛び込んできた。
こちらに背を向けて座り込んだ母の向こう側。
開け放たれたカーテンと、朝日を反射したガラス戸に、真っ黒な影が映りこんでいたのだ。
ガラス戸の向こう側に、何か、いる。
逆光で、目を開くことが難しく、かろうじてそれが何か巨大なものであることを理解した。
両目を擦りながら「……ママ?」と呟けば、びくりと痙攣したみたいに肩を震わせた母が、物凄い勢いで立ち上がってカーテンを引く。
それは、カーテンレールが曲がってしまうのではないかと思うほどの勢いで。
実際、カーテンフックの幾つかが外れて、カーテンの端っこがずるりとぶら下がる格好になっていた。
母は、見ないで!と言った。そして、私を強く抱きしめたのだ。
けれど、咄嗟のことに、閉じることのできなかった双眸が、私を抱きしめる母の肩越しに「それ」をしっかりと捕らえていた。
カーテンを閉じてもなお、室内を薄く照らし出す強い日差しが、やはり、カーテンの分厚い生地に映し出した黒い影。
初めは、天上から、人が舞い降りてきたのかと思った。
巨大な影が、実は「人の形」だと気付いたのはそのときである。
風が強いのか、僅かに揺れたその影はどこか幻想的でもあった。
ふわりと、天使か何かが落ちてきたのかと。そんな風に錯覚したほどに。
しかし、耳元で、ひたすらに「見ないで」と呟く母の声が私を現実に引き戻す。
もっとしっかりと目を見開けば。
それが、首を吊った父の影だと分かる。
顔はもちろん見えない。カーテンに遮られているので、顔どころかどんな服を着ているのかも分からなかった。ただ、そのぶら下がった人影の首元から、真っ直ぐに紐が伸びているのはしっかりと確認できた。
そしてそれが、父であることも。
考えるまでもなく分かった。娘だからなのか。その輪郭だけで、間違いなく父だと認識していた。
ガラス戸の向こうには、父が自ら設置したウッドデッキがあって。
木材を運び込むのも、均等に並べて釘を打つのも、ペンキを塗るのも何もかも、業者に任せた方が楽だったろうに、父が一人でやった。
何もかもが大変だったと笑っていたのを覚えている。
そのウッドデッキの上に張り出した屋根の、一番太い梁にロープを巻き付けて首を括っていた。
目立たない場所ではなかったはずなのに、父が完全に事を成し遂げるまで、誰も気付かなかったのだ。
―――――そうして。
父が自死した後。処分保留で釈放された身だったにも関わらず、周囲の疑念はますます深まった。命を絶つくらいなのだが、彼が犯人に違いない。そう思ったようだった。
だけど私だけは知っていた。
父は、己の罪を悔いて死んだのではなく、絶望したから死んだのだと。
この世界に、自分の味方でいてくれる存在は居ないのだと、はっきり自覚したからこそ。
生きることに、見切りをつけたのだろう。
追い詰めたのは、私だ。
私が父を、死に追いやった。