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人生で一番大切なものを失くしたとき。その後、立ち直る為には何が必要なのだろうか。
―――――何があれば、立ち直ることができるのだろうか。私はずっと、そのことを考えている。
*
人間というのは、他人の秘密を暴露することに何の罪悪も抱かないものなのだろうか。
それとも、その罪悪感こそに何らかの愉悦を感じるものなのだろうか。
私のようなくだらない人間が考えたところで答えなど出ないと知っているけれど。
何となく考えてしまうのだ。人間というのは、ありとあらゆる事象に愉しみを見出す生き物なのかもしれないと。
そしてその裏側で。
どうしようもないほどの絶望を味わう人間がいるというのもまた、事実なのだろう。
『殺人犯の娘』
この言葉を頭の中に思い浮かべるとき、私の体は自然と震える。
服の上から銃口を押し当てられた感触に似ているかもしれない。
触れてもいないのに、また、撃たれたことがあるわけでもないのに、その感触が分かるのだ。銃弾が、皮膚を突き抜けて痛みを与える感覚を、衝撃を、簡単に想像することができる。
言葉というのは、形もないのに、なぜか肉体そのものに影響を与えて。
時に心を、穿ち、抉る。
「あいつだろ、殺人犯の娘って」
だから誰かがそう呟くとき、私はできるだけ身を縮めることにしていた。
両手の指先を合わせて、握り締めて。時には強く瞼を閉じる。
粟立った皮膚を、誰にも気付かれないように。揺れる瞳孔を悟られないように。震えていることを知られないようにするのだ。
それは昔からそうだった。今に始まったことではない。
『殺人犯の娘』と呼ばれたことは今までにも何度もあったので、慣れたものだった。
―――――確かに最近は、その言葉を耳にすることもなかったけれど。
今はもはや、在学中の生徒全員、あるいは教師も含めた全員が私のことをそう呼んでいるのかもしれない。
階段の踊り場で「よし君」にそんな風に呼ばれたときは、目視できる範囲内には数えるほどの生徒しかいなかった。
すぐ傍に居たのは、私と友人と彼だけで。
それなのに、なぜかこういう事態に陥ってしまった。
翌々日には、私のことが噂になっていたのである。もはや反論の余地もなく、それが事実として認識されてしまった。
教師には事情を聞かれたけれど、ただの噂だと否定することもできず、ひたすら「何のことか分かりません」としらを切って見せた。
けれど、恐らく自宅には連絡が入っていて、母の口から真実が語られているはずだ。教師から事情を聞かれたのがただの1度きりだったことからも推察できる。
もしくは、私のことが噂になると同時に有名になった人物から話しを聞いているのだろう。
『よしくん』こと宇都宮芳郎という男子生徒だ。
彼はどうやら転入生だったらしく、廊下で対面を果たしたあの日の朝に転校してきたのだということだった。
同じ学校に居たのにも関わらず、それまで互いの存在を認識していなかったのはそういう理由からで。
つまり、そうだ。
私にとって、彼の存在はその程度のものだった。
顔も名前も知らない転入生で、それ以上でも以下でもなく、今後もきっと関わることなどなかったに違いない。
しかし、初めは見覚えがないと思ったにも関わらず、彼があの「よしくん」と同一人物だと思えば。
確かに、そう思える。
その容姿は、私の知っている「あの子」に他ならなかった。
昔は、その容姿があまりに可愛らしかったので女の子によく間違われていたのを覚えている。
色素の薄い髪の毛とか、大きな瞳とか。まさしく等身大のお人形さんが歩いているようで、その姿を目にするだけで何だか幸せな気分になったものだ。
彼は「女の子みたいに可愛い」なんて言われることをよく思っていなかったようだけれど。
それも仕方ないと思えるくらいの愛らしさがあった。
現在の彼も、体格はそんなに大柄ではないものの、いかにも女生徒に好かれそうな甘い顔立ちをしている。
相変わらず髪の毛は柔らかな亜麻色で、どこか懐かしい。
彼の母親、そして弟も同じ髪色をしていたはずだ。
彼らは、いわゆる美形家族というやつで、父親だけが少し系統の違う顔立ちをしていた。けれど、それでも全員が全員、人目を引く容姿をしていたと認識している。
随分と昔のことなのに、やけにはっきりと覚えているのは、それだけ印象深かったということだろう。
ともかく、そんな風に際立つ容貌の彼だからこそ、同じクラスの女子生徒は喜んで迎え入れたようだ。
しかも、女子生徒だけでなく、男子生徒にも何となく好意的に受け入れられていたと聞く。
一般的に、優れた容姿の人間というのは、男女問わず好かれる傾向にあるのだと思う。
きっと一週間もすれば、彼も周囲の人間に馴染んでいたはずだ。
あの出来事がなければ。
「私じゃないよ。私は、何も言ってないからね」
そんな弁明を繰り返すのは、「あの場」に居合わせた友人の咲子である。
あのとき彼女は、よしくん、―――――芳郎の発言に明らかな戸惑いを見せていたけれど、それでも冷静さを欠くことなく、私のことをあからさまに避けるようなことはしなかった。
「あんたの過去に興味はないとか大人ぶったことは言えない」と、至極正直に言ってのけた彼女の目は真剣そのもので。
あまりにも真っ直ぐに見つめてくるものだから、たじろいだのは私の方だった。
「あんたたちのことも調べてみた。それで……、それでね。私は、みちがどういう人間か知ってる。だけど、それはあくまでもただの友達としてってことだし。本当の本当はどんな人間か知らないかも。それはきっと、みちも同じでしょう? つまり、そう。だから……、今まで通り普通に友達でいよう」
あらかじめ言いたいことを準備していたのか、彼女は息継ぎすら惜しんで宣言した。
一息で語った後は深く息を吐き出して、私の返事を待つ。
正直、何を言えばいいか分からなかった。私は、ただ「ありがとう」と呟いたはずだ。
はっきりと覚えていないのは、せっかく優しい言葉をくれたというのに、喜べない自分に気付いていたからである。
猜疑心に塗れた己の心に、失望していたのかもしれない。
そもそも、私たちはただの友人であり、親友と呼べるほどの間柄ではなかった。私たちはクラスが違うので、廊下で顔を合わせば親しく会話をするけれど、わざわざ都合をつけて会いに行くほどの仲ではない。
学校の外で会うこともないので、一緒に遊びに出かけたこともなかった。
だから、言葉ではこれまで通りの友情を誓っていたとしても、結局は、希薄な関係になっていくのだろうことが簡単に想像できる。
「あと、気にすることないって言ってあげたいところだけど。……もう、皆に知られてるみたい。だから……、」と、今まで澱みなく話していた彼女が視線を逸らした。
だから、の続きは言葉にならなかったらしい。
たったそれだけの仕草で、私は―――――、短い平穏に終わりがきたことを悟る。
「気にしてない、よ。本当に、ありがとう。私のこと……気にしてくれて」
そう口にすれば、咲子はそっと目を伏せて「うん」と肯いた。
二人の間に流れる神妙な空気にいたたまれなくなって「私は大丈夫だよ」と、微笑する。
一生懸命に、そういう顔をした。
だけど、つい先日耳にした「笑うな」という声が甦って、口元が歪んだ。きっと、変な顔をしていただろう。
このとき、咲子が私の顔を見ていなかったことだけが救いだ。
自分がどんな顔をしているのか、他の誰にも見られたくなかった。
「これから、大変かもしれないよ」と、ぽつりと言った咲子に返す言葉はない。
そんなことは、自分が一番よく理解していた。
私のことを調べたという彼女。もう既に、私がどのように生きてきたのか知っているのだろう。
ネットで検索すればすぐに分かることだ。
週刊誌に取り上げられたこともあるので、調べようと思えば簡単に調べることができる。
―――――それが真実かどうかは別にして。
弁解するような真似をしなかったのは、そんなことをしても無意味だということが、痛いほどに分かっていたからで。
一度、殺人犯の娘と呼ばれてしまえば。もう駄目なのだ。
誰かが、私のことを調べ出して、あることないこと言いふらす。
もしも芳郎があの場で暴露していなかったとしても、いつかは誰かに暴露されていたはずだ。
今と同じように校内の人間全ての耳に触れて、その内、街中に知られる。
いつだって、そうだった。
この街とも、もうすぐお別れかもしれないな、なんて。らしくもなく感慨にふけってから、引越しの費用が貯まるまではどうにもできない現実に気付く。
「あの街」を出てから、何度も引越しを繰り返してきた。
母は「引越し貧乏とはこのことね」と笑うが、隠し切れない疲労が影を落とす。詳しくは教えてもらえないが、引越しの為に人からお金を借りたこともあるようだ。
既に返済していると聞いているが、母は現在でも複数の仕事を掛け持ちしている。
そうしなければ暮らしていけないからだ。
引っ越すたびに、この街が最後だといいねと互いに励ましあって、そうやって生きてきた。
だから、芳郎に再会したことを母に告げたとき。
母はふるりと震わせた唇で何かを言いかけて、結局、もう限界だと言わんばかりの顔で「そう」と力なく肯くに留まった。
下を向いてしまった母の頬を、伝う涙。
母が、声をたてて笑わなくなったのはいつからだろうか。
昔は違ったような気がするが、もう思い出すこともできない。
当然だ。逃亡者でもないのに、逃亡者のような生活を続けてきたのだから。実際は、誰かに追われているわけでもないのに。
私がそう感じるのだから、母はもっとそう感じているだろう。それでも、
あなたには普通の人生を歩いてほしいのよ。
高校を辞めて働くと言った私に母は言った。
それだけが頼りであるかのように縋るような口調で言うから。私は反論することもできなかった。
大学の費用までは用意できないから、奨学金を利用するしかないわね。と続けた母は、私の未来を諦めてはいない。
―――――明日、どうなるか分からないのに。
私は多分、とっくの昔に将来の夢なんて見ることができなくなっていて。
今日一日だけ、生き残ることができればそれでいいと思っている。
何か劇的なことが起こって、世界が一変しない限り、私はこのままだ。
この現実はただ続いていくだけで、終わるとすれば、それは死んだときだけなのだろう。
*
*
私と芳郎はいわゆる幼馴染というやつだった。
家が隣同士で、生まれてから数日後には対面を果たしていたと聞く。
周辺は新興住宅で、私たちの両親も例に漏れず、結婚を機に移り住んだ口だった。
私が芳郎と出会うよりも前に、両親同士は既に親交を深めており、ご近所さんというよりはむしろ友人同士のような気さくな関係を築いていたらしい。
同年代の若夫婦であるから、それも当然の流れだったかもしれない。
私たちが生まれてからは、よりいっそう親睦を深めていくこととなる。
週末には時々、どちらかの家に集まって夕食を共にした。
どちらかの家の庭でバーベキューをしたり、一緒に外食することもあった。
テーマパークに遊びに行くときは、必ずと言っていい程、互いの家族も一緒で。
私たちはつまり、家族同然だったのだ。
目を閉じれば、手入れされた芝の広がる庭と、小さな花壇が見える。そこに母が、色んな花を植えていた。
ベランダの脇に設置された手作りのウッドデッキはまだ真新しさを残していて。
それは父が、休日に木材を運び込んで作り上げたものだった。
庭の物干し竿にかけられたシーツが、はたはたと揺れていたのを思い出す。
特筆して語るべき部分もない、どこにでもある、何の変哲もないありふれた風景である。
けれど、そんなどうともない日常を思い出すとき、私の胸はきつくきつく絞られた。
ぎゅうぎゅうと、ひねり潰されるような気すら起こる。
あの、優しかった父が。人殺しと言われたのだから。
―――――こいつの父親は……! 人を殺した!! 俺の、俺の、
幸福な光景には、いつも誰かの悲痛な叫びが響いている。いや、違う。確かに知っている声だ。
だって、言われたのは私自身なのだから。知っていて、当然なのだ。
昔のことを思い出せば、必然的に甦る少年の声。
―――――俺の弟を……! 俺の、弟を、殺した……!
声変わりをする前の幼い声だった。
震えを帯びる悲鳴は、泣いているようにも聞こえたから、迫力があるとは言えなかったけれど。高い声は、それでも圧力を持っていた。
私の心臓に、重しを載せるような。そんな圧迫感のある声だ。
彼が、―――――芳郎が、声を上げたのはあのときが初めてだった。だからこそ、脳裏に焼きついているのかもしれない。
状況は、今回と酷似している。
そうだ。あれは、小学校だ。教室の前の廊下で、突然、腕を掴まれた。
少子化という割りには、子供たちで溢れ返っていた校内はいつだって騒がしくて。
休み時間は耳が痛くなるほどにうるさかった。
そんな騒然とした校内が、張り上げた彼の声でしんと静まり返ったのだ。
風を入れるために開け放たれていた校庭に面した窓。そこから見えた青空を走っていく飛行機雲。
みんみんと泣き叫ぶセミの声がうるさくて、耳を塞いでしまいたかったけれど、できなかった。
泣き出した芳郎が、
―――――お前の父親が、俺の弟を殺したんだろ! そうなんだろ! と、そう言って私を殴りつけたからだ。
何事かと、教室から飛び出してきた幾人かの生徒と、廊下の向こうから走ってくる教師。
その姿を視界の隅に納めながら、私は頬を抑えながら芳郎の顔を見上げていた。
私たちはまだ、小学生で。まだ、8歳だった。全てを理解するには幼すぎて、何も分からないと目を塞いでしまえるほど幼いわけではなく。
子供だからこそ、何もかもを見通せるわけではなかったけれど、子供だったからこそ見えるものもあった。
あのとき感じた痛みや苦しみは忘れることができないし、多分、一生抱えていくのだろう。
それはきっと、芳郎も同じで。
もしかしたら、私よりも何倍もの痛みを抱えているかもしれない。
だけど、もしも許されるなら。分かって欲しいとは言わないけれど、知っていてほしい。
殺人犯と呼ばれた父は。
犯人ではなかった。
疑われはしたけれど、父は、無実だ。
他の誰よりも、私が、一番よく知っている。