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あの子はとても恐ろしい子だったと父は言った。
幸三郎が一歳になったばかりの頃、リビングで征二郎と二人を遊ばせていたときにそれは起こった。
仲良く二人で積み木遊びをしていたはずなのに。少し目を離したすきに、征二郎が幸三郎の体に乗り上げていたのだ。
最初はじゃれているのだろうくらいに思っていたけれど、幸三郎がうめき声を上げている。
「お母さんはそのとき、キッチンで作業をしていたと思う。居合わせたのはお父さんだけだった」
末っ子が明らかに嫌がっている様子だったので、やめさせようとしてソファから立ち上がったとき。
それを見た。
征二郎は、手に三角の積み木を握っていたのだ。
その積み木を、幸三郎の口に押し込もうとしていた。
不幸中の幸いというか何というべきか。幸三郎の小さすぎる口には、積み木の角が入ったくらいだったし、何より征二郎の力もそんなに強くなかったので大事には至らなかったけれど。
「やめなさい!」と声を上げるまで、征二郎は羽交い絞めにした幸三郎を離さなかったと父は語る。
「正直、そのときは目の前で起こったことが理解できなかった」
けれど、何となくお母さんには言えなかったと、コーヒーカップの淵を指でなぞる。ぼんやりとした顔つきで、カップを持ち上げるものの口をつけない。
飲む気になれないのかもしれなかった。
「……友人と夕食をしたときに、ふとお互いの育児についての話になったんだよ。父親として何をしているか、何をすべきなのか。まぁ、他愛もない会話だな。そのとき何気なく、積み木のことを話したんだ。次男が少し乱暴な性質かもしれないと」
妻には話せないことがなぜか赤の他人には話せた。世間話の一つとして、さりげなく打ち明けることができたからかもしれない。夫婦で話すと、どうしても子供のことが深刻な問題になってしまう。愛があるから故であるが、さして大したことのない話題でも口論に発展することがあった。
それは例えば、幼い幸三郎といつまで添い寝するか。あるいは、習い事はいくつから始めるべきか、など。どこの家でも話題になるようなことで、大抵は話し合えば解決できた。
でも、今回のことはなぜか、真剣に捉えてはいけないと頭のどこかで警告されたような気がしたのだ。
なぜかは分からない。
今となっては、あのときに征二郎に向き合わなかったことが全ての発端だったようにも思える。
「話を聞いた友人はただ、乱暴な子だな~って笑ったんだ」
だから『そうだな大変だよ、男の子三人は』と答えた。
その声が白々しく響く。
『そういえばさ、公園で小さな子が蟻の行列を踏みつぶしてたんだけど、ああいうのって誰にでもあるのかな?』なんて別の話題に移っていくのをそのまま受け入れる。
征二郎のことを深く掘り下げられるのを恐れていたからかもしれない。
だけど。
「休日出勤の代休で平日、家にいたときも―――――、」
そこで言葉を止めた父がやっとカップに口をつける。自分も、用意してくれたグラスからサイダーを口に含んだ。妙に、喉が渇く。
喉の奥で炭酸が弾けて、一瞬、鋭い痛みが走った。それに合わせて、心臓が僅かに鼓動を速める。
「あのときは確か、お母さんが買い物に行くっていうから、お父さんが征二郎と幸三郎の面倒を見ることになったんだ」
普段、妻に育児をまかせっきりだったことの罪悪感を払拭したかったからでもあった。友人と話したときに、自分がほとんど育児に参加していないことに気づいたから。
「お母さんにはゆっくりしておいで、って言ったんだ。確か。カフェにでもいってお茶でもしてこいって」
二人のことは任せて大丈夫だと大口を叩いた。
「……俺は?」そのときどこに居たのか問えば、保育園だよと笑う。征二郎は年中保育から入ったからまだ家にいたのだと説明された。
―――――そうだっただろうか? あまりよく覚えていない。
「お母さんが買い物に出たから、じゃぁ征ちゃん、幸ちゃん、公園にでもいこうかって」
その後、また不自然に父の言葉が止まる。
「……親父?」
正面にある、遠くを見ているような暗い眼差しがはっと光を取り戻す。当時のことを思い出していたのだろう。右手で己の額を撫でる様子を見守る。
こうしてみると、母似だと思っていた幸三郎は確かに父の血を継いでいる。どこが似ているとは明確に答えられないが、全体的な顔の造りがやはり似ているのだ。
「公園に行って、滑り台で遊んでたんだ。二歳になったばかりの幸三郎も、小さな滑り台だったら一人で登れたから」
ああ、そういえば。
家の近くの公園に小さな子向けの滑り台があった。ちょうど、家の中に置けるくらいのサイズで。きりんを模したやつだ。砂場に向かって伸びた長い首の部分が滑り台になっていた。
幸三郎はそれがお気に入りだった気がする。
何で忘れていたんだろう。
「征二郎も初めは幸三郎につきあって大人しく遊んでいたんだ。何度も登ったり、滑り降りたりして。仲良く……、」
特に危険な様子もない。だからベンチに座って二人を眺めていた。
そのときだ。
「何が気に入らなかったのか、征二郎が幸三郎の頬を叩いた」
ぺちん。
子供のやることである。そんなに威力はない。
二人は滑り台の一番高いところに立っていて、泣き出した幸三郎の背中を征二郎が擦っているように見えた。ごめんね、とでも言っているんだろう。慰めているんだ。
それでも、征二郎を叱らないという選択肢はない。
立ち上がって、諫めようと口を開いたときに異変に気付く。征二郎は幸三郎の背を撫でていたんじゃない。
押し出そうとしている。
きりんの首の方ではない。力技で、滑り台の外側に押し出そうとしているんだ。―――――そんな風に見えた。
「征二郎!」
いま、そうしているかのように声を上げる父。反射的に両肩が震えた。
「自分の大声に驚いたよ。心臓がどきどきして、耳鳴りもするくらいだった」
なのに、征二郎はやめなかったと、その人は両手で顔を覆う。
今、自分は何の話を聞いているのだろう。
「体が半分放り出された幸三郎を両手で受け止めた」
小さな滑り台だったことが功を成した。一番高いところでも、大人が両手を伸ばせば届くほどの位置だったから、助けられたのだ。
泣き出した幸三郎を抱えたままベンチに連れていく。ふと滑り台の方を振り返ると、征二郎は一人できりんの首を滑り降りるところだった。
滞りなく砂場に着地すると、何事もなかったかのように階段のほうへ向かう。
幸三郎のことなんて忘れているかのように。
というより、父親が傍にいることさえ覚えていなかったのかもしれない。
「そもそも征二郎にとっては、公園に遊びに来たことすら家族と一緒だという認識はなかったのかもしれない……、って後になって思った」
下を向いたまま、とつとつと話す父はきっと俺の顔が見れないんだと思った。それがどういう感情なのか知る由もない。
「あの子は一人なんだ。ずっと、一人。近くに誰がいても、何をしてても誰かと一緒という感覚がない」
あの子には、誰かを大切にするという意識が存在していない。
そう言われて、しんと静まり返る室内に全身が凍えるようだった。こくりと息を呑んだ己の呼吸すらうるさい。
「それで? それで親父は幸ちゃんが死んだとき……」
誰が犯人だと思ったの?
そう訊いた自分の声が大きく震える。声に出したと思ったけれど、本当は言葉になっていなかったのかもしれない。
けれど恐らく伝わったのだろう。顔を上げて、しっかりと俺の顔を見てから首を振った。
「それでも、だよ。それでもお父さんは、隣の家のあの人が犯人だと信じて疑わなかった」
それは、そうかもしれない。
征二郎がどんな人間だったとしても、まだ子供だ。さすがに、子供が子供を襲うとは考えにくい。それも弟だ。
いや、たとえそう考えたとしても勘違いだと一蹴するだろう。
征二郎だって間違いなく親父の息子なのだから。
「いつ、気づいたの?」
「……、」
「征二郎が、幸ちゃんを……、襲ったって」
もう言葉を濁したところでどうしようもない。あえてはっきり問うべきだと思った。
「事件があって、お母さん、ふさぎ込んでただろう?」
「うん」
「お父さんもしばらく仕事を休ませてもらってたから。幸ちゃんの葬式を終えて、犯人はあの人だろうって話がでてきて。お父さんもそうだって思い込んで。それで、―――――犯人が逮捕されて、釈放されて……、自ら命を絶って」
言い淀みながらも、時系列を整理するように一つずつ事実を並べる。
犯人が死んだと聞かされたときは、ざまーみろ、というよりもぶつけようのない怒りに支配されたと。
今まで感じたことのないような圧倒的な怒り。憤怒。頭が爆発しそうだった。勝手に死にやがって。
「その後……。事件から一か月以上経っていたけれど、お母さんは相変わらず寝込んでた。当時の過熱していた報道が嘘みたいに、家の周りから記者がいなくなっていたけど……。それでも数名は残っていたと思う。だからあまり、外には出られなかったけど」
「うん、」覚えている。
「とにかく、頭の中を空っぽにしたかった。そういうときは慣れないことをしたほうがいいと……、本当か嘘か分からないことを聞いたことがある」
そうだ。家事でもしよう。料理がいいかもしれない。料理なら手順を考えないといけないから、事件のことを考えなくて済む。
本棚を漁れば、妻が新婚時代に買った料理本が何冊か並んでいた。その中から一番分厚いものを手に取ってキッチンに入る。
「休んでいるお母さんを起こさないように」
なるべく音がしないように、冷蔵庫を開けて材料を準備したかった。
けど、そこに幸三郎のために用意していた紙パックのりんごジュースが行儀よく整列していて。手が止まった。
ど、ど、ど。今まで止まっていたのではないかと思うほどに大きな音をたてる心臓。
苦しい。息が、できない。
ふらついて、そのまま膝をつく。
動悸はおさまったけれど、額に汗が浮いた。そのまま床に転がって天井を見上げる。
これは、夢?
本当に幸三郎は死んだのだろうか。もしかしたら眠っているのかもしれない。
何でこんなことが起こったのだろう。
ああ、そういえば。最後に幸ちゃんの顔を見たのはいつだっただろう。
「あの日の朝……、事件のあった日。テーブルに朝食があって。でも、急いでいたからろくに食べることもできなかった。お母さんはキッチンにいて、いってきますと声をかけた。それで、そろそろ家を出ようかと思ったとき、お前と幸ちゃんが一緒に、二階から降りてきたんだ」
やっと起きたのか? と声をかけた。幸三郎は眠そうに目をこすっていて、確かむにゃむにゃと唸り声のような「いってらっしゃい」を言ってくれたはず。
そうだ。
あの子は最後に、声をかけてくれたのだ。
でも、本当にそうだったのかはっきりと思出せない。
「目を合わせたような気がする。こっちを見上げて笑ってくれたような」
そんなことをずっと、キッチンの床に転がったまま考え込んでいた。
そういえば、あの日の朝よりも前に幸三郎を見たのはいつだった?
ちゃんと話をしたのは?
あの子を最後に遊びに連れていったのはいつだっただろう。お風呂に入れてあげたのは? トイレのお世話をしたのは? 一緒に眠ったのは、いつだったか。
数えきれない「最後」がある。そして、そのどれもはっきり検討がつかない。
だっていつだって、これが最後だとは思っていなかったから。
親父はそう言って、目元を拭う。真っ赤になった両目が、俺の顔の向こう側にある何かを見ていた。
俺が父の中に幸三郎を見るように、親父もまた俺の中に幸三郎を見ているのかもしれない。
「……でも、このままじゃ駄目だと思った。幸ちゃんの死をずっと悲しみ続けて生きていくのかって。楽しかったことや嬉しかったことがたくさんあるはずなのに、悲しみに呑み込まれていていいのかって」
床から体を起こして、調味料を取り出すためにシンクの下の扉を開く。大小、様々な大きさのガラス瓶が並んでいた。みりん、しょうゆ、酒。整理整頓されていて見やすい。
その横にラックがあって、ざるやボウルが納まっている。
料理本を見て覚えていたはずなのに、何の調味料が必要だったか忘れてしまった。
ため息をつきながら収納の中を見ていると、棚の奥に何かがあることに気づいた。ざるとボウルのちょうど後ろあたり。狭い隙間に強引に入れ込んだみたいに。
暗闇の中で光る、鈍い銀色。細い、細い月みたいだった。
いつもだったら気にならない。なのに、そのときはなぜか指を伸ばした。
伸ばして、しまった―――――。




