13
『君のお父さんは、犯人なんかじゃないと思うよ』
待ち合わせは最寄りの駅。改札から俯き加減に出てきた小嶋に、赤城との約束までまだ時間があるから喫茶店に入ろうと誘われた。
そのとき、思わず「うちの父親ことは、誰も何も言わなかったんですか」と吐露してしまったのは、やはり誰かに聞いてもらいたい気持ちがあったからかもしれない。
誰にも言えないことなのに。
でも、一人では抱えきれない。そんな俺に、小嶋はちょっと困ったような笑みを返してきた。
『どうしてそんなことを訊くのかな? 疑ってるの?』
自ら話題を提供したというのに、言葉に詰まる。とりあえず座ろうと促され、喫茶店に入った。
重たい木製の扉を開くと、カランと涼やかな鐘が鳴る。
弦楽器の、いかにも上品な音楽が流れる店内はそれなりに混雑していた。蝶ネクタイを締めたマスターらしき男性が、カウンターの向こうから、そっけなく「いらっしゃい」と言う。
続いて近くに立っていた若い女性が「お好きな席へどうぞ」と、入口に重ねたメニューを取りながら愛想よく告げた。
たまたま窓際のボックス席が空いていたので、そこを陣取る。腰を下ろしてそうそうに小嶋はコーヒーを、自分はアイスティーを注文した。
『それで?』
問われて視線を彷徨わせる。テーブルの上には最近ではあまり見なくなったガラスの灰皿が置かれていた。
ここは喫煙可能なお店らしいが、小嶋が胸ポケットから煙草を出すことはない。……と、なぜかそんな気がした。
向かい合って座れるのは利点だが、声が少し遠い。前かがみになってしまうのは仕方ないことだった。
だって、こんな話、誰にも聞かれたくない。
俺の心情を理解しているのか、小嶋も心なしか前のめりに耳を傾けてくれる。
『疑っているわけじゃない……、んです。ただ……、』
『ただ?』
『幸三郎の事件に母が関わっているなら、父だって……、無関係と思えない』
すべて言葉するのには、時間を要した。たどたどしく、思いついたままに喋ったから当然、時系列も無茶苦茶だ。それでも彼は、辛抱強く聞いてくれた。
そうしてやっと絞り出した、もしかしたら親父が犯人なのではないかという疑念。は、たった一言で払拭されたのだった。
『警察もそこまで愚かじゃない。関係者のアリバイってやつはもちろん捜査しているよ』
こういう事件のとき、もっとも疑わしいのは肉親だ。
推理小説とかでもそうじゃない?
小嶋は、一瞬だけ遠い目をしてこちらに向き直った。
『けど、君の母親はずっと近所の人と一緒だった。そして、疑惑の……、お父さんだけどね。当然、捜査関係者や記者も疑ったよ。もしかしたらって。まぁ、それも一瞬のことだったけど。何せ、アリバイがしっかりしていたからね』
その日、俺の父親は一日中、部下と一緒だったらしい。生理現象で数分離れることはあっても、それこそ四六時中離れず傍にいたという。
『発注ミスがあってね。取引先に多大なご迷惑をおかけしたらしい』
『……えっ、父が……ですか?』
思わぬ話に顔を上げる。
口もつけていなかったアイスコーヒーのグラスの中で、溶けた氷がカランと音をたてた。
テーブルに肘をついた小嶋は、手の平に顔を載せてこちらを見る。上目遣いになった瞼がくすんでいた。ひどく疲れている様子だ。
『違う違う。君のお父さんと一緒だった部下ね。その人……、女性なんだけど。彼女がね、発注票に間違った品番を入力してしまったらしい。商品が納品されてから誤発注だったと分かって、取引先は「うちはこんなもの頼んでない!」と大激怒。上司である君のお父さんが一緒に取引先に頭を下げに行ったってわけ。でも、謝ったところで解決するわけでもなく、本来仕入れるべきだった商品を探して、関係先をあっちこっち駆けずり回ってたようなんだ』
ああ、そうか。と、唐突に色んなことが腑に落ちる。
あのとき、ーーーーー幸三郎がいなくなったと分かったとき。ある程度周囲を捜しまわった後、息子がどこにもいないと理解した母は、警察へ通報した後、半分泣きながら父へ電話をかけた。
明らかに動揺して、震えを押さえることができなかった母の手から滑り落ちた携帯がアスファルトの地面にぶつかった。その、耳障りな音を、よく覚えている。
ガシャン!
誰かに、何かに縋りつきたかっただろう母の指が、俺の肩を掴んだ。
『……父には、連絡がつかなかったんです』
『うん、聞いてるよ』
だから警察は、父のアリバイを調べた。
部下のために、取引先に頭を下げた父。上司として当然の行いかもしれないが、それができない人間もいると高校生の自分ですら知っている。父は少なくとも誠実な人間であろうとしたのだろう。
管理職の役目を果たした。
けれどその一方で。
夫としての役目を果たすことはできなかったのだ。
『お父さんの携帯に連絡を入れるのは諦めて、会社に電話したようだね。すぐに帰宅するように伝えてほしいと。けれど、その時点では恐らく緊急事態とは思われていなかった。電話を受けたお父さんの同僚は、確かに伝言すると言ったのに、うまく連携がとれなかった』
結局、父が事の次第を知ったのは帰宅してからだ。自宅の前にはパトカーと警察官。地面には幸三郎を捜すために集まった大人たちの影が長く伸びていた。
陽が傾き、濃い藍色の闇が、オレンジに霞む空を侵食していく。
最初は、自ら家を出た幸三郎はただ迷子になっただけだろうと思われていたのに。近所を捜しまわっていた大人たちも、もしかしたら何かの事件に巻き込まれたのではないかと、焦りを隠せなくなっていく。
小学生がよく集まる駄菓子屋が近くにあったので、そこかもしれないと誰かが様子を見に行って、もしかしたら幼稚園の方かもしれないと誰かが誰かに電話する。
小さな波が、大きな波を呼ぶ。
大事になっていくのを、肌で感じていた。
どこかに隠れているかもしれない幸三郎が不安にならないようにと、母が呼ぶのと同じように「幸ちゃん!」「幸ちゃん!」と色んな人が優しく、強く、その名を口にする。
やがて、喉が裂けそうなほどの叫び声に代わっていったのは。それほどに必死だったからだ。
一刻も早く見つけなければ、命が危うい。
そんな中。自宅前にできた人の波を掻き分けて玄関ポーチに立ち竦んだ父の、あの目。
驚愕に満ち、言葉を失ったその顔。
映画のワンシーンでも見ているようだった。
警察官に事情を説明されたらしいその人が持っていた鞄が、地面に落ちて一度だけ弾んだ。
俺や征二郎までいなくなってはかなわないと、部屋に留め置かれ、窓から外の様子を眺めていたのでよく覚えている。
『お父さんを、信じることができない?』
いっそう柔らかな声で問うてくる小嶋に、揺れる心情を悟られまいと下を向く。
水滴のついたグラスを手に取ると、透き通った琥珀の水面に氷が浮いた。泣きたい。ずっと、そんな気持ちだ。
誰が犯人なんだろう。
誰が、幸三郎を。あんなに小さな子を手にかけたというのか。
そんな想いで、赤城に会った。少しでいい。ほんの少しでも真実に触れることができたなら。
「―――――おい! 大丈夫か!」
耳元に響いた大声に我に返る。
はっと周囲を見回せば、対面に居たはずの赤城が俺の肩を掴んでいる。
椅子から転げ落ちたのだと気づいたのは、そのときだ。小嶋が心配そうに手を伸べてくれたので遠慮なく、その力を借りて起き上がった。
「顔が真っ青だ」
そう言いつつ、倒れた椅子を元に戻してくれたのは赤城だ。そのままそこに座るように促されて、ぐらぐらと揺れる視界に戸惑いながらも、腰を下ろす。
「水、飲んだほうがいい」グラスを渡されて口をつけた。
ど、ど、と全身を揺らすように鈍く脈を打っていた心臓が、だんだんと落ち着いてくるのが分かる。
動揺しているのは変わらないのに、一方で頭の中は冷えていくようだった。
「―――――今日はもう解散しましょうか。彼の具合も悪いようですし」
観察するように俺を見ていた小嶋が静かに告げて、赤城も軽口を叩く様子もなくこくりと頷いた。「……何か悪いこと言ってしまったのかな? 申し訳ない」殊勝な面持ちに、彼のことをよく知らないにも関わらず「らしくない」と思う。
いいえ、どうぞ気になさらないでください。その一言を振り絞る。
この人はやはり、悪い人ではないのだと実感した。
そうして、赤城と別れ、小嶋を肩を並べて歩いた帰り道。ぼんやりと足元を眺めながら歩いていると、アスファルトにぽつりと染みが浮いた。
「お、雨か」
小嶋が背負っていたリュックから折り畳み傘を取り出す。
「準備万端。何においても準備を怠らないのが、記者なのさ」
ふふ、と笑ったのは、この締め付けるような暗い雰囲気をどうにかしようと思ったからかもしれない。
事実、雨雲に覆われた空はどんよりも重く、いまにも土砂降りになりそうな気配である。
つま先にぽつ、ぽつと穴を穿つように雨の量が増えていく。小嶋が小さな傘を傾けて、一緒に入れてくれた。それでも男二人の身体を守ることはできず、はみ出した肩が濡れていく。
幸三郎の葬儀で。家族を守ると言った父に同意した。長男なんだからしっかりしなきゃと言って「はい」と答えたのだ。こうなってしまったのは自分のせいだという罪悪感もあったから。
母や征二郎、父を支えるのだと。
今度こそ、間違えないと誓った。
でも。
「……小嶋さんは、本当は知っているんでしょう? 誰が、犯人なのか」
「……ん?」
小嶋と顔を合わせるにあたって、もちろん経歴を調べた。ネット上で知れることなんて限定的だし、真実かどうかも分からない。十分、理解していた。従って、なるべく多くの情報を得ようと彼の名前で色々と検索してみた。存外、たくさんの記事を書いているようだった。その中で、事件記者としては非常に優秀な部類で、その界隈に詳しい人間なら誰でも名前くらいは聞いたことのある人物だというのが知れた。
だからといって信頼に足る人間なのかは判断できない。そもそもあんな記事を書いた人間だ。
それでも、社会的には称賛に価する人物だというのは確かだった。とある掲示板には、いくつかの未解決事件は、彼の取材によって解決の糸口をつかむことができたようだと書き込まれていたのだ。
それほどの人が。過ちだったと認める自身の記事を精査しないなんてこと、あるだろうか。
「貴方は、あの記事を書いたことを悔いていると言ってました。そして、己の罪と向き合うのが怖かったとも。だけど、」
本当に向き合わなかったのだろうか。
俺が、ネットの中にある膨大な情報から、できる限り精査して汲み取った事実からすれば。この人は正義を果たそうとする人間だ。だとすれば、己の罪を封印するようなことはしない。
きっと、幸三郎の事件を改めて、追ったに違いない。
結果、真実を見つけたのだ。―――――見つけた上で、封印した。
「あの日。……幸三郎がいなくなった日。俺と征二郎は家の中で、皆が帰ってくるのを待ってた。親父とお袋と、幸三郎。三人はきっと一緒に帰ってくるって。待ってれば、大丈夫。そう言い聞かせて」
玄関前はひどく騒がしかったけれど、部屋の中は異様に静かだった。警察官の出入りはあったもののそれだけだ。緊張感に包まれた室内は、声を出すことすら憚れるほどで。
だから、ただ怖かった。かえって征二郎は、何が何だか分からない様子でおとなしくしていたけど、その内にじっとしていることに飽きたのか戦隊もののDVDが見たいと言い出した。
そんな場合じゃない、今は我慢しろと言ったけれど、何でと問われて答えに窮する。
幸三郎がいないから。
その一言が、声に出せない。この場で、状況を正しく理解できていないのはきっと征二郎だけで。この幼い弟に、もっと小さな弟がいなくなったことを説明するのは正しいことなのか迷ったのだ。
黙っていると、痺れを切らした征二郎がぱっと立ち上がって廊下に出た。
慌てて追いかけると「ママのとこに行く!」と、玄関のほうに走る。
邪魔したらダメだから、と声をかけながら追いかけると、弟はちらとこちらを振り向いて、靴箱から自分のスニーカーを取り出した。『だって暇なんだもん!』土間に放られ、
軽く音をたてて弾んだ征二郎の靴。
「―――――黄色です。あの子の靴は、」
そう、黄色だ。忘れもしない。だって幸三郎と征二郎はお揃いの靴だったから。
メインヒーローの赤をベースにした幸三郎の靴。征二郎のは、黄色をベースにした、ところどころに深いグリーンの入ったやつ。玄関に、二人の靴が並んでいるのがかわいらしくて好きだった。
何となしに眺めていたら、貴方にも買ってあげましょうか?と冗談めかして笑った母。
年齢的には既に戦隊ものからは卒業していたし、俺が履くようなサイズのものはもうない。「いらない」とあえてつっけんどんに返して、自分はずっと有名なスポーツウェアのスニーカーを履いていた。
僕と幸ちゃんだけお揃い!と、屈託もなく自慢げに言った征二郎。
「小嶋さんがあの事件を封印したのは、罪の意識からじゃない。……いや、それもあったでしょう」
立ち止った俺の頭を追いかけるように、小嶋の持った傘が傾いた。けれど、それを押しのける。
いつだってそうだ。
当たり前に優しくされて、当たり前に守られてきた。だって、被害者家族だから。可哀相だから。他人は大抵誰でも、俺たち家族に親切にしようとしてくれた。
「あのとき、幸三郎がいなくなったとき。他に、誰がいなかったか考えた。身近な人が犯人だというなら。俺にだってきっと検討がつくはずだって。だから、……だから、もしかしたら親父じゃないかって……、でも、でも……、そうじゃない」
稲光が走って、咄嗟に目を閉じる。暗闇に転写されるように、あの日の光景がはっきりと見えた。
幸三郎の姿が見えなくなって、母や近所の皆が集まりだした頃。
あのとき一瞬、俺は確かにこう思ったのだ。
征二郎も、いない。
「皆、必死だった。幸三郎がいないって。皆で捜さなきゃって。俺だって、そう。警察が来るまではそれぞれがそれぞれに幸ちゃんを捜してた」
動揺していた母は、父が傍にいないことでなおさら怯えて、宥める大人たちに囲まれていた。そのすぐ傍に、俺は居て。
このまま幸三郎が見つからなかったらどうしようと、震える手を握りしめていた。
『芳郎くん。大丈夫よ。そんな顔しないで』
肩を抱いてくれたのは、はす向かいに住まう品の良い老婦人だ。そこに、満のお父さんもいて。
あのときなぜか、征二郎がいないような気がしたけれど。きっと家の中にいるのだろうと思って、確かめもしなかった。幸三郎が心配で。母が気になって。
それどころじゃないって。
警察に通報したのはその後で、俺が部屋の中に戻されたのは、さらにその後だ。
そして、すぐ下の弟はいつの間にか隣にいた。
思い返すけれど、―――――いつから? どこまでいなくて、どこから一緒だった? 判然としない。
「でも、まさか。そんなはずない。そうでしょう? 絶対に、そんなはず……、」
視界がぼやける。きっと、雨粒が目の中に入ったからに違いない。
「芳郎くん、落ち着いて。とりあえず、傘に入って。どこかに入ろう」
雨を凌げる場所へ行こう。そう言って差し出された手の平は、分厚くて大きい。俺だって、同じくらいの大きさなのに。どうしてこんなにも頼りない。
「小嶋さんがあの事件を封印したのは、犯人が分かったからでしょう?」
さっきの稲光に追いついた雷鳴が頭上で大きな音をたてる。俺を気にして傘を突き出した記者の顔が、びっしょりと濡れていた。娘を亡くしたというこの男は、自発的ではないものの、ある事件の片棒を担がされた。そのことを悔いて、正義を貫くという信念に従順な人間となり、その傍ら、他人の子供にすら情を向けるようになった。
「真実が分かったのに記事にしなかったのは」
―――――幸三郎を殺害したのが、
子供だったからだ。
耳の奥で、ちりんちりんと涼やかに鈴が鳴る。その鈴の正体を、知っていた。




