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みちと一緒に小嶋に会いに行った際、その人は「この後、九州に取材に行く」と言っていたのに、自分の予定を変更してまで、都合をつけてくれた。

そこまでしてもらう義理はない。分かっていたし、そう言ったけれど、小嶋は「これはね、贖罪なんだよ」と小さく、小さく笑った。


「いやー、悪いね。梯子なんてしちゃってさ」


すまん、すまん。なんて言いながらちっとも悪びれた風を装う気もない中年の男が、人懐っこい笑みを向けた。ついさっきまで居た大衆食堂では、とんかつ定食をぺろりと平らげ、今度は全席個室を謳っている高級料亭でエビの天ぷらを頬張っている。

俺の隣に並んでいる小嶋は「ほどほどにしてくださいね」と返事をしながら茶を啜った。

はいはい、とおざなりに頷いた男は「どれにしようかなぁ」と、喜色を隠そうともせずに握った箸を宙で彷徨わせる。

「坊ちゃんも食べなよ。小嶋さんのおごりなんだから」

ふと、こちらに視線が向いて、意味もなく肩が揺れた。

「そんなに警戒しなくても取って食ったりしないってぇ」

あまりにも失礼な態度だと自分でも分かっているけれど、それも仕方ないと言い聞かせる。

何せ、初対面だ。

それに、お世辞にも身綺麗とは言えない風体の人間とは、何となく距離を取ってしまう。人間とはきっと、そういうものだ。


よくよく観察してみたところで、ぼさぼさの髪に薄汚れたTシャツと、サイズの合っていない褪せた朱色のジャンパーが磨かれるわけでもなく。黒く汚れた指先が美しく整うことはない。そんななりは、当然この料亭に似つかわしくなかった。

そもそも職に就いているのだろうか。

その身なりから、誰かと対面することの多い営業職ではないのは分かる。かといって事務職でもなさそうだ。この男が、室内で電卓を弾いたり、書類をまとめたりする姿は想像できない。

だからと言って、力仕事ができそうにも見えなかった。大食いではあるが、見るからに力がなさそうである。


けれど。

箸を持つ手は人差し指と中指がそろっていて所作がきれいだし、食べ物を散らかすこともない。

口の中に何かが入っているときは、喋ることもせず、言いたいことがあったとしても呑み込んでから話す。そういった当たり前のことが、当たり前にできる人物だった。

だからだろうか。違和感のようなものが漂うのは。


「うーん、実に美味しいね」

いかにも値段の張る小さな器が、テーブルの上に行儀よく並んでいていっそ壮観なほどである。一見、地味にも見える皿は奇妙な形をしているが、きっと名のある器なのだろう。

その上に並んだ季節の野菜は薄い衣を纏い、実に芸術的に配置されている。きらきらと輝くジュレを載せた煮つけは、ほんの気持ち程度の量しかないけれど、手が込んでいるというのはよく分かった。

目の前の男もきっとそれをよく理解しているのだろう。

口に含んだらなかなか呑み込まずに、何度も何度も噛み締めてずっと味わっていた。


「ふふ、こんな料理、もう二度と味わえないだろうからね。よーく覚えておくんだ」

俺の視線に気づいたらしい中年の男は、顔に刻まれた皺を一層深くして笑う。人懐っこい印象を与える人だ。

「そんなことはないでしょう。僕だってそうそうここには来れないですけど」

小嶋は柔らかな笑みを零して「君も食べな」と、箸を持つように促してくる。

緊張のあまりにさっきの食堂ではほとんど食べられなかったから、少しでも口をつけるべきかと、とりあえず乾いた口内を潤すべく湯飲みを持った。

鼻をくすぐる茶葉の香り。

心を落ち着かせる作用でもあるのか、いつもよりも早く脈動を打つ心臓がおとなしくなる。


「ところでね赤城さん。事前にお伝えしていた通り、訊きたいことがあるんですけど」


小さく砕いたかぼちゃを箸に乗せた小嶋が切り出した。

名を呼ばれた男は皿の上で視線を泳がせながら「ああ、はいはい」と、適当に相槌を打つ。ちゃんと聞いているのかいないのか分からない。


「幸三郎ちゃんの事件のことですよ。貴方がご友人に話していたことをちょっと小耳に挟んだので、ぜひお伺いしたいと思って」


大衆食堂ではなぜか一度も、水を向けなかったのに突然、切り出す。不思議に思っていたけれど、これが小嶋のやり方なのかもしれない。この瞬間までは、赤城という男を見極めようとしていたのだと察しがついた。

真実を語る人間なのか、それともほらを吹くようなあなどれない男なのか。

それは恐らく、赤城のほうも同じなのだろう。

時々、射貫くような視線を向けられてどうにも居心地が悪い。

「そんなに険しい顔をしていたら眉間に皺がついちゃいますよ。せっかくのいい男が台無しだ」

透明度の高い吸い物に口をつけた男がふよふよと奇妙に笑う。その合間に向けられた視線に、心臓がどきりと鳴った。

小嶋は確かに俺のことを、幸三郎の兄だと紹介してくれたが、それを証明するすべはない。幸三郎と一緒に映っている写真を見せたところで、そこに映っているのが本当に幸三郎で、また俺なのかどうかは赤城には分からないだろう。苗字が同じだと言ってもそんな人間はごまんといる。

「食べてからでいい?」

やがて、やれやれと肩を竦めた赤城が首を振った。

「食べながらにしてほしいですけど?」

小嶋も引かない。

互いの顔をじっと見つめたまま微動だにしなかった二人だが、やがて白旗を上げたのは赤城のほうだった。

ふうっと大仰に息をつくと、天井を仰ぐ。

「二つのことを同時にできないのよ。そんなに器用な人間なら、今頃大企業の部長だわ」

「……」冗談か何なのか分からないことを独りごちる男に、小嶋は片方の眉を上げただけで返事もしなかった。

「突っ込みがほしいところだけど、まぁいいか」

音がしないように、そっと箸を置いた赤城が苦笑して視線を戻す。

何が冗談で、どこに突っ込めばいいか分からなかったので首を傾げていると「気にしなくていいよ」と小嶋が俺の肩を軽く叩いた。


そのとき、一呼吸分だけ、室内に沈黙が落ちる。


「ーーーーーあの頃の俺はさぁ、あ、まぁ今もだけど。何やってもうまくいかなくて自暴自棄になってたんだよね。……金もないし。確か、その前々日だったかな? 家も追い出されて。ほーんと、コンチキショーッて思いながら生きてたのよ」


坊ちゃんにはまだ分からないだろうけどさ。人生には何度か、そういう時期がくるんだよ。ずっと、ずーっと安定した人生を歩ける人間なんていやしない。いるとすれば、そうだな……。そいつの心はもう既に、死んでるってことだ。


ぼんやりとした眼差しが宙を仰ぐのを見た。赤城がこの瞬間、「誰か」や「何か」と思い出しているのは明白だった。

ーーーーー心が死ねば、人生は安定するのだろうか。

ふと、そんな考えが過る。

誰にも、何にも、心を動かされない人生。二十年も生きていないのに、それもいいかもしれないと思えた。

「……赤城さん。話がズレてます」

「お? そうだったかな? はは、いかんよね。年寄りはどうでもいいことを話すのが好きなんだよ」

「はいはい」

で? といっそ冷たいくらいに感じる声音で小嶋が促す。あんたせっかちだねぇなんて言いながら、ぎょろりとした目をこちらに向けた赤城。

「……神社の鳥居に続く石段の下にベンチがあっただろ?」

「ーーーーーベンチ?」

思わず、呟く。そんなものあっただろうか。

「ぼろっぼろの古いベンチ。どうせベンチ置くなら、階段の途中にすればいいのにさぁ。ちょっと休憩するのにちょうどいいだろ? でも、そのベンチは階段の下にあった。修繕されることもない、忘れ去られたようなベンチでさ」と、一気に喋ったところで「ああ、そうか」と合点がいったかのように頷いた。

「階段の方から見えないんだ。だから皆、気づいていなかったのかな。そこにベンチがあるって」


「……そこで寝泊りしてたのよ」

たまーにだけど。

たまにだよ? と、もう一度言って「まぁあの日は、隣街に所用があっていなかったんだけど」

「いないのかよ」と、すかさず言葉を挟んだのはやはり小嶋だ。

「いや、厳密にはいたんだけど」「……どっちですか?」テンポよく応酬を繰り返す二人はもはや旧知の仲のように見える。


「腕時計なんてしゃれたものつけてないし、あの頃もつけてなかったから、明確な時間は分からないけど。だからあくまでも体感になる。多分俺は、幸三郎ちゃんが死んだとき、あのベンチに座ってたと思うんだ」


ほんの数分さ。と付け加えるように言ってから、吸い物の椀を手に取り、ずずっと啜った。

「……たった数分座ってただけなのに、なぜ、それが幸三郎ちゃんが亡くなったときだと分かるんですか? 事件が起こったとき、そこに座っていたと?」

若干、身を乗り出すようにして問うた小嶋の眉間に皺が寄っている。

赤城の言葉を疑っているというよりも、ただただ不思議なのだ。

「幸三郎ちゃんが亡くなったと思われる時刻は、はっきりとは断定できていません。それは、あの子が水の中に沈んでいたから」

なのに、なぜ? なぜ分かるんです? と、問い詰めるような口調になった小嶋の顔をちらっと見上げた男は、大仰に息をついた。


「―――――まぁまぁ落ち着いてくれよ、旦那。俺だって、自分が見たものが何なのかよく分かってないんだからさ」

「……何ですって?」

椀の中は既に空っぽだというのに、赤城の手はそれを離さず、ゆらゆらと揺らした。漆が塗られているので、内側がてらてらと光っている。そこに、彼の顔が映り込んでいた。


「ベンチに座ってぼうっとしてたら、足元に小さな影が落ちた。陽はそんなに高くなかったと思う。でも、夕方でもない。昼下がりというやつかな? ほら、なんせ時計を持ってないから。何時かははっきりと分からんよ。でも、影の色は濃かった。日差しは弱くなかったと思う」

あまりにも曖昧な記憶だ。アルバムを一枚一枚めくっているが、探している写真が見つからない。そんな感じがした。

「顔を上げたら、そこに男の子がいた。じぃっとこちらを見つめてるんだ」

まん丸の小さな顔は、頬が赤かった。

「何の前振りもなく、いきなり現れたから、思わず声を上げちゃってさ。脅かすなよ!って」

そしたらその子、楽しそうににっこり笑ってさ。

「あまりに人懐っこく笑うから、母ちゃんどうした?って話しかけたんだよ。そしたら、くるっと背中向けて走りだしちゃって」

思わず、慌てて追いかけた。

「というより、座ってたからけ(つまづ)いちゃって。態勢を立て直してる間に、いなくなってた」

しかし。

あそこは一本道だ。見失うなんてこと、あるだろうか。

「変だよな? たった一瞬で人間がいなくなるなんてさぁ。だから、周辺を歩き回って捜してみたけど、やっぱり誰もいなかったんだよな」

遠くのほうに背中でも見えてれば、ただ足の速い子だなって笑い話で済んだけど。

影も形もなかった。

「……いくつくらいですか?」

小嶋が深刻な顔で話を遮る。

「いくつ?」記憶を辿りながら昔話をしている男には、何のことかわからなかったようだ。

「年齢です。どのくらい小さな子だったんです?」

こくりと、喉が鳴った。それが、誰のものなのか咄嗟には判断できない。のしかかるような沈黙が重力を持ってまとわりつく。

「ーーーーー三、四歳かなぁ。俺には子供がいないからなぁ。ちっちゃい子の年齢なんてわかんないな」

ぽりぽりと頭を搔きながら天井を仰いだ後、こちらを見やる。

「坊ちゃんは二十歳くらい?」

指を差されて寸の間、言葉を失った。代わりに返事をしたのは隣の男だ。

「まだ高校生ですよ」

「あ、そうなんだ。やっぱり他人の年齢なんて分からんよね」

気を取り直したように箸を持つ赤城を見守る。


「狐にでも化かされたんだと思った。なんか、あのときチリチリ鈴の音がしたような気がしたし」

ありゃ、もしかしてお狐さまだったんだって。体たらくな俺を笑いにきたんだろうってな。

そうして、忘れることにした。なのに。

「街をふらふら歩いているときに電気屋さんのテレビでやってたワイドショーがたまたま目に入って。いつもなら素通りするところなんだけど、見覚えのある神社が映るから、何事かと思って」


そしたら、ちっちゃい子が殺されちゃったってやってたから。


事も無げに告げられた言葉に、深く傷つけられた気がして。そっと息を呑んだ。

あまりにもさり気なく、幸三郎の死が語られる。

『ちっちゃい子が殺された』

そうなのだ。俺の人生にとってはあれほどに凄惨な出来事だったというのに。他人からすれば、こんなにも短い言葉で表現できる、こんなにもあっさりとした出来事でしかない。


「それで思い出した。あのときに見た子に似てるって。だとすれば、あれはもしかしたら……お狐様なんかじゃなくて……もしかして、」

「もしかして?」

「……幽霊なのかなって」


身震いする素振りで箸を持ったまま、自分の両腕を擦る真似をした真正面の男に、ただただ面食らう。


「死んだ子が、化けて出てきたんだよ」だってそうじゃなきゃ説明がつかない。

そうだろう? と問われて、俺も小嶋も黙り込んだ。

「時間が経てば経つほどにそう思えてくる。だからまぁ、これまでの間も、結構この話したんだけどね。色んな人にさ。でも、信じてくれなくて」

あんただけ、と箸で小嶋を差した赤城はふふん、となぜか得意げに笑った。

「あんただけが俺の話に食いついたってわけ」


「ーーーーー僕は記者ですからね。色んなところから、色んな人が、色んな話を持ってくるんですよ」


それはいいとして。他に何か覚えていることはないんですか? と、界隈ではひどく有名な記者が問う。

この『小嶋』という人が、いつくかの未解決事件を解決に導いた敏腕記者だということを知ったのは、つい最近のことだ。だからこそ、話を聞いてみたかった。彼なら真相にたどり着くための手がかりを握っているだろうと踏んで。

「覚えていること? うーん。何かあったかなぁ」

右に左に首を傾げる赤城は、そっと箸を置き、腕を組んだ。ぎゅっと眉根を寄せて、ううむと唸る。

そのとき「失礼します」と、廊下で膝をついた仲居さんが引き戸を開けた。

「お料理お持ちいたしました」

着物にたすき掛けをしたその人が大きな盆を持って、室内に入るのを見守る。動きにくそうに見えるのに、実にそつのない身のこなしで、空いた皿を片付け、茶わん蒸しや酢の物を並べる。あの細腕で力仕事をこなすのは大変だろうと、余計なことを考えた。

そうでもしていないと、息が切れる。

新しいお茶をお持ちしましょうか? と問われたのに首を振ると、小嶋や赤城にも同じことを訊いて「失礼いたします」と部屋を出ていく。意味もなく、その姿を見送った。


「あ、そうだ……!」


さほど大きな声ではなかったというのに、ひゅっと喉がひきつる。

赤城が、はっと目を見開いたかのような顔をしてこちらを見た後、小嶋に告げる。


「黄色だった!」

「……きいろ?」

「そうそう。そうだ、そうだ。黄色だった」


あの子は黄色い靴を履いてたんだよ!


走り去るその姿が(まなこ)に蘇る。アスファルトの地面に踏み出した小さな足。反射材でもついているのか、靴の底がピカリと光ったのを見た。

「幽霊なのに足があるんですか?」

「……あ、そういやそうか……」

気の抜けたような男のしわがれた声を聞きながら、脳髄を突き刺すような痛みを覚えて、両手で頭を抱える。視界の隅に、転がった箸が見えた。自分が落としたのだと気づくのに数秒。

目を閉じたいのに、できない。眼球が乾いて、瞼が張り付く。


『よしくん!』


聞こえたのは、幸三郎の声じゃない。














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