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何が、違うの?
あまりに違和感なく会話に入ってきたから、寸の間、その場に自分と母以外の人間がいることに気づかなかった。ばっと音がするかと思うほどの俊敏さで振り返った母の視線を追えば、そこに弟の征二郎が立っている。
ほとんど反射で、幸三郎の靴が入ったビニール袋を手に取り、抱きしめた。
「……何? 取ったりしないよ。変な兄貴~」
かさりと音をたてた袋に視線を送りながら、やれやれと首を振る。眉を顰めつつも、その顔は笑っていた。袋の中にあるのは、デザートか何かだと勘違いしているのかもしれない。
「っていうか、喧嘩? 珍しいね」
一体、どこから聞いていたのか、軽く首を傾げながらダイニングを横切った弟が、テレビの前に置かれている大きなソファにどかりと座り込んだ。
「あー、疲れた」なんて言いながら、学生鞄を放るように床に置く。
いかにも重そうな鞄が、花柄の絨毯で跳ね返り、どんと音をたてた。びくりと肩を震わせた母が「お、おかえりなさい」と取り繕うように笑う。
頬にはまだ涙の筋が残っていたけれど、もう泣いてはいない。
「ただいま」
こちらに背を向ける格好でテレビのリモコンを取った征二郎が、電源ボタンを押す。と、同時に響く複数人の声。どきり、と心臓が音をたてたのは自分だけではないだろう。
テレビ画面の向こう側で、名前もよく分からない芸能人が大げさに声をあげて笑っていた。
「……何か、ウケる」とおもむろに噴出したのは弟だ。
その双眸が、食い入るようにテレビを見つめている。
「面白いよね」
時計が秒針を刻むのに合わせて、ゆっくりと血の気が引いていくようだった。
一体、いつから。どこからどこまで聞いていたのか。
「何か、面白いよ」
張りつめた空気がまさしく、無数の糸となって部屋中に張り巡らされている。絡みついた糸が皮膚に食い込んで、痛い。血が流れている。そんな気がした。
「……テレビ? そんなに面白いかしら」
ごくごく当たり前を装った母が、普段と何一つ変わりない声音で答える。しかし、
「違う違う。芳くんと母さん」
「……っ、」
咄嗟には言葉が出ずに、ただ息を呑む。
「な、何が?」
あまりにも白々しく聞こえる母の声も、征二郎には違って聞こえるのだろうか。ちらりとこちらに視線を向けた弟は、「どうしたの二人とも。喧嘩なんて、初めてなんじゃない? 二人がやりあってるの初めて見たよ」と、からかうように言った。
―――――ははははっ!
一層大きく響く、他人の笑い声が耳障りだ。「おっと」と、慌てた様子の征二郎がテレビの音量を下げる。
それでも聞こえてくる声に、耳を塞ぎたくなった。
絶対にそんなはずはないのに、嘲笑われているようで。
「ひひっ、最近この人たちよくテレビに出てるよね~」
公共の電波に載って、半ば強制的に突きつけられるエンタメはある種、拷問のようだった。
モニター一枚隔てただけの世界なのに。現実世界などお構いなしに、容赦なく突き刺すような煌めきを提供してくる。見たくない。目を閉じていたいのに、できない。
そんなことを感じたのも、テレビ番組が煩わしいと思えたのも、初めてだった。
「でも良かった」と、テレビを眺めたままソファの背もたれに上半身を預ける征二郎。
「……何が?」
あくまでも平静を装って、いつも通り何事もなかったかのように返事をする。
「だってさ、……親子喧嘩の一つもないなんて。逆に変じゃない? 仲がいいというのは違う気がする」
ずーっと、ホームドラマでも見てるみたいな違和感があったんだよね。と、至極軽い口調で、征二郎は自分の家族の印象を語った。
何事かを深く考えていたわけではないだろう。ただ、母親と自分の兄が口論していたらしい様子を見て、感じたことをそのまま口に出しただけだ。そうと知っているのに、額に汗が浮く。
その場に突っ立ったまま微動だにしない母を見やれば、その人は能面でも張り付けたかのような表情で、弟の背中に視線を送っていた。
血管が浮くくらいに真っ白になった横顔。
蒼褪めた唇が、それでも笑みを作ろうと必死に藻掻いている。
ところで晩御飯は~? と呑気な口調で問う次男に「はいはい、ちょっと待って」と声色だけは明るい母。
真横に立って、息遣いすらはっきりと聞こえる位置にいる息子からの視線に気づいているだろうに。こちらを見ることはなく、振り切るように動き出す。
いつもは軽快に床を打つ、スリッパを引きずる音が、どこか鈍い。
訊きたいことはまだたくさんあったけれど、征二郎の前で母を詰問するようなことはできなかった。
幸三郎の靴を、間違っても落とさないように強く抱きしめて「……俺、宿題してくる」と部屋から出る。
母にも征二郎にも聞こえなかったのだろう。返事はなかった。
しん、と静まり返った廊下。冷たい床の感触を踏みしめるように歩く。身体が硬直しているようで、そもそもどんな風に歩けば前に進めるのか、それすら分からない。どこまでも聞こえてくるテレビの笑い声が、追いかけてくる気がした。
明日から、どんな顔をして生きていけばいいのだろう。これまで自分は、どんな顔をしていたのだろう。
幼かった頃、満に振り上げた拳。取り消すことのできない、あの刹那。
頬を押さえてこちらを振り仰ぐ、小さな白い顔。叫び声を形作った唇が、それでも悲鳴を上げることがなかったのは、……呑み込んだからだ。
同級生に殴られる恐怖を、殺人犯の娘と罵られる苦悩を、針の筵に座らされる悲痛を、全て呑み込んでただ只管に耐え忍んだからだ。
――――――どうして、あんなことができたのだろう。
俺は満に、一体、何をしたのだろう。
******
自室のベッド下の収納ケースを引っ張りだす。とりあえず冬物の衣類の間に隠してしまおうと、ビニール袋に入れたままの幸三郎の靴を丁寧に押し込む。けれど、やっぱり何だか心許なくて、再び取り出した。
ベッドの上にシャツを広げて、そこに幸三郎の靴を置き直し、ビニールの端が出ないように包んでから収納に仕舞う。
母のセーターに包まれていたほうが、良かっただろうけど。
「……ごめんな、こんな所で」
床下収納とどこか違うのかと自嘲めいた笑みが浮かぶ。指が震えてどうしようもない。どちらにしろ、この小さな靴ごと幸三郎の存在を隠すことに変わりはなかった。
ふたを閉めて、収納ケースごと一度だけ抱きしめる。頬に当たるプラスチックの感触が、失ったものの大きさを突き付けてくるようで、ただ痛い。
弟が池に沈んでいたと聞かされてからずっと、何年もの間、さんざん泣いた。そのはずなのに、涙が枯れることはない。ぎゅっと唇を引き結んで堪えようとしたけれど、水滴が落ちた。
漏れそうになる声を、喉の奥で磨り潰す。
吐き出されることなく、心臓の奥で砕けた嗚咽が、胃の底に消えた。
深く息を吐いて収納ケースを元の位置に戻してからベッドの上に寝転んだ。
目元を手で覆えば、そこにあるのは暗闇だけだ。それなのに、瞼を通して入ってくる淡い光が、やけに眩しい。光を避けるように、右に、左にと転がって考える。
さっき、満と別れたとき「少し待ってほしい」と言った。その言葉に嘘はない。だけど、時間を置いたからといって、彼女に何と説明すればいいか分からない。
何となく、ポケットからスマホを取り出して画面を開いた。
満の電話番号は知っている。声を、聞きたい。でも、――――――電話なんてできない。
当たり前だ。俺は、彼女に伝えるべき言葉を持っていない。
「みち、」
怖い。どうしようもなく。
と、そのとき。
「―――――芳くん、ちょっといい?」
扉の向こうから声がかかった。征二郎だ。
「……あ、うん。何?」
飛び起きてベッドに座った途端、扉が開く。まだ制服姿のままの弟が、遠慮なく部屋に入ってきた。
「おー、すげぇ整理整頓される。さっすがぁ」
室内を見まわしながら、軽い口調でそんなことを言うとベッドに乗り上げて、その向こうの窓を開く。ひんやりとした冷たい風が吹き抜けると共にカーテンが翻った。
「でっかい月。呑まれそう」
笑い声の混じった感嘆に、征二郎の視線を追う。雲のない闇夜にぽっかりと浮かぶ満月がこちらを見下ろしている。幼い頃は、あそこに動物が住んでいると本気でそう思っていた。
きっと征二郎もそうだし、幸三郎もそうだった。教えたのは、母だ。
『あそこには、うさぎさんがいるのよ』
外気と共に入ってきた近隣の生活音が、なぜか切ない。
「何? 征二郎。何か用?」
「ううん、別に。でも、……芳くん、元気ない?」
「……、」
咄嗟には言葉が出てこなかった。それでも動揺を悟られないように静かに息を呑んだ。征二郎がこちらを見ていなくて良かった。
「母さんと何かあったんでしょ。まぁ、詮索はしないけど」
窓を閉めて、隙間のないようにきっちりとカーテンを引いた征二郎が、向き合うようにベッドに座り直す。
あぐらをかいてその上に肘をつき、頬杖をついて俺の顔を見た。
「ほんと、母さんそっくりの顔だね」
目も鼻も、唇も、よーく似てると目尻を緩める。
「そうか?」
「うん。でも、それだけじゃないな。父さんにもよく似てる」
にこにこと笑う征二郎。その表情こそ母に似ていた。
俺が何を思ったのか察したように一つ頷いて、
「分かる。おれも母さんに似てるよね。でも、父さんには似てないかな。―――――幸三郎は? 幸ちゃんはどうだったかな」思い出そうとしているのか伏し目がちになったその頬に、睫毛の影が落ちた。
「……ずっと、本当はずっと言いたかったんだけど。おれはさ、幸三郎のことよく覚えてないんだよ」
事件が起こったとき、あまりに小さかったからね。と、どこかを見ているような、あるいはどこも見ていないような遠い目をした。
そもそも周囲の大人たちは、幸三郎のことを口にするのを躊躇う。俺たち家族を気遣ってのことではあるが、母の前では特にそうだった。
だから当然、思い出話に花が咲くことはない。あのときはこうだった、ああだったとあの子のことを懐かしみながら話すことを良しとしない。
犯罪被害者である幼子について、笑って話すことが悪であるかのように。
一度、夕飯を食べているときに、征二郎が『幸ちゃんはりんごジュースが好きだったよね』と目を細めた。
おれはあんまり得意じゃないなぁと、何気なく口にした言葉だった。
あの瞬間の母の顔を、どうしたって表現することは難しい。
ぽかんと空いた唇が、言葉を発しようとして失敗する。明らかな絶句。咄嗟に、声を出すこともできなかったのだと理解したのは、それから随分、後のことだった。
度を超えた悲しみが、空気を介してじわりと広がる。
間違いを犯したと悟ったらしい弟が箸を置き「ごめん」と頭を下げた。
何に対する謝罪なのか。
だけど母は「いいのよ」と返した。
利口な征二郎は気づいたはずだ。幸三郎のことを軽々しく話題に出してはいけないと。
なのに、この家にいたら、あちこちで弟の残像を見る。幸三郎はここに住んだこともないというのに。
最たるものは仏壇で。そして、幸三郎のための部屋だ。他にもたくさんあって、それは数えきれない。
家族の写真が貼られたコルクボードの半分以上は、幸三郎の写真で埋められている。
食器棚には今も、幼児用のプラスチックのコップが並んでいた。
覚えていることの少ない小さな弟。知っているのは、その子が誰かに殺害されたことだけ。断片的な出来事は記憶に残るものの、誰かに説明できるほどには覚えていない。―――――と、征二郎はそんなことを話し出す。
「お葬式のことはなぜか思い出すけど。花輪が大きくて見上げたこととか。小さな棺と、たくさんのお花。でもそれだって、もしかしたらテレビで見たりしたものと現実を混同してるのかもしれない。あのときは大変だったな、くらいで。みーんな、悲しそうに泣いていたことすら、もしかしたらあれは夢だったのかもって思うことあるよ」
「……うん、」それは何となく分かる気がした。既に小学生だった自分でさえもそうだ。
あまりにも惨い事件。その一分、一秒を記憶に刻んだつもりだったけれど、本当は忘れていることや、知らないことのほうが多いはずだ。
「それなのに、この家は幸三郎を中心に回ってるよね」
「……え、」
「何かを選ぶときはいっつも幸ちゃんのことを考えなきゃいけない。この家だってそうじゃん。母さんは幸三郎の部屋をどうするかいの一番に考えた。その他の部屋は後回しにして設計したんだよ」
「そう、かな?」
深く頷いた征二郎が、唐突に俺の顔を指差す。
「何?」
「品行方正。頭も良くて愛想も良くて、性格もいい。反抗期なんてないし、これからもこないって断言できる」
「は?」
「それが宇都宮芳郎です」
疲れるでしょ、と問われて頭の中が真っ白になった。
だって、ずっと意識してきたからだ。正しい道をまっすぐに、逸れることなく転ぶことなく只管に前を見て歩くと。そうじゃなきゃいけない。そうしなければ迷惑がかかる。悲しませたくない。傷つけたくない。笑っていてほしい。
―――――お袋には、
「芳くんはさ、もっと自由でいていいんじゃない? 幸ちゃんは弟だよ。大切な弟。だけどさ、ただの弟だ。おれと同じ。死んじゃったけど、でも、おれと同じ、ただの弟」
だから、気にしないでとは言わないけど。気にしすぎないで。
な、お兄ちゃん!と、ふざけた物言いで、突き合わせていた膝を軽く小突かれる。
「そろそろ晩飯でしょ。一緒に降りようよ」と誘われて、のろのろと部屋を出た。
母と再び顔を合わせるのは気まずかったけれど、征二郎の気遣いを無碍にするわけにはいかない。
そうして俺は演じるのだ。優しい息子を。家族のために。
遠くで、いつか父親になるだろう人の「ただいま」という声が響いた。
「あ、おじさんだ。今日は泊まっていくのかなぁ」
声が弾んでいるから、征二郎が母の恋人を気に入っているのがよく分かる。初めて顔を合わせたとき、弟は何の戸惑いも屈託もなく言った。
『母さんが幸せになるなら、おれは受け入れるよ』
その日の夜遅く。
なかなか寝付けずに、意味もなくスマホの電源を入れたり切ったりを繰り返しているいると、小嶋からDMが入った。
―――――突然、ごめんね。今日は遠い所をわざわざありがとう。
いいえ、こちらこそありがとうございます。とメッセージを打ち返しているところで、
―――――君に伝えたいことがある。よければ電話番号を教えてもらえないだろうか。直接、話したほうがいいと思うから。
と続く。
飛び起きて、電話番号を入力した。その指が震える。
彼からの連絡が、自分にとって良いものではないことくらい分かっていた。
訊きたいことは訊けた。だからもういい。そう、思うのに。
挨拶もそこそこに小嶋が静かに問うた。
「もう夜も遅いから、本題に入るね。幸三郎ちゃんの事件について、ちょっと変なことを言っている男がいて。話を聞いてみないか?」
耳元で心臓が音をたてている。そのせいで、耳鳴りが響いて小嶋の声がよく聞こえない。
他にどんな話をしたのかも覚えていないのに、
「会います」と返事をした自分の声だけは、はっきりと覚えている。
もしもこのとき。
幸三郎がこの場に居たなら、何て言っただろう。
小学生のあの子はきっと聡明なはずで。頭が良かったはずだ。口が達者で。きっと、色んなことを考えることができたに違いない。
止めて、くれただろうか。
『にいに、』
幸三郎の声がする。俺を呼ぶ声だ。あの子の重みを、両手が覚えている。
ソファに座り、幸三郎を膝に乗せて絵本を読んだ。顎先を掠める、幼児の柔らかい髪。母の移り香がくすぐったい。
弟を囲うようにして絵本を開けば、小さな指が挿絵の輪郭をなぞる。
淡い色彩で描きだされた、ずんぐりとした妖精だった。小さな鼻にどんぐりのような黒い双眸。花から生まれたその妖精は、自分のことを美しいと思っている。
なぜなら、同じ花から産まれた他の妖精がそうだったから。自分も、他の妖精と同じく可愛く華やかな姿をしていると思い込んでいるのだ。
皆とは違う容姿で産まれたのに、そのことに気づいていない。
物語の中盤まで、自分は他の妖精と違うのだと気づかない。
まぬけな妖精、幸せな妖精、だけど、とても哀れな妖精だ。
幸三郎はその妖精を、気に入っていた。俺の顔を見上げて、ふにゃりと笑ったのを思い出す。




