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は、はと上がる息を整えるように胸元のシャツを握りしめる。

今朝、俺は何を考えていただろうか。―――――なぜか、そんなことを思う。

かつて満の父親のことを悪し様に書き立てた週刊誌。その記者に会えば、事件を解決するような何かを掴めると思った。だって、あの記事に並んでいた写真は、我が家に仕舞われていたアルバムに収められていたものの一部で。つまり、満の父親は、隠し持っていたものではない。

写真は奪われたり隠し撮りされたものではなく「分け合ったもの」と考えたほうが自然だと思った。

……だったら。


だったら?


満の父親は周囲が噂していたような変質者などではなく。ましてや小児性愛者でもない。となると、満の父親が幸三郎を害した人間だとしても、犯行の動機が証明できない。

根底が全て、覆される。


震えの止まらない手が、小さな靴を握りしめる。幸三郎の小さな小さな足にこの靴を履かせた日のことを思い出した。自分で履こうとして左の靴に右足を突っ込んでいたから「逆だよ」と教えたけれど意味が分からなかったようで。だから、笑いながら履かせ直した。小さな足に、小さな靴を。

可愛い、俺の弟。

胸が苦しい。生きていたなら小学生だ。……そんな風に、ありもしない現実を想像して、夢に見る。毎年、毎年、年を取らないあの子の年齢を数えて。生きていたらこうだった、ああだったと空しい絵空事にふけっては勝手に傷を負う。

きっと、この先もそうだろう。いや、そうなると確信している。

その内、記憶をなぞるだけではあの子の顔を思い出すことは難しくなるだろうに、それでも思い描くのだ。幸三郎が大きくなった姿を。

そして、やっぱりそんなはずはないと、あの子は大きくなったりはしないと、そもそも最初から存在していないはずの未来を否定して泣いてしまう己の姿が見える。

一人、ベッドで。誰にも聞かれないように、声を殺して。


冷たいシーツを指で撫でながら、かつては腕の中にあったはずの温もりを思い起こす。

幸三郎はずっとずっと、小さなまま。


「……いやぁね、そんな怖い顔をして。どうしたの?」


ダイニングのテーブルの上で両手を握りしめたまま、どのくらい座っていたか分からない。

誰かが俺の姿を見ていたなら、神に祈りを捧げているようにも映っただろう。実際、そうだった。

祈っていた。ずっと。何かの間違いでありますようにと。


突然、周囲が明るくなって視界が白く染まる。母が電気を点けたのだ。

そのときになって初めて、今まで電気も点けずにいたことに気づく。椅子に座ったときすでに陽は落ちていたはずなのに、それすら気にならなかった。それほど、動転していたようだ。

どさり、と買い物袋をテーブルの上に置いた母の顔を見上げる。

優しく微笑を浮かべたその人はそっと首を傾げて「……何かあった?」と問うてきた。続けて「お友達?」と訊くその顔はまさか、俺が今日、幸三郎の事件を調べに週刊誌の記者の下へ行ったとは思ってもいないだろうものだ。

咄嗟に、どんな答えも返せず唇が何度か空気を食む。

苦しい。

一秒、二秒と時間が進むごとに苦しくなる。


「言いたくないならいいのよ? 無理には聞かないわ。……今日の晩御飯はカレーでいいかしら? 昨日作っておいたのよ。あと、今からサラダを作るけど時間はかからないから待っていてくれる?」


買い物袋から卵やトマト、キャベツ、豚肉など取り出しながら母が言う。手が空いてるなら冷蔵庫に入れてくれる?と。いつもと変わらないやり取りで、いつもなら返事をすることもなくそれらを手際よく片付けていくはずなのに。

立ち上がることができない。


「芳郎?」


さすがに何か変だと察したらしい母が顔を覗き込んでくる。

長いまつげの色素の薄い瞳。幸三郎もこんな目をしていた。この母が、あの子に何かするわけない。


「―――――見つけたんだ」


絞り出した声は面白いほどに震えていた。聞こえなかったのか「え?」と耳を近づけてくる母に「見つけた」と繰り返した。膝の上の黒いビニール袋を見せる。そして、そのままテーブルの上に置いた。

ビニールに付着していた砂がさらさらと落ちる。あの日を思い出せ、とでも言っているみたいに。

見る間に血の気を失った母が一度距離を取った後、我に返ったのか慌てた動作で袋を取り上げようとした。勢いが良すぎたのか、その爪先が頬を掠める。

椅子の脚が磨き抜かれた床を滑り、醜い音をたてた。上半身をのけぞるようにして、中に入った靴ごとビニール袋を胸のあたりで握りしめる。


今まさに、幸三郎を胸に抱いているかのように。


この子を守れるのは、俺だけだ。


「……どういう、こと、」


呟いたのは母だったか、あるいは俺自身だったか。

一つ息を吸えば、途端に頭の中の温度が下がって、さっきまで暴れていた心臓が嘘のように静かになった。


「……今日、幸三郎が死んだとき『こいつが怪しい』って満のお父さんのことを書き立てた記者に会ってきた。……覚えてる? 週刊東太陽だよ」

「東、太陽」

俺の言葉をなぞるように繰り返した母が、椅子を引いて倒れこむように腰を下ろす。

「覚えているよね? だって忘れるわけない。お袋は、わざわざ出版社まで出向いたんだから」

被疑者を取り調べる警察の人間は、一体どういう気持ちなのだろう。他人の罪を暴くとき、それが良いものでも悪いものでも、暴く側の人間は高揚するのだと聞く。だけど、到底そんな気分にはなれない。


「お袋がしたこと、もう知ってるんだ」


血の気を失った母の顔はまるで、幽鬼のようだった。見たこともないのに、そう思う。

「満の……、おじさんがまるで幸三郎に何かしたみたいに言ったんだろう? わざわざ写真まで用意して。幸三郎が変態に襲われたみたいに証言した。怪しい男が幸三郎ちゃんの隣に住んでるって、まるで他人みたいな顔をして話したんだろう?」

ねぇ、それって、どういうこと?

「どうしてそんなことしたの?」


頭の中に、小嶋の声が蘇る。

『……何で、あんなことをしたのかな?』


「教えてよ、お袋」

「……、」


何かを言おうとして再び唇を固く閉ざした母親は、そのまま俯いた。その視線の先に彼女自身の、握りしめた指がある。小嶋が言っていたインタビューでそうしていたみたいに、両手の指を重ねて何度も組み替えた。

その人差し指によく見覚えのあるほくろ。

親のほくろの位置なんて顔にでもなければ、普通、気にも留めないだろう。

そうじゃないのは、小さいけれど自分の指にも同じ位置にほくろがあるからで。

幼い頃はそれが自慢だった。母親と同じ位置にほくろがあることが、嬉しかったのだ。


『お母さんとお揃いなんだ!』


幼い頃、満に話したことがある。彼女はそのとき笑っていた。

『ママと一緒なんだ!いいね!』と、羨ましそうに。

子供にとって母親は、世界のすべてだから。


「お袋が幸三郎に何かした?」

そんなこと思ってもいなかったけれど、そうでも言わなければ母の気持ちを動かすことができないような気がした。思惑通り、はっと虚を突かれたようにその人が顔を上げる。

さっきよりももっともっと青い顔をして。

「……馬鹿なこと言わないで……、」わなわなと顎を震わせて言った母は恐れるようにそう口にした後、

「馬鹿なことを言わないでちょうだい!」

かっとなったのか、この母にしては珍しく大声を上げた。そして、縋るような眼差しで、


「あの子を愛しているわ。ずっとずっと愛してる。手を上げたこともない。……知っているでしょう?」


大きな瞳から涙が零れ落ちる。その姿は、愛する我が子を亡くした哀れな母親にしか見えない。

間違っても、罪のない人間を殺人犯に仕立て上げるような狡猾な人物には思えなかった。

「じゃぁ、どうして?」重ねて問えば、

「―――――今更、……今更そんなことを暴いて何になるの? だって、死んだじゃない。犯人は死んだ。幸ちゃんを殺した犯人は死んだのよ!」

声を潜めたような、あるいは怒鳴っているような、空気を含んだ奇妙な声音でそんなことを主張した母は両手で顔を抑えて、泣き出した。

肩を震わせるその姿はどこまでも悲しい。だからこそ、意味が分からない。し、理解もできない。


「今更? そうだね、俺たちにとってはそうかもしれない。……ミリ単位だけど、少しずつ前を向こうとして歩いてきたから。いつか幸三郎のことも思い出にできるって、そうなる日がくればいいって……。でも、違うだろ? あのとき犯人とされた満の親父さんが無実なら……、冤罪なら、他に犯人がいるってことだろ?」


そして、そうであるなら。結局、事件は何も解決していない。


「誰かに罪をきせることに、罪悪感を、抱かなかった……?」


泣いてしまいそうだった。けど、歯を食いしばってぐっと堪える。

「―――――やめて!」ばんっと、テーブルに手をついて立ち上がった母が俺を見据える。

テーブルの上から逃げるように零れたトマトが床に落ちて、小さな音をたてた。潰れてしまっただろうか。

拾いあげることもできずにただ、胸に収めた幸三郎の靴を一層強く抱きしめた。


「お袋はいつもそうだよね? 自分のことばかり。悲しんでいるのは、苦しんでいるのは自分が一番だって思ってる」

実際、そうなのかもしれない。自分は母親じゃない。だから、お腹を痛めて生んだ子が他人に害される痛みを知らない。だけど、

「俺だって悲しんでるんだよ? 弟が死んだ。誰かに、殺された」

葬式のとき、顔をハンカチで押さえた親戚がこぞって言った。


―――――お母さんを支えてあげなきゃね。

―――――しっかりしなきゃ

―――――早く大人になって、皆を守ってあげて


―――――男の子だもん。大丈夫よね?


まだ八歳だった子供に母親を支えろと言った大人たち。その横で、父には「奥さんを支えてあげなきゃね」と言っていた。深く傷つき、苦しんで悲しみに暮れているのは父だって同じだったはずなのに。

みんなみんな、母だけに同情を寄せた。

それでも父は「はい」と頷いた。私がいるから大丈夫です。今度こそ家族をしっかりと守ります、と。

だから俺も涙を堪えて『僕が、お母さんを守る』と答えたのだ。自分でも母を支えるべきだと思ったから。

それに、幸三郎の死の責任は自分にもある。だから、誰かに甘えることなどあってはならない。それは、許されない。

そう、思っていた。


「苦しかった。ずっと、ずっとだよ。でも、言わなかったでしょ? 俺、言った? 助けてって。お袋に一度でも助けを求めたりした? 悲しくてしょうがないから助けてほしいって、」


言わなかったのは幸三郎の死を乗り越えたからではない。

苦しんでいることを、悟られたくなかった。一度口にしてしまえば、止められなくなる。

悲しんでいる母親の枷になりたくなかったし、なってはならないと自分に言い聞かせながら生きてきた。


「―――――よし、くん?」

「幸三郎が死んだことは、……誰かに殺されたことは、お袋だけの苦しみでも、お袋だけの悲しみでもない。家族の問題だよ。俺も親父も、征二郎だって悲しんでるのに……っ、泣いてるのに……、」

「芳くん……、」

「自分だけの問題みたいに考えるのは止めてよ!」

心臓が絞られるみたいに、ぎゅっと音をたてて痛む。

「この事件は、全然、何一つ解決してない! だって、お袋がそうしたから! あんたが! 隠したんだ、真実を!!」

きつく握りしめた小さな靴がみしりと音をたてる。『いたい!』とつたない声を聞いた気がして慌てて柔らかく抱き直した。目頭が熱くて、それでもどうしても泣きたくはなくてきつく目を閉じる。

「幸三郎を、……幸ちゃんの靴を、ううん、幸ちゃんを床下の収納に隠すなんて、」

瞼をこじ開けて頬を流れるのは、涙じゃない。泣いてなんかない。

「……芳郎!」

肩に母の手が触れたのは分かった。けれど、勢いよく振り払う。今は誰にも触れてほしくない。

思わず縋りついてしまいそうになるから。

誰かに助けてほしいのに、ここには母しかいない。


「お袋じゃないなら、誰なの?」

「……っ」

「知ってるんでしょ? そして、庇ってる」


じゃなきゃ、説明できない。母は真犯人を知っている。そして、その人物を庇うためにあんなことをしたのだ。狙ったのは捜査のかく乱だろう。

実際それは、あまりにもうまくいって、満の父親に疑いの目が向けられることになった。


「―――――幸三郎がいなくなったとき、お袋は俺たちの傍にいて、常に誰かがついてた。取り乱していたし、泣きわめくから宥める人間が必要だったし。……近所の人も総出で捜してくれたよね? でも、誰がいて誰がいなかったかはさすがに覚えてない。そういえばあのとき……、そうだ、あのとき……、満の父親もいたよね?」

自宅で仕事をしていたその人は確かに幸三郎の捜索に加わっていた。

あのとき、頭を撫でられたから覚えている。「大丈夫だよ」と優しい声で、そう言った。

当時も誰かが、満の父親は捜索に加わっていたから犯人じゃないと証言したと聞く。

けれど、幸三郎が姿を消した時間がはっきりと分からなかったことから、犯行に及んだあと何食わぬ顔をして家に帰り、捜索に加わったとされたのだ。


「……親父おやじは……?」


小嶋は言っていた。犯人はきっと近所の人間だろうと。俺たちの身近な人間であのときいなかったのは?

そうだ。あのとき俺たちの父親は、どこにいたんだろう?

幸三郎がいないと分かり、近所の人も総出であの子を捜し始めたとき母は父の携帯へ連絡を入れたはずだ。留守電になったとかで会社にも電話している。すぐに自宅へ帰ってきてほしいと。

けれどなかなか父とは連絡が取れなかった。

営業で外回りをしていたその人は携帯を車の中に置き忘れていたと言っていたようだ。


そしてそのことを、死ぬほど後悔していると。


「まさか、親父なの?」


ゆらゆらと揺らぐ自分の声がまさに、己の心情を表しているようだった。

まさか、そんなはずはない。絶対に。

でも、


「―――――ね、違うよね?」


テーブルの上にそっとビニール袋を置いて立ち上がり、母を見下ろす。

対峙するとよく分かる。この人は、こんなにも小さい。

潤んだ瞳に俺の顔を映り込んでいる。どんな表情をしているかまでは見えない。でもきっと、責めるような眼差しをしているのだろう。

だって、こんなこと許されない。


実に頼りない声で「……ち、…ちが」と否定しようとする彼女の肩を掴んだ。手の平から伝わる振動。ここが極寒の地であるかのように、奇妙なほど、震えていた。

いや、震えているのはむしろ、自分自身か。


「お袋、言ってよ。ちゃんと。俺、聞くから」ね?とあくまでも優しく、諭すように話すのに。がたがたと震えだした体を抑えることができない。

「……ちがうの、違うのよ、よしくん、違う、違うの」



「―――――何が違うの?」











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