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※宇都宮芳郎視点
小嶋の言葉が、どこか遠くから聞こえる気がする。突然、世界と断絶されたような感覚で、まるで水の中にいるみたいだ。すべての音がくぐもって聞こえて。
言葉の意味を理解するのにさえ苦労する。
「……、今、何て?」
聞き返したのは満だ。けれど、彼女の場合は小嶋の声が聞こえなかったわけではなく、あくまでも事実確認のために問うただけだろう。俺も、もう一度聞きたかった。
A氏とは、誰なのか。
なのに、
「結局、娘は助からなかった。持ち直しては危険な状態になり、何度もそれを繰り返して。……亡くなってから改めて、小さな体が手術痕でいっぱいだったのを見たときに、息ができないほど苦しくなった」
窓辺にいる男は、満の問いに返事をすることもなく話を進める。
「……俺は、子供を亡くした親の気持ちが分かる。俺もそうだから。けど、やはり……、子供の命を『誰かに奪われた』親の気持ちまでは理解できそうにない」
カチ、とライターに火をつける小嶋はやっと煙草を吸い始めた。
「……何で、あんなことをしたのかな?」
ちら、とこちらを。いや、はっきりと俺の顔を見る。
ど、ど、と体の内側で妙な音がした。その音が耳に響いてうるさい。両耳を塞ごうとして胸元が揺れていることに気づく。
ああ、そうか。これは心臓か。心臓がまるで別の命を持ったように、己の意志とは関係なく激しく暴れている。
「当時、容疑者の男が自死したという一報は俺が勤めていた出版社にも入ってきたけれど、編集長はつまらなさそうに舌打ちしただけだった。これでこの事件はもう終わりだと。
俺もそう思った。この事件は、このまま闇に葬られるだろうってね。警察にとってはその方が都合がいいだろう。犯人だと思って逮捕したのに起訴まで持ち込めそうな決定的な物的証拠は上がらず。―――――容疑者が死んでくれたのはむしろ、都合が良かったのかもしれないな」
「そうして自分自身も、あの事件を箱に仕舞って心の奥底に沈めた」
出版社に現れたA氏や自分の書いた記事、被害者遺族のインタビューも何もかも忘れることにしたんだ。
「……まぁ、そもそもそれどころじゃなかったしね。さっきも言ったけど……、娘が亡くなったのは幸三郎ちゃんの事件から数か月後のことで。奥さんともうまくいかなくなっちゃってね。奥さんは俺に向かって『もっとできることがあったはずだ』って言うし、俺もそう思ってはいたけど。でも、だんだん責められてるような気分になって、いや、というか責めてたんだろうな。娘につきっきりだった奥さん……、元奥さんか。彼女からすれば俺は仕事でいないことが多くて役にもたたなかっただろうし」
ふわりと舞った煙草の煙が外に流れていく。その一部が取り残されたように室内でゆらゆらと揺れて、やがて霧散した。
押さえつけようとしても勝手に暴れまくる心臓はそのままに、ぼんやりと天井を仰いでいれば隣から感じる強い視線。無視することもできずに、真横に腰かけている満を見れば唇まで色を失った少女が何か言いたげな顔をしていた。
そうだろう。言いたいことはたくさんあるはずだ。
けれどその視線を受け止めることができず、咄嗟に逸らしてしてしまう。白々しい態度であったかもしれない。
全身が震えているような気がしたし、全力疾走した後のように息が切れる。
「俺はこの数年間、何度もあのことを思い出したけど、あえて事件を探るような真似はしなかった。あの記事を書いたことを悔いているからだよ。悔いたなら改めなければならないのは世の常だろうけれど。……できなかった。己の罪と向き合うのが怖かったからかもしれない」
外を眺めながら煙草を吸い続ける小嶋がそんなことを口にする。
どれだけ離れていても煙草の匂いがするのは慣れていないからだろうか。鼻の奥が痛いような気さえする。
それから、小嶋が何度か煙草を吸っては煙を吐き出すのを見守った。何を言えばいいか分からなかったから。
黙り込んでいれば、やがて、満が意を決したように問うた。
「なぜ、ですか?」
「……ん?」
あの事件を封印したはずなのに、なぜ遺族と会おうとしたのかと。すると小嶋が、ふっと煙を吐き出して言った。
「子供を亡くす前と、亡くした後、自分でも驚くほどに色んなものの見方が変わった。はっきり言えば、俺は多分、娘と一緒に死んだんだと思う。前の自分がどうだったかもう、思い出せないくらいだ。それは多分、奥さんも一緒だっただろうな。
―――――俺はさ、昔からずっと鼻持ちならない生意気なガキで、結婚しても娘ができても本質はそのままだった。世界の中心はいつだって自分自身で、自分さえ幸せだったらそれで良かった。記者だっていうのに社会情勢よりも個人的なことに意識が向く。世界平和なんて祈ったこともない」
右手から左手に持ち替えた煙草の、灰になった部分が力なくぽとりと床に落ちる。小嶋は気づいていないようだ。
「なのに。娘を亡くしてから思ったよ。……娘がもし生きてたなら、幸せな人生を歩んでいるはずだ。だったらこの世界は平和じゃなくちゃならない。間違っても娘が泣くような世界であってはならない。そしてなぜだか、娘と同世代の子供たちに、娘の姿に重ねた。同時に思ったよ。彼らがずっと幸せで笑っていられるような世界じゃなきゃだめだって」
年を重ねれば重ねるほど、そういう思いが強くなる。
自嘲気味ともとれる奇妙な笑みを浮かべた小嶋が戻ってきて、灰皿に煙草を押し付けた。何度か煙を吐き出しただけだと思っていたのに吸い殻は随分、短い。
なぜこんなものを吸うのだろうと、興味もないのにそんなことを考える。そうでなければ、どうにかなりそうだった。
本当は今すぐ席を立って家に帰りたい。
そして母親を問い正したい。
満の父親を、嵌めたのかと。
「だから、被害者遺族だと名乗る少年からDMがきたときはさすがに悩んだ。……俺がもし、当時のことを話したとして果たしてそれは、この子のためになるのか」
「……、なったと、思いますか」
震える自分の指を見つめていると、そこに白い手が重なった。柔らかく包み込むように握られて顔を上げる。
ついさっきまで自分と同じく顔色を失っていたはずの満は、鋭い眼差しで記者の顔を見据えていた。
「―――――分からない」
男はふと、俺の顔を見て。「だけど、真実を知る必要があると思ったからここに来たんだろう?」と首を傾いだ。
「真実は時に人を傷つける。……だけど、どうしても真実を知りたい、暴きたいと思うのもまた人間の心理だ。それが、どれほどに残酷なことでも」
******
行きとは違い、互いに無言のまま電車に乗り込み、ほとんど言葉を交わすことなく別れた。
「……、少し、待ってほしい」
かろうじてそんな風に言ったものの、満をどれほど待たせても、膝を突き合わせて話ができるようになるとは思えない。
じっと俺の顔をみて頷いた彼女は、何度か口を開こうとして結局何も言わずに背を向けた。
多くの言葉を呑み込んでくれたのだろうその人が振り切るように歩き出すのを見送って、自分も家に帰る。
誰に追いかけられているわけでもないのに、まるで逃げているような気分になるのはなぜなのだろう。
そんな胸の悪さを抱えたまま、地元の駅から自宅までを駆け抜ける。
太陽は傾きかけているが、母が仕事から帰ってくるまであと数時間はあった。征二郎も学校からそのまま塾に行くはずだから、まだ帰ってこない。やらなければいけないことがあった。
そもそもの間違いはどこだったのか。
雑誌に写真を持ち込んだ『A氏』を、その呼び方から男性だと思い込んでいた。『Aさん』ではなく『A氏』としたのは身元を曖昧にするためだろうか。
けれど小嶋の話すA氏の印象というのは確かに女性のものだと思える。丁寧な仕草と上品な指先。
その人差し指のほくろ。
インタビューに答えていたのは、被害者遺族で。自分もその映像を見たことがあるから分かる。
―――――A氏は、母だ。
カチャン、と音がしてはっと我に返った。足元を見れば、銀色に鈍く輝く自宅の鍵。長い棒のような金具にぽつぽつと穴のようなものが空いた特殊な形状をしているのは、母の恋人に、こういう鍵のほうが安全だと言われたからだ。こういうちょっとしたことにも助言をくれて、大切にしてくれているのが分かる。
ぽつりと水滴が落ちてきたので顔を上げるが、空には雲一つない。
視界が一瞬曇って、額から流れた汗が目に入ったのだと気づく。
「でも、お袋は……、犯人じゃない」
誰に言い訳しているのか、声に出してから息を呑んだ。
落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。そうだ、母はあのとき自分と一緒にいた。―――――幸三郎がいなくなったときだ。その後もずっと誰かがそばにいて、なるべく母を一人にしないようにしていた気がする。それは明白な事実で、母に幸三郎をどうにかする時間があったとは思えない。
だったらなぜ、わざわざ出版社まで出向いていかにも犯人が隣人であるかのように語ったのか。
家の中に入ってとりあえずぐるりと室内を見渡す。意味もなく天井まで見上げて、とりあえず母が幸三郎のアルバムをしまっていた仏壇を確認した。ぬいぐるみやお菓子などのお供え物、使われることのない真新しいランドセル、一度も袖を通したことのない洋服。きれいに畳まれたそれをどかして、仏壇の下の引き出しを開けるけれど、そこには特に気になるものは入っていなかった。
幸三郎が抱えて眠っていたイルカのぬいぐるみは少し汚れている。
それを、事件以降初めて手に取った。
幸三郎の匂いや面影が残る大切なものには、触れてはいけないと思っていたから。
母がこのぬいぐるみを時々、愛おしそうに、でも悲しそうに抱きしめることを知っている。
まるで幸三郎を腕に抱いているかのように。
あの愛情に、嘘、偽りはないと信じているし、今だってそうだ。
けれど。
母があの事件に何らかの形で関与しているのは間違いない。
「……ああ、そうか。もしかして」
あそこかもしれないと思い立ち、和室を出る。
この家を新築した際、お金を出してくれた母の恋人は、母や俺たちが暮らしやすいように細部までこだわって設計に口を出していた。実際に暮らすのは母とその息子たちだけだというのに。
そして、母は一切、口を挟まなかった。
壁紙の柄、色、床の素材、照明の色、浴室やトイレの大きさ、部屋の数、何もかもを、いずれ俺の父となるだろう人が決めた。その中で、母が唯一希望したのが。
幸三郎の部屋を作ること。
『あの子が返ってきたときに、部屋がないんじゃ可哀相でしょう?』
さすがにぞっとしたような気分で母を見れば『あ、お盆のことよ』と微笑を返された。
そのとき俺は期待した。
今はまだ、あの子のことを思い出すときに抱く感情、苦しみのほうが大きいけれど、その死を受け入れることができたなら、母はきっと前を向けるだろうと。
「なのに、どうして」
仏壇にはランドセルが置いてあるというのに、幸三郎の部屋は小学生のものとは違う。どちらかといえば、当時住んでいた家の子供部屋を再現した。だから、俺や征二郎が使っていた二段ベッドはこの部屋に運び込まれた。子供が三人いるのにベッドが二人分しかないのは、ベビーベッドを卒業していた幸三郎が、俺か征二郎の隣で眠っていたからだ。
小さな頭を撫でて抱きしめると、くふくふと笑う。その声を耳に感じながら眠った。
その温もりを思い出す。眠っているときになぜか、強烈に思い起こすことがある。
扉を開けると、まず明るい色の絨毯が目に入った。その床に、幼児の遊び道具が無造作に置かれている。
放り投げたかのように散らばっているので、あるとき、あちこちに転がっている積み木を片付けようとしたらら母に「やめて!」と怒鳴られた。
あまりの剣幕に、そこまで怒ることだろうかと首を傾げてから気づく。
弟がいなくなったときのリビングの状況に似ていると。
母にとっては、部屋の真ん中に転がっているミニカーにも何か意味があるのだろう。
だから、この部屋には滅多に入らない。
空気を入れ替えるために窓を開けにくるくらいで。ある意味、神聖な場所でもある。
足を踏み入れるのに僅かばかりの躊躇いを覚えながら、壁にかかった時計を確認した。もうすぐ母か弟が帰ってくる。あまり時間がない。
定期的に陽に干している掛け布団を持ち上げて中を確認する。まさかこんなところに何かあるとは思っていなかったが、やはりそこにあるのはいかにも柔らかそうなシーツだけ。
二段ベッドの下も覗き込んだが、ほこり一つ落ちていない。
壁に向かって並んでいる二つの勉強机は、征二郎と俺が使っていたものだ。
引き出しを開けて確認するも申し訳程度の文房具が入っているだけで、ほとんど空っぽである。
当然だ。ここは征二郎と俺のための部屋じゃない。この勉強机だって、幸三郎という存在を浮き立たせるためのオプションとして、ただ置かれただけの装飾品に過ぎないのだから。
そのときなぜか、コン、と甲高い音がした。
「!」びくりと肩を震わせながら、音の発生源を探るけれど分からない。窓も開いていないので風が吹いたわけでもなさそうだ。気を取り直してクローゼットを開けると、ハンガーにかけられた小さな服が整然と並んでいる。当然、幸三郎のものだ。狭い収納の中には申し訳程度の棚も設置されていて、そこにもいくつかのおもちゃがある。
子供用の木琴の上にぬいぐるみが落ちていて、さっき音をたてたのはこれかもしれないと思い至った。
掬いあげるようにぬいぐるみを手に取る。これは幸三郎がまだ赤ん坊だったときにベビーベッドに置いていたものだ。まぬけな顔の犬のぬいぐるみ。
元々置いてあっただろう場所に置き直してから、クローゼットを閉めようとして。
もう一度開ける。失念していたけれど、クローゼットの中には一つ、床下収納がある。
「……いやいや、まさか」
誰に言っているのかそんなことを口にしてから、震える手で目元を覆う。
もうここまでくれば確信のようなものがあるのに、それでも信じられない気持ちでいっぱいで。床下収納のふたに手をかけるのをひどく躊躇った。
けれどこうしている間にも時計の針は進む。容赦なく。
いつからそうだったのか、心臓が再び激しく音をたてて命を刻んでいる。
すっと息を吸い込んで、ふたを開けた。そんなに重くないはずなのに、腕が強張っているのか、全開するのに少しだけ苦労する。
そこに収められていたのは、母の冬物のセーターだ。いつも淡い色を着ているので色とりどりの衣服は目に優しい。でも、そこに入っていた何枚かのセーターを最近、母が着ているのを見たことはない。
もう着なくなったからここに片付けたのだとも思えるけれど。
きっと、そうじゃない。
小さな収納の割にぎちぎちに納められたセーターを一枚、また一枚と取り出して。
最後に残ったのは黒いビニール袋だ。
母のセーターに包まれるようにして入っていた。まず、その袋の感触を手で確かめる。中には硬くて小さなものが入っていた。俺の手の平が余るほどに小さい。
収納から袋ごと取り出してみて、指に砂がついていることに気づいた。なぜか分からないが、きっとビニール袋の外側についていたものだろう。
何度か深呼吸をしてから中身を取り出す。
そして、それを目にした途端、「……っ、」思わず手放していた。まるで投げ飛ばすように。
とん、と小さな音をたててクローゼットの床に転がったそれは。
―――――幼児の靴だった。
見覚えがある。当たり前だ。幸三郎が自分で、この靴がいいと選んで買ったもので。当時流行っていた戦隊ものの、メインヒーローのメンバーカラーを参考に作られたものだった。赤をベースに、ところどころ紺が入っていて。マジックテープのところには変身したヒーローの顔写真が貼られている。
大型スーパーの靴屋さんで買ったその靴を、幸三郎がとても気に入っていた。
あの日。
自ら家を出たと思われるあの子は、靴箱に仕舞っていたはずのその靴を自分で取り出して、履いていたようだ。事件後、警察署で幸三郎が身に着けていた衣服を確認した両親が、確かそのようなことを話していた。
遺体発見時は片方の靴しか履いておらず、もう片方の靴はいまだに見つかっていない。
履いていたのは右足。見つからなかったのは左足の靴だ。
大げさなほどに震える指で、靴を拾い上げる。
予想はしていたけれど、その衝撃に耐えることができずに膝から頽れ、バラスを崩したまま尻餅をつく。
「……なんで、」
情けないほどに震えた声がしんと静まり返った室内に、大きく、響いた。
なんで、
見つからなかったはずの靴が、ここに、ある。




