プロローグ
努めて笑顔でいなければ、きっと笑い方なんて忘れてしまう。
そうなってしまっては「普通」を装うことなどできない。だって、普通の人間は笑うことも含めて、怒ったり泣いたり、あるいは嘆いたりして感情を表すものだから。
そして多分、1つでも欠けてしまうと、他も失くなってしまうのだ。
だから、笑わなくちゃ。
笑わなくちゃ。
そうしていなければ、見抜かれてしまう。
本当は、笑いたくなんてないってことを。
*
「……お前!」
昼下がりの校舎は喧騒の中にあった。昼食を取り終えた生徒たちは、教室内や廊下、あるいはグランドで思い思いの時間を過ごしている。自由時間だからなのか、自然と声が大きくなるようで。あちこちで笑い声が響く。中には読書をしたり、居眠りをしたりと、1人で過ごす生徒もいるけれど、あまり多くはない。
私自身も教室の中でじっとしていたわけではなく、階段の踊り場でばったりと行き会った友人とふざけあっていた。
―――――それはさして特別なことでも何でもなく。ありふれた日常の一こまだったと思う。
「お前!」
しかし、そういった普通の毎日というのは、あまりにもあっけなく崩れ去るものだ。
腕を掴まれたと思った瞬間、強い力で引っ張られてたたらを踏む。
よく倒れなかったものだと、思わず振り仰げば、1人の男子生徒が物凄い形相でこちらを睨みつけてきた。
何事かと目を瞠って、咄嗟に口を出た言葉は「な、何……?」という至極当然の呟きである。
己の腕を掴む人物に訊いたつもりだったけれど、掠れた声は、我ながら消え入りそうに弱々しい。
実際、彼は返事をするどころか射抜くような眼差しで見つめ返してくるだけだ。
「……何でっ!」
彼のあまりにも激しい剣幕に、賑わっていた廊下がしんと静まり返った。
「お前は! 何で、笑ってるんだ!」
高校生といえどまだまだ少年と言える年代だ。その高くも低くもない柔らかな声を怒らせている。ほとんど叫ぶような声でそう言った。
大人が怒鳴るほどの迫力はないけれど、それでも、私のような女子高生を震え上がらせるには効果覿面だった。
「何で!」「何で!」と言いながら、私の腕をひねり上げる。
痛みに呻きながら、何とか彼の手から逃れようと試みるけれど上手くいかない。
平均よりもほんの少しだけ体重の軽い私はふらりとよろめいて、最終的に冷たいリノリウムの床に膝をついた。
このときまでは、きっと誰かと勘違いしているのだろうと思っていた。
だから、そんなに警戒心を抱くこともなく。
これは一体どういうことなのかと再び問おうとして、彼を見上げる。
「……っ、笑うな!」
私はもう笑ってなどいなかったけれど。彼にはそう見えたのだろうか。
笑うな。笑うな。笑うな。
まるで呪術か何かのように何度も同じ言葉を繰り返す。
掴まれていた腕を乱暴に振り払われて呆気に取られていれば、彼の握り締めた拳がわなわなと震えていることに気付いた。
顔も知らない生徒にいきなり引き倒された格好になった私は、上手く反応することもできず、ただただその拳を見上げるばかりだ。
「笑うな!」
私の視線に触発されるように、目の前の人物が勢い良く拳を振り上げる。
「―――――おい! やめろ!」
「やめるんだ!」
数人の男子生徒が慌てて駆け寄ってくる。
そこで彼らが止めてくれなければ、私はきっと殴り飛ばされていただろう。それほどの勢いと、緊迫感があった。
拘束されても尚、鋭い視線を向けてくる男子生徒は、あきらかに憤怒の表情を浮かべている。
視線に貫かれる。そんな気がして、一瞬、呼吸を忘れた。
もはや、彼が人違いをしているとは思えない。
その強烈なほどの怒りと憎しみは、「私」という人間が誰なのかをしっかり認識している。
「……くそっ、離せ!! 離せぇっ!」
取り押さえられる格好になったにも関わらず、彼は膝を折らなかった。絶対に、そんなことはするまいと歯を食い縛っているようにも見える。
自分のやっていることが間違っているとは、微塵も思っていないようだ。
何が何だか訳が分からなかったけれど、もみ合うようにしている数人の男子生徒を注視しながら、慎重に立ち上がった。
数歩だけ後退したのは、再び腕を掴まれないようにするための自己防衛で。それが上手くいったかどうか分からないが、私を殴ろうとしていた男子生徒は少しだけ勢いを失う。
その隙をついて、先ほどまで一緒に話しをしていた友人が前に進み出た。
私を庇ってくれるような仕草に、細く、小さく息を吐き出す。
「ちょっと、誰。いきなり何なのよ」
友人のいかにも怪訝そうな声が、すっかり静まり返った廊下に響いた。
廊下で立ち話をしていた他の生徒たちもこちらの様子を窺いつつ、耳を澄ましているようだ。中には、この状況を面白がっている人間もいるのだろう。
「……、お前に用はない」
未だに私を睨みつけたままの少年は、いくつか呼吸を置いた後、抑揚のない声で私の友人に告げた。
「は? いきなり暴力奮おうとした人間が何偉そうなこと言ってんのよ!」と、友人はいきり立つ。
けれど、彼はそんなことには頓着せずに、ぽつりと零した。
「覚えていないのか」と。
独り言のような小さな呟き。だけど、明らかに私へと向けられた言葉だった。
「みち?」
彼と対峙するような格好になっていた友人が、ふと振り返る。
心当たりはないのかと問うような顔つきだった。
いきなり暴力を奮って来るような人間を前にしているというのに、彼女は少しも怯むことがない。
それどころか、相手がどんな人間でもどこか公正に振舞おうとする。だからこそ「覚えていないのか」と呟いた彼の言葉を聞き流したりはしなかった。
それが正義感からくるのもだということを、何となく知っている。
「……みち、か」
友人が当たり前のように呼んだ私の愛称をなぜか咀嚼するように鸚鵡返しにした男子生徒が、嘲笑のようなものを滲ませた。
その表情に、はっと胸を突かれる。
ひどく、見覚えのあるその顔。
知らないはずなのに、知っていると、なぜかそう感じた。
「俺はお前のこと、忘れたことなんてなかったよ」
さっきまでの勢いはどこにいったのか、男子生徒は静かな声で言った。その姿に、彼を拘束していた男子生徒もその手を緩める。もう、安全だと踏んだのか。
実際、その判断は正しかったようで、態勢を整えた彼も再び私に手を上げるようなまねはしなかった。
私たちを注視していた他の生徒たちも、静けさを取り戻したこの場に興味が薄れたのだろう。1人、また1人と視線を元に戻していく。
ざわめきがさざなみのようにゆっくりと広がり、喧騒を取り戻していく廊下の片隅で。
彼は、深く、深く息を落とした。
「なぁ、みち。教えてくれよ」
「……、」
昔からの友人のように、私を呼ぶ彼。親しげなその様子に、私の友人は眉をひそめた。
そして、彼を捕まえていた数人の男子生徒も、奇妙なものでも見るかのように目を瞠っている。
「あの街から逃れてどんな気分? それともやっぱり忘れてしまった? 何もかも忘れて、楽しくやってるんだ……? ああ、そうだよな。だって、笑えるくらいだもんな。そんな、楽しそうに、何もなかったみたいな顔をして」
私に質問を投げかけているようで、答えなど必要としていない物言いだ。
彼は再び前に進み出て、友人を押し退ける。決して乱暴な仕草ではなかったけれど、それでも丁寧とは言い難い。
けれど今度は、誰も彼を止めなかった。
それほどに、何か訴えかけてくるものがあったのだ。
悲しくて、苦しくて、そして悔しい。それ以上に、憎い。そんな色んな感情がないまぜになった顔をしているような気がする。
十代の少年少女には、あまり覚えのない表情かもしれない。だから、誰もが気圧されていたのだと思う。
だけど私は、そういう顔を、何度か目にしたことがあった。
ここに移り住む前のことである。長年暮らした「あの街」で。
「お前はいいよな。何もかも、忘れることができて」
数秒か、数分か。嫌な沈黙が流れた。彼は、私に返事を求めなかったけれど、周囲の人間は私が何か言うのを待っている。そんな雰囲気を醸し出していた。
私は、はくはくと唇を震わせたあと、ようやっと口にした。
「―――――よしくん、」
声が掠れて、吐息が混ざる。きちんと言葉にはできなかったかもしれない。
だけど。
そうだ。彼のことを知っている。ちゃんと、知っているのだ。
「思い出した? ……やっぱり忘れてたんだね、みち」
肩から力を抜いたように見えた彼は、―――――よしくんは、にっこりと笑ったのである。
ああ、この顔は。
誰かを傷つけたくてたまらないっていう、顔だ。よく知っている。
何を言えば、相手が傷つくか。どの程度の痛みを与えられるか、計算しているのだ。
「どんな気持ち? 俺のことを思い出して」
ゆっくりと、言葉を置くように話す彼は少し不気味で。思わず、息を呑んだ。
こくりと唾を飲み込めば、友人が「大丈夫?」と訊いてくる。いつもなら肯いているところだけれど、それでもできずにただ立ち竦んでいた。
「良かったよね。あの街を出て、1人だけ……いや、おばさんと2人だけ悪夢から逃れることができたんだから。俺たち家族が、どれほど苦しんだかも知らないでさ。言っておくけど、お袋は未だに泣いてるよ」
「―――――、」
何の話しをしているのか、分かっているのは私と彼だけだ。
瞬きをする度に、あの街の風景が甦る。広い空き地で、虫取り網を振り回していた子供たちの姿も。
夕焼け空の中、たくさんのとんぼが飛び交っていて、すぐにでも捕まえることができそうなのに。結局、一匹も捕まえることができなくて。
一番年下の子が泣き出した。それを「私」が、なぐさめた。それを覚えている。
走り回る小さな影の1つは、私自身のものだった。
「弟が死んで、お袋がずっと、ずぅっと泣いてる。今日だって仏壇に話しかけながら、涙ぐんでたよ」
いまや元の喧騒に戻りつつある廊下。その中で、よしくんの声はやけに大きく聞こえた。
いや、そんな風に聞こえたのは私だけだったのだろう。
他の生徒には、大して面白みのない話しだったに違いない。私以外の人間には、何の話しをしているのか想像もつかないはずだ。
彼を拘束していた男子生徒も様子を見ることにしたのか、少しずつ距離をとって離れていく。
私とよしくんの関係などどうでもいいのだろう。ただ、女子生徒に暴力を奮おうとしている男子生徒を諌めただけで、それ以上関わる気などないのだ。
むしろ、厄介ごとに巻き込まれるかもしれない雰囲気を察して、この場から遠ざかったのかもしれなかった。
唯一、この場に残っているのは私の友人だけだ。
彼女は、何か言いたげに私と彼の顔を見比べるだけで。空気を読んでいるのか、何かを口にすることはない。
「それなのに、お前はこんなところで友達と笑ってて……、いいご身分だよな」
明らかに侮蔑を含んだ言い方にひっかかりを覚えたのは私ではなく、友人の方だった。
「ちょっと……! あんた何様なのよ!」と、掴みかかろうとする。
けれど結局、それを実行することはできなかった。彼が、こう訊いたからだ。
「お前は知ってるの? こいつが何者なのか」
突然水を向けられた友人は、虚をつかれたかのように「……はぁ?」と、立ち止まる。
そんなのどうでもいいし、と言いかけた友人を制して、よしくんはふっと笑った。
「お気楽だな。この高校の生徒全員……。いや、教師もか」
「何なのよ、一体。意味深なことばっかり言って。何がしたいわけ?」
「……すぐ傍に、殺人犯の娘がいるっていうのに」
語気を強める友人の声に、被せるように告げられた一言。
緩やかな波紋を広げる水面に、石を落としたような。あるいは、ぽつりとインクを落としたような。そんな呟きだった。
「今、何て……?」
友人は戸惑いながら、私を振り返った。この状況から考えれば、彼の言っている人物が誰なのか想像するまでもない。明確な事実が、ここに存在している。
窺うように私を見つめる友人に微笑もうとした。こういうときは、笑って誤魔化すしかないと分かっているから。だけど、口の端がぴくりと震えただけで、笑うことなんてできなかった。
『笑うな!』と、先ほど浴びせられた怒声が頭の中で木霊する。
「こいつの父親は、人殺しだよ。……知ってた? 知らなかったなら調べるといいよ。きっと、簡単に調べることができる」
優しい声音で残酷なことを口にする彼。だけど、その目には私を貶めようとする暗い感情が見え隠れする。
できることなら、この場から逃げ去りたかった。
そんなのは嘘だと叫んで。私は違うと弁明して。彼の言っていることは全てでたらめだと。そう言えたなら良かったのに。
「みち?」
友人が私の腕を掴もうとする。全身が、がくがくと震えているような気がした。
まるで、己の罪を暴かれたような錯覚に陥る。ここは裁判所か何かで、彼は裁判官で、そして友人は裁判員か何かで。もしくは傍聴席に座っている誰かかもしれなかった。
ともかく私は、まるで断罪されているかのような気分で、この場から動けずに居る。
裁判にかけられた以上、逃げも隠れもできないのだと、そう言われているようだった。
誰からみてもきっと青褪めているだろう顔を俯けて、自分の上履きを見つめる。そうする以外、どこに視線を向けていいかわからなかったのだ。
怖い。怖い。怖い。
ただ単純に、それだけを思った。誰にも知られたくなかった事実を、こうも簡単に暴かれて。
今にも泣き出してしまいそうだった。なぜ、そんなことをするのかと問い詰めそうになって、吐き出しそうになった息を呑み込む。
「あんたも気をつけた方がいいよ。そいつ、何しでかすか分からないし。だってさ、自分の父親が何者かも忘れて、幸せそうに笑ってる奴だぜ。普通じゃない」
そのときちょうど、昼休みが後10分で終わるという校内放送が流れて。
彼はまだ言い足りない様子だったけれど、ふんと鼻を鳴らして、踵を返した。
慌てて教室内に戻っていく生徒たちの後姿を見ていたけれど、私は、1歩も動けない。
両足が床に縫い付けられているようだ。今、歩き出そうとしたなら、きっと倒れてしまうだろうと思った。
それほどの緊張感にさらされていたのだ。
「みち、」
気遣ってくれているのか。それとも真実を聞き出そうとしているのか、相変わらず友人も傍に居る。
彼女は数分前からそうしているように、ただ私の名前を呼んだ。
もしかしたら、何を言えばいいのか分からないのかもしれない。彼女の視線に答えるように、私も彼女を見たけれど。その目を見つめ続けることに耐え切れなくなって、そっと目を伏せる。
こういうときはどうするんだった?
誰かに問いかける。
追い詰められたときの対処法は? どうするんだった? これまではどうしていたっけ?
頭の中を、黒く塗り潰していく疑問。答えは何も返らない。返してくれる人なんていない。
だからこそ、こんなことになる前に、策を練っておく必要があった。
誰にも悟られないように。口角を上げて、眦を細めて、できれば頬を紅潮させるといい。体温を上げるなんて、意識的にできるとは思っていないけれど。
それでも、思い込んでいれば、熱だって出せる。きっと、そうなる。
一生懸命、幸せそうな顔を作っていたのは見抜かれたくなかったからだ。
幸せになりたかったわけじゃない。そういうことを期待したわけではなく。
ただ、そうしなければ、知られてしまうと分かっていたから。
本当は、ちっとも幸せなんかじゃないってことを。