一日目
――あれが欲しい。これが欲しい。
少女は求める全てを手に入れることができました。
広い部屋に、たくさんの召使。
まるで部屋そのものが宝箱のような、絢爛豪華な調度品の中に、その少女は君臨していました。
ある日、この世のありとあらゆる至福を支配する少女は考えました。
生まれてから今まで、幸福であり続けた少女は、不幸について考えてみました。それはご馳走を口にしたあと、鳥の羽で喉をくすぐるのと同じように、持つべき者にのみ許された特権なのです。
不幸を享受する多くの人間が寝具の上でしか叶えられない夢を手にしながら、不幸とはなんであるかを哲学する。まさしく強者のみが持ちうる余裕と言えましょう。
やがて、想像もできない貧困だとか飢餓だとか、そういうものについて夢想することは少女にとって娯楽の一つになりました。無垢な少女が御伽の国を夢見るように、狂った少女は大衆にとっての現実を夢見ているのです。
しかし少女がどれだけ願っても、そういった貧困を直接見ることはできません。
少女はあらゆるものを手に入れることができますが、まさか自然を部屋に持ち込むわけにもいきません。
ただ屋敷の中でのみ、少女は支配者たる権限を与えられていました。
そのため、本や召使の話に出てくる雄大な自然が現実だと思えないほどに、少女は外界に対して疎く繊細でした。
叶うならば、貧困を見てみたいと求めたかったのですが、外に出ることは許されません。
少女の心に積もる好奇心はいよいよ溢れてしまいそうなほどでした。“博識”の召使に話を聞いても、“技巧”の召使に絵を描かせても、少女を満足させるだけの答えを得ることはできませんでした。
そこで“道徳”の召使に聞くと、
「ならば貧民をお求めになればよろしい。実際に姿を見、話を聞けば、お心も安らぐことでしょう」
という答えが帰ってきました。
これを聞いた少女は、大喜びで貧民を要求しました。それもただ貧しい者ではなく、自分と歳が近く、とびきり不幸な経緯を持つ哀れな子羊を求めたのです。
“博識”、“技巧”、“道徳”の三人の召使は、すぐさま条件に見合う人間を探し始めました。
それぞれ三人の持ちうる特性を生かして、多くの不幸者の中からもっとも主の期待に沿えるであろう人物を選ぶために、三日を要しました。
“博識”は知能を計りました。
“技巧”は技能を測りました。
最後に“道徳”が、その心を秤にかけました。
あまりに賢い者や、あまりに器用な者は、不幸者として認められなかったのです。
そして、もっとも重要視されたのが心でした。
悪徳と美徳。それぞれに偏りすぎた者も許されませんでした。
飽くまで少女が求めているのは不幸者なのですから、悪徳に耽り罪を犯したことで不幸になった者や、美徳に酔いしれ財を貧民に与えたことで自らが不幸になった者などは、そもそもの話が自業自得なのでございます。
厳正なる審査の元に選ばれたのは、どこにでもいるような一人の貧民でした。
少女と同じ年齢でありながら、全てを悟ったように鎮座しています。
少年を前に少女は大層喜びましたが、それでも自らの部屋に汚らしい服を着た少年が存在していることが許せません。まるで宝石箱の中に泥団子を入れるような気分でした。
なので、少年に許された時間は三日間だけとなりました。
少女はいかにも豪華なトルコ椅子に座り、床に座った少年に対して質問しました。
「貧困とは何か」
少女の声は自信に満ち溢れています。
その声を受けて一瞬びくっとする少年を見て、少女の心は跳ね上がりました。始めて家に迎え入れた小動物のような態度が、少女の嗜虐心をくすぐったのです。
「……明日の食事にも困ることにございます」
少年は震える声でそう言いました。
これには少女も不愉快そうな顔で、
「そんなことを聞いているわけではない。お前にとってどういうものなのかを聞いている」
と再度質問しました。
しかし少年は俯くだけで、質問に答えることができません。少女に反感を抱いているとかいうわけでなく、ただ現するだけの言葉を持ち合わせていないのです。
なぜなら、少年にとって貧困とは日常で、そうあることが当たり前だったからです。
そんなことを知る由もない少女が罵倒のために口を開こうとしたとき、不意に“博識”が少女と少年の間に割って入りました。
「真なる貧困とは、質問に答えられぬ愚かさ。まさに今ご覧に入れた愚鈍さこそ、この者が大貧民たる証なのでございます。それを念頭に入れ、それすらも愉悦になさるのがよろしいかと」
それを聞いた少女は思わず息を漏らすと、貧困について他の二人にも意見を求めました。
“技巧”は、
「不器用さに加え、ありとあらゆる想像力の欠如。真なる貧困とは、何も生み出せぬ浅はかさにございます」
と答えました。
“道徳”は、
「真なる貧困とは、即ち信仰。善悪の感情に囚われ、盲になってしまうこと。意思決定を放棄しながら、世論に痴れ事を並べる愚昧さにございます」
と答えました。
少女は各々の答えに満足すると、再び少年を見据えて言いました。
「では、この少年はそれらを備えた愚者たりえる人間か」
自らが選んだ不幸者なのですから、もちろん三人の召使は肯定します。
――この者は、類稀なる愚者でありながら、定法を往く貧民にございます。
それを聞いて少女は無知さすらも堪らなく愛おしくなり、湧き上がる嗜虐心に加え、慈悲のようなものまでもが芽生えてしまいました。
生まれて始めて目にする愚者は、今まで見たどんな賢者よりも尊く映りました。
「なるほど。……では愚者よ、お前はどうして愚者となった?」
「……私が五歳の頃、災害によって食料難が発生いたしました。ただでさえ貧しかった家庭は、それによって更に落ちていったのです」
少年の言葉は憔悴しきっています。蛇に睨まれた蛙の如く、視線は地に固定され、身動き一つとれない有様でした。
「何をそこまで怯えている? お前の安全は約束されている。存分にその舌を躍らせろ」
少年が招かれるに当たって、二つの条件が提示されました。身の安全と、滞在中の衣食住。明日の食事を考えなくても良いという、それだけの条件で少年は蔑みと憫然の奔流に身を投げたのです。
「恐ろしいのは我が身ではございません。過去の行いが怖いのです。神への背徳の数々を想起するたび、心が腐り堕ちていく感覚に襲われるのです」
その言葉に少女は思わず吹き出してしまいました。三人の召使も、声にこそ出さないものの表情は楽しげに歪んでいます。
少年には嗤笑の意味がわかりません。神に背いたという恐ろしい告白をどうして笑うのか、微塵も理解ができません。
「ああ、愉快だ! これは素晴らしい! “道徳”の言う通り、実物を見た方が遥かに面白い。さぁ、続きを話せ。お前の話で、私の心を満たしておくれ!」
お前はそのために生きてきたのだ、と少女は歌うように語り掛けます。
少女の喜ぶ様を見て、召使は安堵しました。この部屋の中で命の保証をされているのは、少年ただ一人だったからです。
命を保証されている筈の少年の顔は、誰よりも大きな苦悶に歪んでいました。信仰心を締め付ける過去の想起が、そうさせたのです。
それでも少年は口を開きました。
少年にとっては懺悔のような重苦しい告白でしたが、少女には麗しい歌声にしか聞こえません。
まさしく、すれ違う幸福の始まりでした。
「私は貧しい村に産まれました。辛うじて生活はできていましたが、先ほど申し上げたように五つを迎える頃、大きな飢饉に見舞われました。そのときの私には両親の他に、姉と幼い妹がいました。しかし、私の家庭に五人を養うだけの食糧を用意することは到底叶いません。そこで家族は……」
話を区切ったかと思うと、少年は自身を抱きしめながら震え始めました。
「なんと言うことはない、食ったのだろう? 誰を食った? どんな気分だった?」
少女の言葉に、少年は涙を流し始めました。その反応は、肉親を喰らったと暗に肯定するものに他なりません。
あまりの嗚咽に口を開けずにいる少年に向けて、少女は笑いながら続けます。
「それの何が罪だ? 生きるために喰らう。至極当然のことだろう? 家族を喰らったことが恐ろしいのか? 家族も他人も、味は変わらんぞ?」
そこで少女は“博識”の方を向き、問いを投げかけました。
「私が喰らった家族は、誰だったか?」
「“母親”と“弟”にございます」
“博識”の言葉に頷いたあと、少女は少年に向き直り、
「だ、そうだ。何か言いたいことがあるか?」
と聞きました。
少年は顔面を蒼白に染めながら震える声で質問に答えます。
話さなければ少女は気分を害すと、本能で読み取ったのです。
「……一家は妹を喰らいました。何より恐ろしかったのは、それを美味いと感じてしまったことなのです。久方ぶりに口にする肉は、実に柔らかく味覚を駆け巡り、大きな快楽をもたらしたのです。それが妹であったことも忘れ、誰も彼もがわれ先にと貪り喰らいました」
「ほう、それほどに美味であったと? ……“博識”よ、人の味とはいかなるものか?」
「筋張った豚肉のようなものでございます。年齢や性別にもよりますが、味だけならば普段口にしている肉に劣るかと」
「……では調理法か? “技巧”よ、適した調理法を為せばそのようになるか?」
「残念ながら、いかなる調理法を以ってしても、食用の肉には及ばぬかと」
「……では“道徳”よ。何がたかだか人肉をそこまで美味たらしめた?」
「それは心にございます。長きに渡る欠食こそ、絶妙のスパイスたらしめたのでございます。それに人肉を食す背徳感が合わされば、脳髄を溶かすほどに素晴らしい、至高の食材となりえるのでございます」
“道徳”の言葉に、少年は表情を歪めました。当時の心境を言い当てられたような気分になったのです。お前に信仰を説く権利はないと、言われているような気分になったのです。
沈痛な表情の少年とは対照的に、少女は新たな快楽を前に好奇心を隠せずにいます。
召使に“たとえ私が命令しても、三日間は食糧を出すな”と言いつけました。空腹を知らない少女にとって、飢餓は甘美な誘惑ですらあったのです。
「……一つ、質問してもよろしいでしょうか?」
ここに至って少年は始めて少女に向けて疑問を投げかけました。
「言うがよい」
「何故、自ら苦しみの道に進もうとなさるのでしょうか?」
少年が疑問を抱くのも当然なのでしょうが、少女の支配する空間においてはあまりに下らない質問でした。
――どうして苦しみを味わうのか。
答えは単純明快です。
苦痛を知らない少女にとっては、それすら蜜なのです。
飢えを苦痛と定義するだけの経験が、少女にはありません。外の世界を知らなかった人魚姫のように、無知が幸福であることに気付いていません。
泡沫の終焉が待っていようとも、それを知る術を持ちません。
なので少女は、こう答えます。
「愚者にとっての苦痛が、私にとっての苦痛であるとは限らない。苦しみの果てに得る快楽が至宝であるならば、そうすることこそ幸福に違いない」
夢に見るような幸福を手にしている筈の少女の言葉を、大衆が理解することはできません。
大衆以下の少年に、どうして理解することができましょうか。
あまりに遠く、理解の及ばない少女の言葉は、少年を恐怖させる呪詛でしかありませんでした。
少女は三日の後に食すものを指定してから、少年に続きを話すよう促しました。
狂気の坩堝に飛び込んでしまったことを後悔しつつも、少年は重い口を開きます。
「妹を喰らってから暫くして、父が病に臥しました。そして父を喰らいました。父を失い、働き手が私だけになってしまったため、姉と母は内職で小金を稼ぐことを辞め、その身を売り始めたのです。どういう手管を使ったのか、いつの間にやら領主に取り入ったらしく、朝方に帰って来たかと思うと、へべれけの状態で神を冒涜する言葉を吐き続けるようになりました。未だ信仰の潰えぬ私は、二人を甚く侮蔑しました。そういった態度が気に食わなかったのか、二人はありとあらゆる怒りを私にぶつけるようになったのです」
「それはどのようにして?」
「もし貴方様が気分を害されないと仰るならば、衣服の下に隠れた激情の跡をご覧頂きたいと思っております」
「その程度で気分を害すのであれば、お前はもう生きていないよ。その薄汚い襤褸の下は、どれほど凄惨なものか見せてみよ」
少女の了承を受けて、少年は上衣を脱ぎました。
少年の体は常人が見れば吐き気を催しかねない惨状でしたが、この場に常人など一人も存在していなかったため、全員は実に冷めた目でその傷跡を見ていました。
そうして一通り腹側を晒した少年は、次に背中を見せようと思い振り返りながら、
「私の体に刻まれた多くの傷は、血の繋がった家族によってつけられたものでございます」
と言いました。
「貧しいお前が、どうしてそれほどの傷を負って生き延びた? 私の見立てによれば、それらの傷は死を呼ぶ類のものであるが、どうか?」
「お答え致します。まさにご慧眼の示す通り、これらの傷には治療が施されております。しかし、その治療は善意から来るものでなく、悪意によって成されたものに他なりません」
「よい、続きを語れ」
「初めは姉と母による軽い殴打が成される程度でした。私の仕事に支障が出ぬよう、四肢と頭に傷をつけることはありませんでした。頭の回る女でしたから、自らの行いを露呈させない意味もあったのでしょう。十歳を迎える頃、私は母と姉に連れられ、領主の下へ行くこととなりました。それこそが遍く禍いの中でも一等恐ろしい饗宴の供物となる起こりでございます」
それだけ聞くと、少女は全てを理解しました。あまりに聡明であるが故でなく、少女も同じようなことを試したことがあったからです。ほんの僅かな時間ではありましたが、少女の至福を演出するために開催された饗宴では、幾人かの召使が罰として苦痛に沈んでいったのです。
そのため、少女はその内容には興味を示しませんでした。なので少女は、その中でもっとも恐ろしかった痛みについてのみ語らせることで、この話を終わらせようと思いました。
「一等恐ろしい饗宴、というのは些か言い過ぎであろうが、その中でも一等恐ろしかったものは? 身を焦がす灼熱か、或いは息を塞ぐ冷水か」
「どちらにもございません。それらは信仰によって耐え忍ぶことが可能な範疇にあります。彼らの成す悪徳に、私の心が染まりさえしなければ良いのです。何よりも忌むべき悪徳は、私の心を強引に穢すものにございます。」
美徳を志しながら悪徳を成す。“道徳”はこの少年を見つけたときに小躍りしたくなるほどでした。
それほどまでに少年の孕む矛盾は愉快なものなのです。
「では、何を以ってお前は穢れた? 痛み故の逃避でなく、屈辱による憎悪でもない。信仰に殉じる腹積もりであったろうお前が、のうのうと生きている理由はなんだ?」
「即ちまぐわいにございます。これこそ、私の心に憎悪と憤怒の影を落とし、忌諱の念に火を灯した奸邪の非法。肉親の血肉を喰らうよりも、遥かに重い悪徳。生命のためでなく、快楽のために成される不義こそ、耐えがたき邪悪!」
少年は声を荒げました。背を向けたままに語ったのは、その表情を見られたくなかったからなのかもしれませんが、少女が愉悦の種を黙って見過ごす筈もありません。
少女は席を立って少年の背後まで歩き、その肩に優しく手を置きました。薄汚れた少年の肩に、少女の白魚のような手が乗せられている様は、絵画のように芸術的なものでした。そうやって肩に手を置いたまま少年の顔を覗き込んだ少女の顔は、見る見るうちに可愛らしい笑みへと変わっていきます。
表現する言葉が存在しないのではと思わせるほどの嘆きに満ちた少年の顔は、少女の心を大いに潤してくれました。
血は灼熱に焦がされたように熱く燃え、脳髄は冷水のような清清しい快楽に満たされ、息もできないほどの恍惚が少女を襲いました。
天使にも見紛うほど美しい笑みに、思わず見蕩れてしまいそうになった少年ですが、肩から流れる一筋の血によって眼前に在るは悪魔だと理解しました。
少女の爪が食い込み、肩から出血してしまったのです。
もちろん、少女もそうしようと思ったわけではなく、あまりの甘美に力が入ってしまっただけなのです。それほどまでに、少女は歓喜に打ち震えていたのです。
一頻り恍惚に酔いしれた少女は、抱いて当然とも言うべき疑問をぶつけました。その瞳には、もはや少年しか映っていません。
「多くの人間、取り分け若い男は性的快楽を求める生物であるのに、どうしてお前はそれを悪と断じ、そこまでの怒りを抱く? 子を成すための行いが、悪徳であると考えているのか? それとも、快楽のためだけの性交が許せぬか?」
「……そのどちらでもございません。彼らは戯れの一環として、あろうことか母と姉を私に宛がったのです」
「近親相姦が罪であるならば、歴史上の支配者の多くは咎人であろう。お前と同じ神を信仰する者の中でも、国家を収める連中はそうやって血を濃くする。お前は知らんのかもしれんが、人民の上に立つはいつの世も気狂いよ。人は信仰と利益の、どちらかを選択することができる。しかし、実際に信仰を選び取る者などいない。端から利を得ることのできぬ立場にいる貧民が、選択の余地もなく信仰に縋ることがあるだけだ」
信仰に縋っていれば、自分を肯定できたのだろう、と少年の顔を覗き込んだままそう言いました。
少女の瞳は黒く、気を抜けば魂を吸い取られてしまうのではないかと思うほどに深い濁りを湛えています。
「姦淫してはならぬ、と言うらしいじゃないか。しかし、父母を敬愛せよとも。お前は母を蔑んでいたのだろう? お前は母の不信心に怒り、自らの手で石碑を叩き割ったのだ。そうしてお前はどうした? お前はどうして、苦難の道を放浪する経緯となった?」
全てを見透かすような台詞でした。既に少年のとった行動を全て予想して、その上で少年の言葉を待つ様子は尋問のようです。
自身の信仰を否定されたような気分で、少年は言葉を発する気になりませんでしたが、黙っていればより辛辣な否定に曝されることは想像に難くありません。それでも言い淀み続ける少年に、業を煮やした少女が再び詰問に入ろうとしたところで鐘の音が響きました。
少年にとって幸いなことに、その鐘は夕食を始める合図だったのです。
幸福、といっても少年がそう感じただけで、実際にどうなのかは不明ですが、それでも神がお救いになられたような気分のまま、夕食を迎えることになりました。
少女は自らの定めた規範を守ることを良しとしました。
少なくとも少年を客人として迎え入れている間は、そうしようと考えていましたし、召使にはそのように命令をしています。
決して少年を慮ってというわけではなく、気分が高揚するあまり危害を加えてしまわぬようにという考えからでした。“博識”の意見により、少年の話を聞く時間は一日に三時間から五時間までという取り決めになっていました。
少年の心が耐えられるであろう時間と、少女の我慢がきくであろう時間。その二つの条件をちょうど満たす時間でした。
いざ夕食の時間になってみると、少女は自分で決めた規則に対して不満を抱きましたが、それでも不平を言って喚きたてるようなことはしませんでした。
むしろ、心に募る不満にすらも喜びの一端を担わせてやろうと、少女は一つの提案をしました。
「私の食す筈であったものを、あの貧民に食わよう」
と、三人の召使に言いました。
その様子を遠目で見ていた少年は、自分を取って食う算段をしているのではと訝しみましたが、少女の本性を知ってしまえばそう考えるのもも無理はありません。
少女の提案を、三人の召使は快諾しました。元より、彼らはよほどのことがなければ少女の意見に従わないことはありません。死ねと命令されたら死ぬ。そういう人材こそ、少女の下では生き永らえることができました。
そのような流れで、飢えを求める少女に代わって、少年が馳走にあずかることとなったのです。
召使によって並べられた色とりどりの食事を前に、少年は思わず慄いてしまいます。本当に自分が口にして良いものなのだろうか、毒が入れられているのではないだろうかと、必要以上に疑心暗鬼になってしまったのです。
しかし対面に座す少女の圧力に屈し、とうとう料理を口に運んでしまいました。
少年にとって、まさに今が人生の分岐点だったのですが、当の本人は数奇な運命の悪戯によって起きた程度にしか思っていません。今いる屋敷が、眼前で微笑む少女が悪意に塗れていると理解していた筈なのですが、ご馳走の心地よい香りは、麻薬のように少年の脳を絡めとってしまったのでしょう。
少年が真っ先に口へ運んだ料理は、皮肉にもアップルパイでした。少女に誑かされ、少年は禁断の果実を口にしてしまったのです。
遅効性の、実に恐ろしい毒が少年の体内に入り込んだ瞬間でした。
「お前にとっては始めて口にする味であろう? 是非とも忌憚のない意見を教えてくれ給え。果たして、お前の味覚は未知のものにどういう反応を示したのか。艱難辛苦の道を歩んだお前に、それを美味いと感じるだけの味覚があるのかどうか」
「確かに、始めて口にするようなものばかりでございますが、私の味覚は歓喜に打ち震えております。たとえ私が貧困に喘いでおらずとも、これほどのものを口にできる者などそうはおりますまい。私の貧相な語彙では到底言い表すことのできない、それでも敢えて言うならば筆舌に尽くし難い、と。私の舌でそれを語る言葉を紡ぐことは叶いません」
あまりに大仰な反応におべっかを使っているのではと思わずにはいられないほどでしたが、少女は特段気分を害することもありません。大なり小なり喜んでいるのであれば、それで十分だったのです。
そうやって、少年に毒を盛り続けることを決めました。
今この時分から、少年にとって屋敷は理想郷となりました。
殺人を犯し、放浪の末に、蜜と乳が流れる土地へ至ったのです。
少女の真意がどうあれ、一日目は平穏無事に幕を閉じ、少年は暖かな布団や甘い布団に包まれて安らぎとともに眠りに就こうとしていましたが、頭の中では一つの質問が巡っていました。
「今口にしているものと、家族の肉。どちらが美味かった?」
自らは何も食べることなく、ただ笑みを浮かべながら少女はそう聞きました。
美食の頂点が、母親の肉であったとは口にできませんでした。
それを誤魔化すことができるか不安でしたが、少女の関心は意外にもそこまで強くなかったようで、殊更に追求してくることもなかったため、少年は事なきを得たのです。
もっとも、少女は事前に少年の生い立ちのほぼ全てを知っていましたから、少年が家族全員の肉を食べたことなど、当然のように知っていたのですが。
何はともあれ、少年と少女は二人とも満足しながら一日目を終えることができました。




