表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

末広町で待つ

駄文ですが、宜しければお読み下さい。

ご意見を色々と伺えればありがたいです。

どうぞ、よろしくお願いします。

 もう20分は待ったわ。一体、いつ迄待たせるの?

 って言うか、今日、一応初デートなんですけど。。。

 そして、ここどこ?末広町って?待つのにも何にもない。

 まぁ、彼の会社はここから歩いて直ぐだそうだし、遅れてるってことは残業してるって事だから、そんなに怒る必要もないんだろうけど、一応正式に付き合い始めてからの初デートだし時間通りに現れるもんだろうと思ってた私が甘かったか。。

 大きい方の通り、中央通って書いてある。こっちは車がビュンビュン通っていて結構広い通り。もう一つの通りは…蔵前橋通りって書いてある。こっちもそこそこの通行量で車が走ってる。その交差点にある銀座線の末広町って駅。

 初めて聞いた、そんな駅の名前。

 私が田舎もんだから知らないだけかも知れないけど、どうみても有名な駅ではなさそう。駅から地上に出る階段は狭いしエスカレーターもエレベーターも何にもないし、地上に出ても交差点の四つ角にコンビニも喫茶店も店も何にも無い。

 何にも無いって言うのは言い過ぎで、銀行、怪しい雑貨屋、インドっぽいカーペット屋、あっ、喫茶店あった。コロラドって書いてある、少し古い感じ。

 何にも無いってのは、私が行って時間を潰す様な所が無いってコト。

 まぁ、この駅は、私の様な世代の女の子が目的として来る場所ではないって事なんだろうな。交差点から中央通を、(こっちは南の方角かな?)を見てみると私でも知ってる電気街。秋葉原。でも私はお呼びでない街。彼は3年前に東京に出て来た時に洗濯機とか掃除機とかアイロンとか電気炊飯器をここ電気街で買ったって前に言ってた。でも、私達みたいな田舎の人間は大きな家電量販店が国道沿いに沢山あるから車で家族で買いに行く感じ。

 ここ秋葉原の電気街も『家電を買いにきました!』っていう感じの人よりも、今流行のオタクっぽいゲームとかアニメとかを探しにこの街に来てる感じがする。

 中央通の北っ側、上野方面を見てみると本当に何も無い感じ。何も無いって事は無いけど、私が用のある場所は無さそう。確か隣りの駅が上野広小路なので、松坂屋デパート?はあるけど、私は行かない、行った事ない。私達世代には用は無い感じ。

 そんな事よりも、さっきから歩道でウロウロ待っている私の前を、大きなリヤカーに畳んだ段ボール箱満載で引っ張って行く人達が沢山通るんだけど、何これ?

 リヤカーが大き過ぎてダンボールを積み過ぎて、歩道を通れない人は堂々と車道をリヤカー引っ張って行く。こんなの初めて見た。っていうか危ない!この人達はこのリヤカーを引っ張ってどこ行くの?そして、この大量の段ボールをどこから持って来るの?不思議過ぎて、ついついジーッと見てしまう。何キロぐらいの重さの段ボールを積んでるのかな?高さ2メートル以上積んでる人もいる。よくあんなに大量の段ボールを一人で運べるな、凄いな。

 そんな事を考えてたら彼が走って来た。走ってる所を見ると一応『悪い!』と思ってるんだろうな。まぁ、初デートだし許してやろう。美味しいもんでもご馳走になろう!

 っていうか、ここから地下鉄に乗ってどこかに行くのかな?それとも、まさかこのまま何にも無い末広町に。。。

 私達も正式に付き合ってから3年経った。正式にって言っても何が正式で何が正式じゃないとか、特別何もないんだけど。一応、彼から『付き合おう』って言われて私が『ウン』と言ってからが正式と思ってる。

 それまでに既に彼と出会ってからは3年ぐらい経ってた。

 彼と出会ったのは友達のパーティー。私は短大を卒業して直ぐぐらいだから、まだ20歳。彼も東京に来て直ぐって言ってたから23歳。私達はそのパーティーで会ったけど、別に何とも無かった。

 彼がそのパーティーに居た事は覚えてるけど、特別な何かが会った訳でも感じた訳でもない。私にも当時、彼氏が居たし、彼にも彼女が居たみたい。別に特別良いとも悪いとも何にも思わなかった。彼も私の事をそんな風に思ったんじゃないかな?でも、それは聞いてないから分かんない。

 初めて出会ったパーティーから数回、似た様なパーティーだったり、ビーチに海水浴だったり、お花見パーティーだったり、そのグループで数回会う事はあった。でも他の友達と同じ感じで『よー元気?』とか『うん。』とか、何気ない会話をした事しか覚えてない。本当に良いとも悪いとも何とも思ってなかった。

 そんな私達が2×2で遊びに行く事になった。いつもパーティーに誘ってくれる友達が西麻布のクラブに踊りに行くから、って誘ってくれて何となく行く事になった。結構田舎に住んでるから東京に遊びに行くのは結構『えいっ!』っていう決意が要るので何でもかんでも誘いに乗る訳ではないんだけど、その時は『えいっ!』っていう感じで行く事にした。

 その時に来てた2×2の2のウチの一人が今の彼。

 初めてゆっくり話した。話したといっても狭くてウルサいクラブの中なので、大きな声で踊りながら話す感じなので、どんな話をしたかは殆ど覚えてないんだけど嫌な感じはしなかった。沢山お酒を飲んで踊った。花金で、もの凄く込んでいて皆んなぶつかる様にして踊っていた。けど彼はドンドン真ん中にいってダンススペースの中心でお酒片手に凄く踊っていた。全然上手い訳じゃないけど。

 朝まで踊ってとっても楽しかった。又来たいと思った。初めて彼の電話番号を貰った。044で始まる電話番号だった。私も彼に電話番号をあげた。

 それから時々2人で会う様になった。いつも居酒屋に連れて行かれた。帰りはいつも浅草の駅迄送ってくれた。浅草のアサヒビール本社のうんこビルの下で彼が『付き合おう』ってイキナリ言って来て、私は何となく『ウン。』って返事してしまった。

 そうして2人が正式に付き合う事になった。

 この3年間、待ち合わせは殆ど末広町駅の交差点辺り、だった。

 この3年間の間に何回この街に来たのか分からない。流石の私もこの街に少し詳しくなった。そして、この街はもの凄いスピードで変わりつつあると言う事も感じる。

 彼の会社は末広町の駅が最寄りの駅。なので毎日この街に通勤しているから、この街の変化について勿論詳しいんだろうけど、たまに来る私の様な人間の方が多少のインターバルがあって変化に敏感かも知れない。

 例えば、彼の会社の直ぐ横には持ち帰り寿司のチェーン店があったが、その後、立ち食いうどん屋になり、その後オフィスサプライの印刷とかを請け負うチェーン店になり、最終的にコンビニになった。3年間前はコンビニを探すのも難しかった。しかし、緩やかにこの街が、少しずつではあるが私の様な女の子にも通う用事のある街に生まれ変わりつつある様な気がする。少し前までは『秋葉原』というとごく少数の人々だけが通う街、悪く言うとオタクとか特殊な人々しか行っちゃイケナイ様な街のイメージがあったが少しずつではあるけど変わりつつある様な気がする。これから、もっともっと、想像もできない様な変化、発展がこの街に起こるとは、この時点ではモチロン私も、誰も想像出来てないだろうけど。

 今日も末広町の交差点近辺で待ち合わせ、という事で彼を待ってる。でも3年前と違うのは、今はセガフレードとか言うお洒落なカフェもあるし、コンビニも近くにあるし、少しぐらい待たされても平気になった。何となく街も奇麗になった気がする。綺麗になったというか、3年前まではあんなに沢山いた段ボールを運ぶオジさん達が、この3年の間に殆ど居なくなってしまった。

 この街について少しは詳しくなった私には何故あんなに大勢の段ボールを運ぶ人達がかつて存在し、今は居なくなってしまっったのか、その理由を知っている。

 あの段ボールを運んでいた人々は、元々は神田青果市場が会った頃に市場で使われた段ボールを纏めて処分場まで運んでお金を貰う、という仕事の為に働いていたようだ。あの頃はまだ建物は残っていたけど、既に神田青果市場は閉鎖されていたので随分段ボールの量も運ぶ人々も減ってはいた様だけど、市場関連の会社が周辺にまだまだ沢山残っていたので、遠くて広い範囲まで段ボールを貰いに行って何とかやっていけた様だけど、愈々そういった市場関連の会社も移転したり閉鎖したりで徐々に貰える段ボールの量も減って行きオジさん達の仕事も成立しなくなったんだろう。

 街の名物というか、景色の一つと言ってもイイぐらいの段ボールを運ぶ人々がこの街から居なくなってしまって、確かに車道を歩いたりするので安全面では良くなった面もあるだろうけど、少しこの街の何かが失われた様な淋しい感じもする。

 淋しいと言えば、お店の入れ替わりもこの3年間で結構あった。私はそんなに頻繁に来る訳ではないけど、彼は殆ど毎日この街のどこかでランチを食べたり残業前に夜食を食べたり、仕事が終わったら飲みに行ったりしている。

 私が知っている、というか彼に何度も連れて行かれて覚えてるお店で無くなってしまったのが、鶏屋という焼き鳥屋さん、三笠といううどん屋さん、加賀屋という居酒屋さんだ。

 鶏屋さんは私達が付き合い出して直ぐの頃に閉まってしまったので、私には殆ど愛着がないが、彼は新入社員の頃から大変お世話になったらしく閉店してしまった後、酷く落ち込んでいた。私も一度か二度程しか行ってないが、どういう焼き方をしているのか、焼き鳥にとても風味があり鶏肉も柔らかくて本当に美味しいと思った。特製ソースをかけて食べるグリル系の鶏肉が載った『鶏サラダ』が絶品で皆んないつもそれを注文していたみたい。あとカクテルというか酎ハイなんだけど、生グレープフルーツ杯って言うのが本当に目の前でグレープフルーツ丸丸1個を絞ってくれて、それを大きいジョッキグラスの注いでくれる。私はこんなに美味しい酎ハイに今まで出会った事がない。そんなお店が何の前触れも無く、夜逃げ同然に無くなってしまったらしい。

 確かに私が行った時に私も感じたけど、決して安い店ではなかった。

 本当に美味しいお店だったけれど、それなりの値段がしたので一人当たり5千円ぐらいの会計になってた。居酒屋で一人5千円というのは私達20歳台の人間には結構キツい。上司とか先輩と一緒で、上の人が多めに出してくれれば何とか行けるけど、私達の世代だけで一人5千円払う居酒屋を選ぶ事はまず無い。

 バブルが弾けて6年?7年?

 じわじわと日本の経済も隅々までダメージが効いて来て、5~6年前までバブルの勢いで浮き足立っていた人達も少しずつ大人しくなってきて、漸く渋々財布の紐をキツく締めざるを得ない状況になって来た様だ。なので、彼が新入社員の頃にはいつも満席だった鶏屋さんも私達がデートで行った時には、他のお客さんは一組ぐらいしか居なかった。『美味しいけど高い店』という認識が広まり、少しずつお客さんが離れていったんだろう。これも時代の流れ、淋しいけど仕方が無い。

 あとの二つのお店は繁盛していたのに、建物の立て替えの為に止む無く閉店、移転という事で、これも淋しいけど仕方が無い事情。

 三笠っていううどん屋さんはまさに家族経営で、彼の出身の関西弁を大声で話すオジさんオバさんが5人くらいでやってるお店。私は夜しか行った事が無いけど、お昼のランチ時には大変な混雑らしく、しかも十一時過ぎに早飯で行く人から、2時3時に遅飯で行く人まで、結構お店が開いている間中急がしそうにやっていたみたい。流石に私達が行く夜は落ち着いていて、残業前に腹拵えをするサラリーマンや、夜勤前に晩ご飯を済ませるタクシーの運転手さん、仕事帰りにビールや日本酒を飲みながら丼ものを食べるお偉いさん達が数人いるぐらいだった。

 ここに来ると、彼はいつも裏メニューを薦めて来た。

 今でも覚えてるのは、天丼とカツ丼を両方食べたくて決めかねてる時に頼んで作って貰った『天カツ丼』。これは相当美味しそうに見えた。あと冬の寒い時に皆で提案して作って貰った『おじやうどん』。おじやっていう言葉は初めて聞いたけど、こっちで言う雑炊と同じ。要は冬の寒い日に鍋焼きうどんを食べたいけど、それだけでは腹持ちも悪いので、ご飯を入れて貰って完成!っていう裏メニューみたい。

 この三笠さんと彼の会社の社員の間では他にも沢山裏メニューがあった様で、そういった社員の皆んなの提案を気軽に聞いてくれる様な強い信頼関係があるぐらい深くて長い歴史がお店と会社の間に培われていたみたい。何十年間の歴史があったのか、私は知らないけど、何だか素敵だなぁと思った。私も初めて三笠さんに連れて行って貰った時に彼が『僕の彼女です。』とお店の人に言ったら、オジさんもオバさんも代わる代わる話し掛けて来て、彼もとっても嬉しそうに私との出会いの事や色んな話をしていた。とっても素敵な明るいオジさんオバさん達で、麺類も丼物も美味しくて素敵なお店だなぁと思った。

 そんなお店が建物の立て替えの為に無くなるなんて、本当に淋しい話だ。仕方ないんだろうけど。あの明るいオジさんオバさん達が今もどこかで新たにお店をやられてたら是非行ってみたいと思うけど、彼は知らないみたい。

 加賀屋さんって言う居酒屋さんは、あちこちにあるのでチェーン店みたいな感じなので一つぐらいお店が無くなっても淋しいという事は無いかも知れないけど、彼が大の加賀屋さんフリークで、私達のデートは半分以上は加賀屋さんに行っている。

 というか私は全然加賀屋さんなんかに行きたくないんだけれど、彼が強引にいつも連れて行くので仕方なく付き合ってる感じ。

 ホッピーなんて全然美味しくないし全く飲みたくないし、モツ煮込みもスタミナ焼きも全然好きじゃない。まぁ、大嫌いまでは行かないけど、もっと他の美味しいものを飲みたいし食べたい。でも、いつも彼に連れて行かれるのは、彼の会社の裏の方にある線路沿いのビルの地下にある加賀屋さん。ヒドい時には『加賀屋さんで待っといて!直ぐに行くから。』という事で、一人で先に入って生ビールを飲みながら待たされた事も何度か。。。30分から1時間待ってると残業の終わった上司、先輩、同僚を沢山連れて来て一緒に飲む羽目になった事も何度もあった。

 これって、デートって言うの??

 私も、沢山の人と賑やかに飲むのが好きだから、全然構わないし楽しいんだけど、これって一般的にはデートって言うのかな?と冷静に考えると不思議な感じもする。あと不思議な事に加賀屋さんに行くと、必ず閉店まで店にいるよなー絶対に。絶対に最後の客になる迄、途中で帰ったりするのを見た事が無い。絶対にお店の人に『そろそろ閉店なんですがー』と言われる迄、帰ると言う考えが無いみたい。下手すると、もう直ぐ終電なのに誰かが『次行こう!』『もう一軒!』と言うと、家に帰れなくなるのに、もう一軒飲みに行ったりする事も頻繁にあったようだ。

 流石に今は市外局番044の所に住んでいるのでタクシーでは・・・帰れないので私が一緒の時には最悪でも終電で間に合う様に一緒に帰ってるが、私が居ない時、一人で飲みに行ってる時は結構ヒドい状況らしい。でも、ここに彼の勤めている会社のカラクリがあって、社員の皆さんはなかなか良い飲みニケーションが取れているそうだ。このカラクリについては後で話そう。

 私も会社勤めの経験はあるが、田舎の食品メーカー勤めだったので車通勤だったし、そもそも会社が終わってから社員同士で『飲みに行く』という文化は皆無だった。私の廻りの地元の友達の間でも、仕事が終わってから会社の人と一緒に飲みに行く、と言うのは殆ど聞いた事がない。一度家に帰ってから友人知人と近所に飲みに行く事はあっても、会社帰りに会社の近くで飲んでからと言うのは、社員の送別会とか新入社員の歓迎会とか、よっぽど特殊事情が無い限りはあり得ない。

 まぁ、これは単純に車通勤か電車通勤かと言う問題もあるかも知れないが、長年の地方の会社の文化、歴史、例えば残業とかも殆ど無く、晩ご飯は家に帰ってから家族と一緒に食べるのが常識とか、色々とあると思う。

 とにかく私は、彼と付き合う様になって、彼が毎日の様に飲み歩く事に少々驚き、お金の心配もあるけど、身体の心配もする様になった。結構、残業の多い仕事というか会社で、それでなくても遅いから真っ直ぐ帰れば良いのに、更に飲みに行くと言う。。。しかも、さっき迄、会社で一緒に仕事をしていた上司や先輩と更に飲みに行くなんて、どんだけ仲が良いの?と不思議だった。

 でも、彼とデートの予定で私が末広町の駅で待たされて、彼が遅れてやって来て、結局『加賀屋』に連れて行かれて、2人で飲んでいると後から彼の上司や先輩が合流して結局一緒に飲む。。。みたいな事が度々あって、私も何となく何故彼らがそんなにしてまで一緒に飲みに行くのか、理由が少し分かった様な気がした。

 彼らは本当に仲がいいのだ。上司も部下も先輩も後輩も、お互いが大好きなんだ。皆んなで飲んで話をするのが、とにかく楽しいのだ。

 私は映画やテレビのドラマやコマーシャル等で、サラリーマン同士が飲みに行くのは、上司の悪口や、仕事上の愚痴、ストレス解消等、マイナスイメージを持っていたが、彼の廻りの人達は本当に明るい酒というか、とにかく日々の楽しい生活や将来の夢の話、過去の失敗やトラブルもネタにして明るく笑い飛ばしながら、明日への活力を得る為にひたすら毎日毎日飲みに繰り出しているのだ。こんな生活はお金と時間の無駄だ、という考え方の人も多いと思う。むしろ絶対多いと思う。私も、毎日毎日飲み歩くなんて、なんて馬鹿な人たちだろうと思った。

 付き合って直ぐの頃は理解出来ずに彼と喧嘩も沢山したし、別れよう、と思った事も何度もある。

 でも実際に彼が上司や先輩と飲んでる席に同席して横で話を聞いてると、というか聞いてるだけでなく私にも皆さんドンドン話し掛けて来て、気が付いたら彼とは全然話をしていなくて、彼の上司の部長さんや課長さんと真剣な話をしている、なんて事もあった。最初のウチは、そんなに年の離れた全く関係のない会社の人達と話すのは緊張もしたし、ハッキリ言って嫌だった、楽しくなかったけど、回数を重ねているウチに少しずつ緊張しなくなり、もう今ではすっかり私も飲み会メンバーとして定着してしまった感すらある。とっても不思議な感じ。

 地元の友達とかに、彼との東京でのデート、というか結局彼の上司とか先輩を交えてのデート?飲み会?の話をすると、皆んな口を揃えて『信じられない!アンタそれでよく平気だね!?』と不思議がられる。確かにそうかも、一般的には信じられない事かも知れない。

 しかし、そんな事を3年も続けていると、完全になれてしまったし、どんどんエスカレートして深みにハマって来ている感もある。もっともっと、上司や先輩の方々との関係が深まって来ている。

 今から思うと何故??と思う様な出来事だけど、付き合って未だ半年ぐらいの頃、彼の上司、部長さんの横浜の新築のお家の引っ越しのお手伝いに行かされた事があった。

 未だ付き合って間も無いし、その頃は上司の方々や先輩の方々ともそんなに面識も無く『何故、私が??』とクエスチョンマーク100個ぐらい頭の上で点滅していたが、これも彼の出世の為?と渋々了解し横浜まで着いて行った。彼と同じ部署の先輩が3名ぐらい来られてたけど、手伝いに来てた女性は、なんと私一人!

 騙された!と思った!!

 しかも、特に女性で運べる様な荷物もなく、具体的にお手伝い出来る様な内容もあまり無く、殆どの時間は手持ち無沙汰で、部長さんのご家族や、先輩方とお話する時間の方が長かった様な気がする。これも、最初から分かっていた事、仕組まれていた事なんじゃないかな、と今なら思える。付き合って未だ間も無い私達がどんな感じで過ごしているのかを知りたかったのか。或いは部長の新居を見たり、ご家族と会って、今後の将来の生活を考えるキッカケとなれば良いとか、これはちょっと考え過ぎかな?

 でも、どう考えても先輩の奥さんも彼女も誰も手伝いに来てないし、私なんて全く必要とされてない引っ越しのお手伝い。。これは誰かの陰謀か何かとしか考えられない!

 そして彼の会社関係の方々のお宅に行くのは、これは只の始まりに過ぎなかった。。。

 丁度、私達が付き合い出した頃が、彼の先輩方の結婚ラッシュの時期で、交友関係の広い、というか飲み友達の多い彼は色んな先輩方の結婚式や二次会に呼ばれて忙しそうだった。

 というか、お人好しの彼は頼まれると言うか、率先して先輩方の二次会の幹事を引き受けて会場選びから参加人数の把握、宴会のプログラム打合せから司会まで、忙しい仕事の合間を縫って何件も何件も重複して同時進行で進めていた。仕事でも何でもないのに。

 すると当然の様に私達の週末のデートの時間に、先輩方の二次会の段取りや諸々が影響して来た。時には会場選定で銀座や渋谷、新宿や六本木の、街の端から端迄、二次会が安く出来そうな大箱の飲食店を実際に見て、予約状況と予算を確認してパンフレットを貰って『検討して又、連絡します!!』と繰り返し言って歩く。多い時には軽く10件以上、歩いて回ったと思う。何故か私も一緒に。

 今でこそインターネットがあるので、いちいち歩いて回らなくても店内の写真が見れたり、店の評判等もネットで調べれば簡単に分かるけど、当時は雑誌や飲食ガイド本の小さな写真ぐらいしか無く『実際に店に行って見ないと分からない』という彼の主義の元、何故か私も週末のデートと称して二次会会場探しに付き合わされた。足を某の様にして歩き回った挙げ句の果てに連れて行かれるのは『加賀屋』か似た様な居酒屋さん。。。今迄、探して歩いた二次会会場はお洒落な大箱のレストランとかなのに。。。

 こんなの絶対にデートじゃない!!と思いながらも、上手く調子に乗せられて、嵌められて、気付いたら街の端から端まで歩かされて『一体私何やってるんだろう。。』と何度思った事か。本当に嫌だった。謎だった。

 しかし、二次会会場の下見の後、先輩カップルに写真を見せながら、どの会場を予約するかを選定する打合せの際に同席したりすると、幸せそうに嬉しそうに会場の写真を見る先輩カップルを見て、苦労が吹っ飛ぶ気がした。出欠の返事を取る為の往復はがきに宛名を書いたり、二次会で使う飾り付けやプレゼントを買い出しに行ったり、色んな事を手伝わされたけれど、最終的には二次会に出席して幸せそうな先輩カップルのお顔を見て、出席したお友達や親戚のお顔を見て、全ての労力が報われて『お手伝いして良かったな。』と心の底から思った。

 結婚式を挙げられた先輩カップルは、その後10日間だったり、2週間だったり新婚旅行に行かれる。そして新婚旅行から帰って来て、新婚生活も落ち着かれた頃、必ずと行って良い程、私達カップルが先輩方の新居に招待された。

 結婚式や披露宴、2次会、3次会、4次会、5次会・・・の写真やビデオを見て大笑いし、新妻奥さんの美味しい料理をお酒に舌鼓を打ち、新婚旅行のお土産を頂きながら旅先でのアクシデントやトラブル、ビックリする様な話を聞いて、明け方まで大笑いしながら宴が続く、という経験を何度もした。

 先輩方も、奥さん方も、本当に気さくで明るい方ばっかりで、こんな私や彼をまるで家族の様に新居に迎え入れて下さって、至れり尽くせりの歓待をして下さる。本当に楽しかった。田舎で親戚のウチや友人の家に遊びに行く事はあっても、新しく家庭を持ったばかりの新婚夫婦の新居に遊びに行く、という経験は私の人生にとっても初めてだったし、しかも、2次会の段取りやら幹事やらを全てお手伝いした上での歓待という事で、本当に感謝されつつの新居訪問、特別の経験だったと思う。ただ単なる先輩後輩という関係を超え、何か永遠に続く家族の一員の様な印象まで抱いてしまった。

 大抵、一度だけの訪問に終わらず、2度、3度とお邪魔する事になった。中には直ぐに奥さんがご懐妊され、第一子が産まれた新居にお邪魔し、産まれたての赤ちゃんを抱っこさせて頂く事もあった。今まで、あまり自分にとっては現実的でない『結婚』というものが、少し身近に感じられ『もし自分だったら…』と置き換えて考える事も多くなった。

 そうこうするウチに先輩方の結婚ラッシュから、彼の同僚、同期の結婚ラッシュを迎える事になる。先輩方の時と同様に、2次会会場候補の下見から選定、招待客のリスト作成から招待状の送付、当日の宴会のスケジュール、プログラムの作成から出し物の仕込み、装飾物や商品の買い付けから飾り付け等、先輩方の二次会の数々の経験を踏まえ、段取りもスピーディーに確実にこなせる様になっていた。

 しかも、同僚・同期の殆どが私達の出会ったパーティー以降、何度も一緒に飲んだり遊びに行った仲間の結婚だったので、本当に信じられないぐらい時間と手間隙をかけて、仲間の一生に一度の晴れの舞台の為に頭と身体を使って準備に勤しんだ。

 ここ迄やらなくても良いのに・・・と、思う事も何度もあった。

 アカペラやコーラスでお祝いの歌の練習の為に、何度も何度もカラオケボックスに通って練習したり、新郎新婦の出会いから結婚迄のエピソードを映像化する為に東京都内を駆け回って本格的な映画撮影の様にロケで動き回ったり、新郎新婦の最高の結婚記念写真を撮る為にわざわざ信州、長野県まで写真撮影に行ったり、お金を掛けないで思い出深い舞台演出をする為に高校生の文化祭並みに手の混んだ段ボールアート作品を幾つも作ったり。。。

 皆んな、本気で仲間の結婚を祝う為に時間、労力、お金を厭わず、心の底から喜んで準備を楽しんでやっていた。

 不思議だった。何故、そこ迄やるのか?何の為に?今から考えると、多分答えは至ってシンプルだと思う。

 心の底から楽しいからやっている。やりたいからやっている。誰かに頼まれたとか、指示されたからやっているのではなく。。。本当に純粋に楽しいから、やりたいから。

 これは、恐らく、分かる人には分かるけど、理解出来ない人には理解出来ないんだろうと思う。一見、全く無駄とか無意味に思える様な、時にはくだらない演目や準備の為に何百キロも車を運転して行ったり、段ボール箱をカッターで切っては絵の具を塗り舞台用の作品を作ったり…

 全ては新郎新婦の笑顔を見る為、二次会の参加者の皆さんの笑顔を見る為、仲間の一生に一度の門出を祝福する為…当然の様に労力を厭わず協力した。

 彼に巻き込まれて数々の先輩方の、同僚・同期の結婚式の二次会のお手伝いをし、その後の新婚家庭とも親しくさせて頂く事になり、自分自身の結婚もかなり意識する様になった。しかし、肝心な自分達自信の結婚や将来については、全くと言う程、話が進まなかった。

 と言うよりは、人のお世話というかお手伝い諸々に忙しく、自分達の話をする余裕というかゆとりが全く無かった。一人の先輩の二次会がやっと終わったと思ったら次の先輩の段取りが始まり、先輩方の結婚ラッシュが落ち着いてほっと出来るかと思ったら今度は同期・同僚の結婚ラッシュが始まり、あっと言う間に全ての週末は段取り、準備、本番、というサイクルで埋まって行った。

 幸いというか、私の年齢は未だ未だ結婚適齢期よりは若かったので、私の廻りの友人達も殆ど未婚で結婚の予定の話とかも聞かなかったので、焦りも何にもなかったが、ただ単純に彼の先輩や同僚・同期の余りにも素敵で幸せそうな新婚カップルを見るに付け、『私はどうなるんだろう?』と単純に思う様になったし、今、付き合っている『彼と私はどうなるんだろう?』『彼は一体全体、どう考えているんだろう?』と時々考える様になった。

 彼が先輩や同僚・同期の結婚式の二次会の準備や手伝い以外、上司や先輩が同席しない所謂世間一般では普通の二人きりのデートの時、よくよく考えると二人きりのデートの回数が如何に少なかったか驚くが、そういう貴重なデートの際でも話題は上司や先輩、同僚や後輩の面白い話、エピソード等で終わってしまう事が殆どだった。とにかく彼の廻りで日々発生する出来事が面白過ぎて、それらを一つずつ一部始終聞いているだけであっという間に時間は経ち、自分達自身の今後や将来について語り合う時間も、雰囲気も、流れにも全くなる事は無かった。

 恐らく、彼は彼なりに色々と考えてはいるんだろうけど、あまり自分のやりたい事、将来について語る事はしなかった。目の前にある仕事や、計画について、具体的にあーするこーするという話はしてくれても、例えば、自分の将来像とか将来の夢とか、例えばどういう家庭を築きたいとか、こんな生活がしたいとか、そういった話は聞いた事がなかった。

 これは相手が私だからそういった話をしないのか、家庭を持つとか、結婚相手として私は対象外だからそういった話をしないのか、その辺りの心境というか気持ちも全く計り知れない感じだった。単刀直入に質問したところで、彼のつかみ所の無い独特のトークで上手い事はぐらかせる事必至なので、私からそういった無駄な努力はして来なかった。

 しかし、ある日、二人ともストレスがいつも以上に蓄積されていたのか、はたまた普段以上に気分が良かった為か、二人ともいつも通り以上に酔っ払って気分良く盛り上がっていた時に、酔いに任せて思い切って彼にストレートに『私達、どうなるのー?』と聞いてみた。すると、同じく酔っ払った彼の反応は『そりゃー、なるうようになるでしょう~』と、全く何を考えているのか分からない反応だった。聞いた私が馬鹿で、思い切り損した気分になったのを強く覚えている。

 彼は、そんな感じで、強く私を引っ張って行く事も無く、あの浅草のうんこビルの下で『付き合おう』と言ってくれた3年前のあの日以降、私達の関係や将来について、次のステップや、今後の計画、未来、その他について具体的でも抽象的でもざっくばらんにでも微に入り細に入りでも語ってくれる事は全く無かった。

 意図的にはぐらかそうとしていたのか、それとも本当にそちらの方面の事には関心も興味もなかったのか、ただのバカなのか、私には分からない。ただ、私には『そりゃー、なるようになるでしょう~』という返答だけでは間違いなく物足りなかった。しかし、結構楽天的に考える私は深刻に考えたり悩んだりする事はなく、相変わらず時々田舎から出て来ては末広町の交差点近辺で待ち合わせをし、すっかり常連になった加賀屋秋葉原店(閉店してしまった加賀屋さんとは別の店)で浴びる程のホッピーを飲まされる生活を続けた。

 彼の先輩方の結婚ラッシュも終わり、同期・同僚の結婚ラッシュも終わり、以前の様な静かな週末が訪れる様になった。静かになった分、今度は彼の週末が仕事で度々埋まる様になった。

 それ迄は彼から仕事の話を聞く事も殆ど無かったし、彼は仕事を真面目にしているのか、会社での彼の実績や評価がどんなものなのか全く知る由もなかった。でも今年の一月に彼の会社での新年会の際に、ある出来事があり、その結果、彼の部署が替わり、週末にも結構な確立で仕事に行く様になった。彼も入社して7年?8年経って、会社の中でもそこそこの中堅社員となったのが原因なのか、突然やる気を出したのか、はたまた新しい部署での上司がキビシい人で週末にも仕事をさせられているのか、その辺りの状況は不明だった。

 しかし、とにかく、今迄は週末に仕事をする、休日出勤なんて殆ど聞いた事がなかったのに、確実に増えた事は確か。

 新年会の後の出来事も、本当にそんな事で会社での配属部署が変わるの?と半分冗談だと思っていたが、4月の新しい期が切り替わるタイミングでそれは現実の事になったみたい。

 彼の会社は大体1月の4日が新年最初の出勤日だけど、取引先の企業は5日からだったり6日、7日だったり、会社での新年の社長の挨拶の後、取引先への新年の挨拶回りに行きたくても相手の会社がやっていないので、仕方が無く午後からは時間を持て余す事になる。ある先輩社員方は、ランチタイムから生ビールを飲み出し、新年の抱負を語り合い、正月休みに起こった面白い出来事について自慢し合い、そのまま新年会の宴会に突入する、という人達も居たり、彼の仲良しの先輩方は浅草の場外馬券場で今年初の競馬レース『金杯』というレースの馬券を買い、近くの屋台で結果を待ちつつビールを飲みつつ、レース結果を待つ、という人達がいたり、数百人の社員が東京都内の各地に散り散りに散って、あちこちで昼間からビールを煽っては、三々五々、夕方の神田明神にお参りに集まり、誰かが押さえた居酒屋の座敷で非公式な新年会が始まる、というお決まりのパターンの様だった。

 各部署での公式な忘年会というのはちゃんとあって、各部単位だったり、各課単位であったり、もっと大きな統括部とか事業部単位だったり、それは毎年各部署の方針というか気まぐれで変わるようだった。私も流石に公式な会社の忘年会なので参加する事はなかったけど、忘年会の後の2次会や3次会から乱入というか、呼ばれて参加する事はあった。その年ごとに忘年会の宴会の大きさというか規模はまちまちだったと記憶している。

 それに比べて新年会は全くの非公式というか、基本的には会社の部署単位で集まるとかは伝統的に無い様で、好きなものが好きなもの同士集まって飲む、という感じだったみたい。それも特に何時からどこで、みたいなのも決まって無い様で、神田明神の辺りの居酒屋を早めに入って押さえた所に皆んなが集まって来る、そういうスタイルの新年会が通例だったみたい。

 今年の新年会も、そういった感じで彼も先輩方と一緒に既に集まった会社の様々な部署の人達に混ざって、飲んで騒いで、気持ち良く酔っ払ってたんだろう、いつもの様に。しかし、今年の新年会に参加している、ある部長さんの一言である意味彼の人生が変わったかも知れない。その部長さんは何を思ったか、宴もたけなわの盛り上がったタイミングで新年会場にいる皆んなの前で、

 『来期、俺の部署に来たいヤツ、手を上げろ!』

と叫んだらしい。そこに参加してる人は皆んな先輩とか上司と一緒に来てるので、もし本当にその部長さんの部署に異動したい人がいても先輩や上司に遠慮して手を上げるのは常識的に考えて難しい筈。

 でも、そこで泥酔していたのか、或いは全く何も考えていないのか、特にその部長と親しい訳でも無い彼は思いっ切り、

 『ハイッ!』

と手を上げたらしい。でも、まさかそんな宴会での戯言みたいな話が現実になるとは彼自身も、宴会のその場にいた皆んなも思わなかったと思うけど、4月にはそれが現実となり彼はその部長さんの部署の配属に変わった。

 私も詳しくは知らないけど、彼の会社は色んなお店を作る事に纏わる仕事らしい、というぐらいしか認識はなかった。時々、彼の会社とか先輩が携わった店の前を通る時に『これ、ウチの会社がやった店』と紹介してくれる事はあったが、彼の担当した、とか彼の実績、という仕事には巡り会った事がなかった。今から考えると、私に自慢出来る様な仕事が無かったのかも知れない。

 休日出勤する彼は会社で仕事をする事もあったけど、時々、ただ単に新しく出来た店の見学というか偵察に出掛ける事も多かった。こんな時はデートも兼ねて私も着いて行く事が多かった。東京都内に出来た新しいデパートやショッピングセンターを見に行って、フロアガイド片手に隅から隅まで歩き回る。こんな事が毎日仕事になるなら私もやりたいー、と思うぐらい、この休日出勤の偵察の仕事は楽しかった。流石に端から端まで見て回るだけでは飽き足らない私は、お気に入りのブランドのアパレルのお店があったりすると、彼の休日出勤のお伴のお礼に、彼におねだりして何かしらゲットするという幸運に恵まれる事もあった。

 新しい部署に配属になった彼は明らかにどこか変わったと思った。『仕事』というものに真面目になったというか真剣になったと言うか、それまでとは全く印象が変わった。でも相変わらず加賀屋も好きだし、ホッピーも好きだし、飲みに行ってるようだけど、それ迄に殆ど意識する事のなかった仕事に対して今更ながら真面目に打ち込み出したという感じか。それでも最初のウチは殆ど偵察というか視察というか勉強という感じだったけど、徐々に『どこどこの会社にどこどこのブランドを紹介する~』とか、『どこどこの百貨店にどこどこの店を提案する~』とか、私でも知ってるブランドのお店を知ってる駅の何処かにとか、私でも具体的にイメージ出来る話をする様になった。

 しかも、この頃の彼はそういった仕事を楽しんでやっている様に見えた。三十歳も超えたので、真剣に仕事に打ち込むのは当たり前かも知れないし、いやいや、今まで何やってたの?今更遅いよ!と突っ込みが入るかも知れないけど、確かに今までの彼には無かった仕事に対する真剣さか、楽しさか、どちらでも良いけど私は少し嬉しかった。パーティーで出会って、何となく付き合い出して、ずっと常に遊ぶ事しか考えていない様な彼だったけど、漸くと言うか今更と言うか、仕事に対して働くと言う事に対して真剣に打ち込み出した姿に少し誇らしく思う自分がいた。

 具体的にどんな風に仕事をしているのか、見た事はないんだけど、少しずつ進んで来た仕事の状況について私にでも分かる様に、少しずつ話してくれる時があり、頑張れーと陰ながら応援していた。

 中でも、私でも良く知っている若い女の子向けのバッグのブランドのお店の仕事が出来た時、彼は嬉しそうに私をオープン仕立てのお店に連れて行ってくれて三つ折りのお財布を買ってくれた。このブランドは全然私の好みのブランドではなかったけど、彼が余りに嬉しそうにハシャイでいるので有り難くお財布は頂いて、時々使っている。

 こんな風に彼の頑張りが少しずつ具体的に成果となって現れて来ると、彼の仕事での行動範囲が広がって来た。今までは東京都内や関東一円から外に出る事など無かったが、少しずつ『出張』という事も聞く様になった。

 これも私には嬉しい事で、田舎ものの私は余り旅行に行く事もなく、家族旅行とかも成人してからは殆ど行く事もなく、何となく東京と田舎の往復を繰り返すぐらいしか無い生活をここ数年続けて来た。なので出張に行く彼が、しょーもない物でも、殆ど食べるものが多かったが、お土産に買って来てくれる事がとても嬉しかった。最初のウチは、一つの小さなお店を作る事が彼の仕事だと思っていたけれど、段々彼の仕事が大きくなるというか、お店の集まるショッピングセンターとか駅ビルとか地下街とか、そういった全体の仕事が彼の担当になっていくのが私にも分かった。

 それでも相変わらず、仕事帰りの平日にデートの待ち合わせには末広町の近く…といってもこの頃の私は誰にも負けないぐらい末広町通というか、駅近辺の事情、穴場、時間の潰しどころに関して情報が沢山あったので駅近辺で待つ事も殆ど無くなっていた。そして、この駅の廻りの状況も、猛スピードで変わりつつあった。

 かつてのやっちゃ場、神田青果市場の跡地には、高層ビルの建築準備が進み、JRの高架下には新しいお店や、商業施設っぽいものも出来始め、秋葉原の電気街も、もはや電気街というよりは最先端のデジタル製品とオタク文化、海外からの観光客の観光コースにも入る様な混沌とした正にカオスな街へと変わって行った。そして私達には見えない地下深くでは茨城県の筑波と秋葉原を結ぶ『つくばエキスプレス』という電車も工事も始まっていた。

 しかし、これら目に見えた計画以外にも、誰もが全く予想すら出来ない様な出来事が、この秋葉原という街から発信される事になる。このオタクの街からデビューしたアイドル歌手グループが、数年後には日本の歌謡曲のヒットチャートの大半を占める事になろう等とは、誰一人、占い師も予言者も予想出来なかっただろう。

 それ程、私がいつも待ち合わせで待たされた末広町近辺、秋葉原界隈のここ10年は劇的な変化を遂げていた。

 それに引き換え、私達、私と彼との関係は、ここ10年の間、殆ど変化しないと言うか、変わらないというか、安定したと言うか、この先どうなるのか全く読めない関係が続いていた。

 しかし、彼の上司や先輩、同僚・同期、後輩の皆んなと相も変わらず飽きもせずに加賀屋に連れて行かれては、色んな楽しい話をして妙な安心感というか、何の保証もないのだけれど、多分この先大丈夫だろう、という幻想なのか妄想を抱いていた。彼が会社でどんどん実績を挙げ、大きな仕事を任されて、更に大きな仕事をこなして行く姿を見て誇らしく思うと同時に私も頑張らなければ、と自分に発破をかけ、自分なりに色んな事にチャレンジする様になった。

 そんな私達にも、漸く変化というか、本当の安定というか、転機がもう直ぐやって来るとは全く想像していなかった。少なくとも私は。

 彼はその頃、どう考えていたのだろう?何か計画とか、予定とか、あったんだろうか?

 私達は2001年の11月22日に結婚した。

 二十一世紀の幕開け、バブルも崩壊して10年ぐらい経っていて世の中の景気も良いのか悪いのか何だかよく分からない感じだったけど、世界中が新しい世紀の幕開けで何となく目出度い感じだった。私達もそんな目出度い時代に便乗して結婚する事になった。

 彼が三十三歳、私が三十歳という、早くもなく遅くもなく、丁度いい様な悪い様な年齢で結婚する事になった。彼の先輩や同僚・同期の結婚ブームはとっくに終了していたので、皆んなの間では久々の結婚という感じだった。どちらかというと彼の後輩がそろそろ結婚ブームを迎えて、という時期だった。

 私の友達は早い子は田舎なのでとっくに20歳台そこそこで結婚してしまってたけれど、どちらかと言うと私の友達は遅く結婚する友達が多かったので、未だ全然予定も立ってない…果たしてこの子、将来結婚する期があるの?と言う友達も多かった。なので、私の結婚式の時期も遅い様な早い様な、なんだか中途半端な時期だった。

 私達も出会ってから9年、正式に付き合い出してから6年と、結構長い間付き合ってからの結婚の部類に入るかも知れないけれど、もっと長い間、学生時代から付き合って結婚する友達もいるので、決して長過ぎる訳でも無い感じ。私の兄なんかは中学生の同級生と結婚したし。

 しかも、何故、今?という決めても私には良く分からなかった。彼なりに考えた結果、『今だ!』と思ったのかも知れないし、誰かに背中を押されたのか、お尻を叩かれたのか、私には分からない。

 ただ、その日は、その瞬間は突然やって来た。

 いつもの様に、浅草の駅まで送ってくれた彼は、別れ際の東武線の改札前で突然言い出した。

 『結婚しようか。』

 余りにも突然で、余りにもムードもへったくれもなく、余りにも予想外で、私も正直返事のしようが無かった。

 『えっ?』

 プロポーズの返事に対して『えっ?』という答えが一般的かどうかは知らない。

 でも人間、余りにも唐突な状況に対しては驚きの『えっ?』と答えるのが精一杯だと思う。私も人生に一回きり?の結婚に対するプロポーズに対して、もっと気の利いた返事をしたかった。でも、彼の余りにも突然の余りにもお膳立ても何もありゃしないシチュエーションに対しては余りにも無防備で余りにも返事に対する準備が無かった。

 しかし、この時をどれぐらい待ち望んでいたんだろう。

 五年ぐらい前から彼の先輩方の結婚式の二次会の手伝いを始め、結婚式の後、ハネムーンの後、先輩方のおウチに招かれて幸せそうな写真やビデオを沢山見せて貰って、数年したら可愛い赤ちゃんに会いに行って、抱っこさせて貰って、いつか私も、いつか私もと思い続けて…

 三年ぐらい前からは同期や同僚の結婚式ブームが始まって、先輩方の結婚式のお手伝いをしていた時期よりもより強く、いつか私も、いつか私もと思う様になって…。

 でも彼からは一向にそういう雰囲気も、そういう話もなく、何故今、突然、こんな所で今、別れ際に?

 ひょっとして発作的に思い付いた?

 突然思い付いて言ってみただけ?

 一生に一度の大きな決意を伴に、ちゃんと覚悟して腹を括って言ったの?そのプロポーズの言葉を?

 『結婚しようか?』

 もう10分で最終の特急が出るので余りにも時間が無さ過ぎる。『えっ?』と言った私の反応の後、私も彼も3分は黙ったままだ。本当にこの3分は長く感じた。何か次の台詞を言ってよ、次の台詞を。私は『えっ?』の後の言葉が出て来ない。いっそこのまま今晩は帰ってしまおうかな、と思った。

 この時を待ち望んで、待ち望んで居過ぎたので、唐突過ぎて言葉が出て来ない。

 『うん。』『ありがとう。』『しよう。』『分かった。』どの言葉もしっくり来ないし、何かタイミングというか答えるキッカケを失ってしまった。もう一言、次の言葉が欲しい。何か言ってよ。

 漸く彼が言ってくれた。

 『どう?』

 どうって、どうって、いや、答えは決まってるんだけど、何せずっとこの瞬間を待ち続けたんだから、でも、でも、余りにも東武線の改札前というシチュエーションがあり得なさ過ぎて言葉が出て来ない。

 絞り出す様な声で私が言葉を無理矢理言葉を絞り出した。

 電車があと3分で出てしまうから、無理矢理…。

 『うん。』

 『良かった。宜しく。』

 『うん。』

 『じゃぁ、バイバイ。』

 『バイバイ。』

 特急りょうもう号の電車の中で、茫然自失の状態のまま家に帰った。

 家族にどんな話をしたのか覚えてない。どんな反応だったかも覚えていない。多分、私の様に余りにも突然の話だったので驚いてたんだろうと思う。

 でも、何故、その日だったのか、何故その場所だったのか、全く意味不明ではあったけれど、私達は来るべくその日に向けての準備を始めるのだった。約一年掛かりでその日の為のあらゆる事を。

 それまで数え切れないくらい先輩や上司、同僚や後輩の結婚式や二次会の段取りのお手伝いをして来たので、当の本人の結婚式について私達は本当に時間と労力を費やした。

 でも、これは本当に楽しんでやったと言い切れる。当時、流行の結婚情報誌も幾つかは買ってはみたものの、やはり自分達自身の足で見て、目で見ると、流行の式場やドレスよりも、自分達の好みは明らかに違っていると感じた。まるで私達の待ち合わせ場所がいつも末広町だった様に、いつものデートの場所が加賀屋だった様に。

 数ヶ月の間、数え切れないくらいの結婚式場、ホテルだったり結婚式専門の施設だったりレストランウェディング用のレストランだったり、本当に情報を集めては見て回った。どこの会場もしっくり来なかった。何かが足りなかった。

 そんな私達が最終的に行き着き、全てがしっくり来た場所、ここだ!と思った場所。それは日比谷公園の中のレストラン『松本楼』だった。

 こればっかりは言葉では説明出来ない。松本楼のどこが良いのか?

 これは何故、彼が良いのか?何故彼と結婚するのか?という質問の答えぐらい答えに困る。彼も多分、私のどこが良くて結婚するのか?という質問に対する答えぐらい、難しいと思う。とにかく、ここだと思った。ここで結婚式を挙げたいと思った。二人の意見は一致した。

 幸いにも二人の希望した日、11月22日、今でこそ一般的になった良い夫婦の日を選んで予約を入れた。その日に向けて、更に私達の準備が加速度的に始まった。とても楽しかった。

 ドレスを選ぶだけでも、勿論レンタルなんだけど、何十件のレンタルショップを回ったか分からない。よく彼も付き合ってくれたと思う。本当に何十件のショップを回って何百着のドレスを着て、何十本の写ルンですを買ってはドレス姿の私の写真を撮り続けた。まさか自分のお気に入りのウェディングドレスを見つけるまで、こんなに時間と労力を使うとは想像もしなかった。ただ、自分のお気に入りの一着を見つけるまで妥協はしたくなかった。

 そんな気持ちで式場も選んだし、ドレスも選んだし、披露宴でのお料理も、飲み物も、引き出物も、当日のプログラムの内容も、全て自分達の納得がいく様な日にしたかった。その為に全ての週末、場合によっては彼の家に泊まり込んで招待状を書いたり演目の打合せをしたり、色んな準備をした。

 もちろん、今までにお手伝いをした先輩方、同僚・同期、後輩達も喜んで協力しれくれた。当日が本当に待ち遠しかった。

 私達のこだわりは結婚式と披露宴だけでなく、数え切れないくらいお手伝いをしてきた二次会でこそ本領発揮という感じで、特に彼が気合いが入っていた。会場についての彼のこだわりは凄まじかった。

 彼が一番こだわっていたのは会費について。当時、段々段々、結婚式二次会の会費というのは少しずつ高騰を続けていて、不景気が続くこの国の飲食店で手っ取り早く確実に稼ぐ方法として結婚式二次会というのは打ってつけだったんだろう。二次会の出席者も、会費がある程度高くても仕方がない…一生に一度の大切な友人の先輩の後輩の晴れの日なので、会費が高いから参加しない…という選択肢を選ぶ人は少ないと思う。もちろん中にはそう言う人もいるんだろうけど。

 そこで彼はずーっと、とにかく二次会の会費についてはこだわりを持っていた。今までにお手伝いしてきた先輩や同僚・同期の二次会会場を選ぶ時にも、なるべくリーズナブルな場所を提案する様に心掛けていたけれど、こればかりは当の本人達が最終的に選ぶ権限を持っているので、時には提案した中でも最も高い金額の会場を選ぶカップルもいた。場所の便利さや、会場の雰囲気、料理やお酒の内容など、主役のカップルのこだわりが金額面よりも条件や内容重視の場合、お手伝いする私達の意見、料金重視というこだわりを押し付ける訳にはいかなかった。

 なので自分達が主役の結婚式二次会の会場選びには、彼は全く妥協せずに最高の条件で究極の会場を選定した。

 披露宴会場の日比谷公園のレストラン松本楼からも徒歩圏内で、場所も分かり易く、友人の多い私達の参加予定者百数十名も収まり切る大箱で、何と言っても会費が安くて済む会場…見事に彼はそんな場所を探して来た。

 銀座コリドー街という高架下のチェーン店の庶民的なビアパブという感じの店で、一般的には二次会の宴会の時間は2時間~3時間で、その頃の標準的な二次会の会費は5000円から6000円というのが相場だったと思うけど、彼は値段もこだわったが、宴会の時間にも相当こだわりを持っていた。二時間や三時間なんてあっという間に経ってしまうし、折角遠くからも色んな友人、知人、先輩後輩、中には親戚で二次会に参加と言う強者もいるので、この一生に一度しか無い機会に色んな人が交流して欲しいという思いで会場と交渉し、夕方5時会場、5時半スタート、10時お開きという、結婚式2次会としてはかなりの長丁場で飲み放題男性5000円、女性4000円と、当時としては破格のリーズナブルな条件を勝ち取った。

 私達にとっては多分一生に一度の晴れの日、2001年11月22日、良い夫婦の日、その日は正に文字通り抜ける様な秋晴れの日だった。樹齢400年の大銀杏の真っ黄色の葉が黄金色に輝き、私達の輝かしい未来を祝福してくれていた。結婚式への列席者も、勿論私達が知り合った東京近辺の友人知人から、彼の出身の関西から、私の出身の田舎から、大勢の方々が集まってくれた。

 その日一日は朝から晩まで、というか翌朝まであっという間に過ぎ去って行った。

 ちゃんと段取りを組んで予約し、読めていたのは3次会まで。その後は流れで結局5次会まで外で飲み、世間一般で言われる新婚初夜というのは通常、新婚カップル二人だけで迎えるものだと思うんだけど、私達の場合、新婚初夜も普通とはかなり違ったカタチで訪れた。

 5次会まで一緒だった友人知人達が、私達の新婚初夜になだれ込んで来た。

 世間一般の常識的な人間だったら…普通、帰ると思う。

 しかも私達の場合、結婚式の翌朝、8時過ぎには京成線に乗ってお昼過ぎには新婚旅行の為に成田から飛行機で出発する予定になっていた。まぁ、勿論、式の次の日なので朝バタバタ新婚旅行の準備をする羽目になるのは嫌なので、荷物は事前に纏めてあったので、そこは特段問題はなかった。しかし、しかしだよー!

 新婚初夜のおウチに朝起きたら死体の様に寝転がった人間が十数人も…

 異常だと思う!異常!!

 どっかで見た景色だと思ったら、私が初めて彼と出会ったパーティー。

 あれは彼のおウチに友人知人を呼んでのパーティーだった。場所は江戸川区西葛西。朝まで飲んで騒いで踊って、目覚めたら彼の部屋に死体の様に転がった人達が十数人…。

 今、あれから約10年、場所は替わって江東区大島の私達の新居になったけど、目の前に広がる風景は、あの日彼と出会った次の日の朝と一緒。全然変わってないんだ、全然変わってない私達。

 そんな印象を抱きつつ死んだ様に眠る友人達を叩き起こし、新居から追い出して鍵を懸け、新婚旅行に旅立った。

 まさか、こんな日々が訪れるとは夢にも思わなかった。二人で同じ駅に通勤する様になるとは。そして、時々、同じ駅近辺で待ち合わせをして帰る事も度々あるなんて。誰が想像出来ただろう。

 私は結婚して暫くは専業主婦で、なーんにもしない極楽生活を楽しんだ。

 田舎に居るときから家事手伝いと実家の家業手伝いで、結構自由な生活を楽しんではいたが、そこには両親の目もあり、幾ら実の娘とは言え少しは気を遣った生活があった。

 しかし、東京で、誰もいない新居で、彼が仕事に出掛けた後は文字通り100%の自由な時間。完全な自由な生活を楽しんだ。好きなだけ寝て、好きなだけテレビを見て、好きなだけ出掛けてウインドーショッピングを楽しみ、かフェで雑誌を読み、美味しいケーキを食べ、飽きたら家に帰って晩ご飯の支度をする。

 こんな自由な時間は一生来ないだろうと、思う存分に楽しんだ。一年はそんな生活を続けた。

 しかし、人間、やはり何もしないと、働かないと不思議と飽きて来る。

 何かしないと、と、誰から言われる事もなく、好きな分野のアルバイトを始めた。私は食べる事が好きで、どうしても食関連の仕事に興味があるので、スーパーでの試食販売、中華料理屋でのホールの仕事、オーガニック料理屋の調理補助と販売、スターバックスでのバリスタの仕事、様々な食関連のバイトを文字通り点々として、一度はやってみたかった『OL』という仕事にも挑戦し、見事、西新宿副都心の超高層ビル『新宿パークタワー』での事務の仕事も経験した。

 そして、最終的に自分が田舎での食品会社での新社会人の2年間の仕事の後、必死に勉強して取得した管理栄養士の資格を活かして、神田和泉町にある『三井記念病院』で栄養士として働く事になる。この病院の最寄り駅が彼の会社への今の最寄り駅、都営新宿線の岩本町駅だった。

 私達が選んだ新居、江東区の大島は地下鉄の都営新宿線で岩本町から約15分、自転車でも通える距離だった。本当に休日出勤で会社に行かなくてはイケナイ時、彼は好んでお気に入りのマウンテンバイクで通勤していた。私も真っ赤なマウンテンバイクを買って貰って、休日には東京都内23区内どこでも自転車で出掛けた。ショッピングでも、友人の家に遊びに行くのでも、クラブに踊りに行く時も、休日に出掛ける時はいつも自転車だった。雨さえ降ってなければ。

 時には出掛ける時に怪しい天気でも、彼の『大丈夫!』という言葉を信じて自転車で出掛けて、明け方クラブで踊り明かして帰る時にバケツをひっくり返した様な大雨の中、泣きながら自転車に乗って帰った事もあった。

 でも、自転車に乗ってツラい事も少しはあったが、東京で暮らした日々を振り返っても、都内を移動するには自転車は本当に良い移動手段だと思う。九段下とか赤坂とか渋谷とか皇居の廻りとか、多少のアップダウンはあっても基本的に平らな道が多い。殆ど平らでビュンビュン走れる。しかも、今は多少ブームで歩道を走る自転車が以前よりも多いかも知れないけど、人口の割には全然少ないと思う。自転車は渋滞もしないし、少し気を付けて走れば事故とかも殆ど合う確立は無いと思う。実際、私達は相当の走行距離を二人で走ったけど、事故なんて一度も無い。ちゃんと歩道を走っていれば問題無い。

 地下鉄に乗っていると全然分からない地上の景色、車に乗って移動していても通る事のない路地裏の景色、東京にはガイドブックやマップに載っていない奇麗な風情のある場所や、隠れた穴場のお店が沢山ある。地下鉄+徒歩や、タクシーやバスでは通り過ぎてしまう様な通り、車では入れない様な狭い路地裏に面白い店がひっそりと営業していたりして本当に面白い。自転車だと、『!』と思ったら取り敢えず自転車を止めて、何でも確かめる事が出来る。時間が無くて通り過ぎても、その場所を覚えておけば、帰りの際や別の日に改めて確かめる事が出来る。

 今でこそスマホのGPSがあるので、どこに行くのも迷わず行けるだろうし街の情報も溢れかえる程、充実したものを手に入れる事が出来るが、私達の新婚の頃、スマホも携帯も無い時代でも都内の地図、交通網、通りや街の名前は意外に簡単に覚える事が出来た。コツさえ掴めば地図など持たなくても迷わず都内の至る所を自由に自転車で駆け回る事が出来た。都内の地図を意外と簡単に頭の中に入れられる事が出来る、と言うのが正確かも知れない。と、偉そうな事を言うが、これは彼の頭の中に入っていたと言うのが正しい。私は生まれつきの超が付く程の方向音痴なので都内の地図など頭の中に入れて一人で自転車で自由に走り回る、なんて芸当は逆立ちしても出来そうにないが、関西出身の彼はいとも簡単にこなしていたので、そんなに難しくなさそう、だという私なりの解釈だ。

 だから、私は都内の地図が頭に入った彼の後ろに着いて行って、一緒に都内を駆け巡った。

 基本的に都内の地図の真ん中には皇居があると思えば良い、と彼曰く。その廻りを環状に幾つかの道路があり、それらの道路から放射線状に大きな通りが都内の隅々~隣接する県まで伸びているという感じらしい。更に私達の住む東側、彼の上司のヒドい言い方を借りれば『川向こう』というらしいが、南北に隅田川が流れており、その川を渡る幾つかの橋があり、それらの橋が一つ一つデザインや色も違い、私は橋を渡る度に緩やかな登り坂と景色、一気に下り坂を駆け下りるスピードを楽しんだ。

 私達の住む大島から、都内の都心方面に自転車で遊びに行く為には、幾つかの通り、橋を渡るルートがある。大きな通りで言うと永代橋、両国橋、清洲橋、新大橋と交通量の多いメジャーな橋があるが、私達のお気に入りは真っ直ぐ行けば彼の会社の前を通る蔵前橋だ。私達がよく使う通りや橋の中では一番交通量も少なく、歩道脇のお店もチェーン店というよりは地元で長い間商売をされている様なお店が多く、結構、穴場的な面白い美味しい店が通り沿いや、一本裏道に入ると見つかるのも楽しい。

 例えば、蔵前橋通りを末広町から真っ直ぐ彼の会社を通り越し、蔵前橋を渡り、ひたすら家路を急ぐと、亀戸天神の近くに天神橋という小さな橋があり、それを渡り切った所にいつも深夜遅くまでやっている飲食店があり、時々深夜の2時や3時まで行列が出来ているのを、都心まで飲みに言った帰りに見かけた事があった。

 私達は毎回気になって仕方がなかった。そして、さっそく行ってみた。

 行列の理由は、純レバ丼という料理だった。

 ラーメンもタンメンもチャーハンも何でも基本的に美味しいのだが、その『純レバ丼』という怪しくて魅力的なネーミング、一度聞いたら忘れられないネーミングと、一度食べたら忘れられない独特な味付け。これぞ本当に病み付きになる味というに相応しい料理だと思う。

 一度、純レバ丼を味わってから、私達は都心の遠くで夕飯の時間になっても食べずに我慢して、空腹をキープしつつ蔵前橋通りをひた走り、菜苑の純レバ丼を目指すという事もしばしばあった。

 結局、何かの縁があるのか、彼と結婚して、江東区の大島に暮らす事になっても休日出勤した彼と待ち合わせる場所は蔵前橋通りと中央通りの交差点、末広町近辺という事が多かった。少し走れば、上野広小路や上野は直ぐそばだし、休日出勤を終えた彼と都心を目指す時も特に目的が無ければそのまま中央通りを南下し、日本橋を超え、銀座へと最高のサイクリングコースとなる。休日の日本橋から銀座方面は歩行者天国となり、自転車で通るのは最高に気持ちのいいコースだ。

 平日も私の三井記念病院の勤務が先に終わって、残業の無い彼と待ち合わせするのは相変わらず末広町の交差点近辺という事になっていた。勿論、先に家に帰って晩ご飯の支度をして待つ事もあったが、彼が先輩方や同期・同僚と飲みに行く事が決まっていたり、予測される時には私も呼び出されて相変わらず一緒に加賀屋にのみに行く事も度々あった。

 通勤で使う私達の仕事場への最寄り駅、岩本町駅。この駅の廻りにもコンビニや多少の飲食店、沢山のオフィスビルがあり、昭和通りと靖国通りという大きな通りの交差点もあり、待ち合わせ出来ない事も無い。しかし、私達はどうしても待ち合わせし慣れた末広町の方を選んでしまう。

 何の因果か、この街の約10年を見て来た。僅か10年の間に街の印象、雰囲気がこれ程までに変わってしまうのか、という変化を自分の目で見て来た。そして、まだまだこの街は変わりつつある。秋葉原の電気街や、アメ横、神田の古書街等は東京のガイドマップに載る事があっても、末広町の交差点で特集を組まれる事はまずないだろう。そんなニーズはこの街に、この駅にはないだろう。

 でも私にとっては広い大きな東京と言う街の中で、一番愛着のある街、駅であり、ここに来ると不思議な安心感を感じてしまう。自分でもこんな風になった事が不思議で仕方が無いが、これも運命として受け止めよう。そして、時間の不規則な病院の栄養室勤務の仕事を折角なので暫くは経験の為に勤めてみよう。そして、世間では未だ未だ新婚カップルと呼ばれる私達の生活を少しでも楽しんで、今まで異常に油に乗って仕事を楽しんで業績を上げているらしい彼の仕事のサポートをして上げよう。そう、心から思っていた。

 さよなら、末広町。そんな日がやって来るとは余り想像してなかった。

 でも、心の何処かでいつかそんな日がやって来そうな気もしていた。

 彼の仕事はとても順調で、私達が結婚してからの5年間の間にも次々と新しいプロジェクトに関わって、会社での役割も責任も大きくなっていた。東京本社の仕事なので関東一円を中心に仕事はしていたが、大きなプロジェクトに携わると暫く家に帰って来ない、という事もあった。一度なんて、一日二日のつもり家を出て行ったまま、着の身着のままで2週間も帰宅せず、もう初夏の季節だったので、さすがに下着やズボンから異臭を放つ様になり、私に着替えを持って来てくれ…なんて言う事もあった。

 そんな彼が、関西出身という事もあり、大阪にある関西支店に赴任する事になった。彼の両親が関西に居て彼が長男と言う事もあり、いつの日か彼も関西に戻って両親の面倒を見る事になる…と予想はしていたが、まさかこんなに早くその日がやって来るとは思わなかった。

 でも東京を離れる事が、関東を離れる事がそんなに嫌だと言う気持ちは不思議と無かった。友達にその事を話すと、

 『えっ!関西に行くの?大丈夫?』

と、皆んなもの凄く心配してくれたが、私は意外と平気だった。それよりも彼との新しい生活が又新たに新しい場所で始まる、というドキドキわくわくの気持ちの方が大きかった。産まれて初めて関東以外の場所で暮らしてみるのも、一度は経験したいと心のどこかで思っていたのかも知れない。

 私の家族は未だ関東の田舎にいるし、正月やお盆休みには今までと逆に関東に帰省してくる事になるし、淋しくなれば新幹線に揺られれば5時間もあれば帰って来れるし、何かあって突然帰る必要があれば狭い日本なので車を飛ばせば6時間もあれば帰れる。そんな楽観的な気持ちで関西行きを受け入れていた。

 それでも、新婚生活の5年間を過ごした新居で増え続けた荷物の整理を進め、自分自身の職場、三井記念病院の栄養室主催の送別会も終え、彼の会社の様々な人達との幾度にも及ぶ送別会も済み、彼と最初に出会うキッカケとなったパーティーを主催していた友人達との送別会も派手に終わって、少しずつ東京を離れる日が近付いて来ると流石の私もナーバスに、淋しい気持ちも募って来た。


 3月末の彼の東京本社への最終出社日、翌日に関西への引っ越し業者のトラックが来ると言う日、私達は最後の最後の送別会、本当に身近で親しくしていた先輩、同僚、後輩との小じんまりした加賀屋での飲み会に行く為に、恐らくこういうカタチでは最後の待ち合わせを末広町の交差点でしていた。

 昨年は長年、本当に長い間工事や準備をしていたつくばエキスプレスも開業し、まさかの大型店ヨドバシカメラが秋葉原駅の真ん前に開業し、本当にビックリした。これで秋葉原の家電量販店やパソコン販売店にも、相当大きな影響も出るだろう。

 また、オタクの街、秋葉原からAKBなるアイドルグループがデビューし、私の様な世代の人間からは『?』という印象なんだけど、まさかこのグループが今後、日本の芸能界に様々な多大な影響を与え続けるグループに育つとは、夢にも思わなかった。

 明日、関西に引っ越してしまったら、もうこの街に帰って来る事も暫くはないだろう。彼はたまには東京本社への出張とかあるだろうけど、私は実家の田舎に帰る以外、東京は素通りする事の方が多くなるだろう。東京に寄るとしても、私がもっと好きな青山や銀座、渋谷や新宿に足が向く方が多くなる様な気がする。

 この街、末広町や秋葉原、上野広小路や上野という街は、私にとって生活の一部だった様な気がする。関西に引っ越した後、関東に里帰りした時に観光に来る場所…では無い様な気がする。それでも、極たまに、彼の会社の先輩や同僚と飲んでみたくなったら、末広町で待ち合わせして、これから益々加速度的に変化し続けるこの街を変化を感じてみたい。

 昔、この交差点に立っていると、リヤカーに段ボールを山積みにしたオジさんがひっきりなしに通った…なんていう光景に出会ったなんて、その当時よりも数倍の通行人と乗降客の皆さんに話してみたら、恐らく誰も信じられないだろう。しかも、それがついこの間の話だなんて。

 世間には注目される事の無い無名な末広町の駅だけど、私達に取ってはかけがえの無い思い出の駅。この駅を通して、これから先も時代の変化を見守って行きたい。

 この駅も変わった。私達も変わった。そして、これから私達を待ち受ける未来も想像も付かないぐらい変化に富んだものになるだろう。そして、その変化について行けない様な気持ちになった時、この末広町の劇的な変化を思い出し、無名な私達の変化にも着いて行きたいと思う。

 ありがとう末広町。いつも私達を待たせてくれて。また会いに来るね。

長い駄文をここまでお読み頂きありがとうございます。

もし、宜しければご意見を伺えれば幸いです。

どうぞ、よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ