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その時、ロールが感じていた違和感をなんと説明したら良いだろう。
べベルの中において、静寂とは一般人には縁遠い物だ。外壁を全て機械や、配管、あらゆるものの動きが覆い、常に何かの音を感じる事になる。
しかし、その時ロールが感じたのは静寂だった。
人、物、空気の流れや、遠くから響いてくる音の波すら感じない。
恐らく、彼女が注意していれば、もしくは、彼女が何らかの形で経験を積んでいれば、その違和感を確固とした物として感じただろう。
しかし、彼女はあくまでも一般市民で、普通の主婦で、若い女性でしかなかった。違和感は違和感のままで、その場を通り過ぎようとした。
買い物帰りの、袋に食材を抱えたままで、家路を歩むロールは、感じる違和感から少しづつ早足になっていた。
「そこの、娘さん」
道の角を曲がろうとした時、壁に隠れていた場所からロールへ声が掛けられた。
「はい?」
「なにやらお急ぎのようじゃが、せっかく買った物を落としてしまっては、もったいないのぉ」
声をかけてきた椅子に座った、老人が指す指の先には、彼女が今さっき買ったばかりの缶ビールが転がっていた。夫の晩酌用に買っておいたものだ。
「あ、どうもご親切に」
「なになに、もったいないと思えばこそじゃ。礼には及ばぬと言うもの。しかし、何をそんなに急いでいらっしゃるのかの?」
違和感に焦っていたロールだったが、老人の温和な笑みに幾ばくかの安心を覚えた、そもそもが根拠の無い不安、他に何らかの要因が介入すれば、忘れてしまうような物だった。
「あ、その、最近物騒ですし、何と無く」
「ふむ、なるほど。しかしじゃ、娘さん、目に在るものを見る、心に思うて遇うとも言う、心配しているものほど、何かに巻き込まれたりするものよ。ほれ、虫が嫌いな人間が、いの一番に虫を見つけたりするじゃろぅ?」
「た、確かに」
ロールは、穏やかに話す老人を前に、まるで自身が、見えないお化けを怖がって泣く子供であるかのように思え、顔を赤くした。
「しかし、用心をするのはとてもよいことじゃ。特に娘さんのような、美人さんならばなおさらじゃの」
「そんな」
「さて、せっかく急いでいる娘さんを、これ以上爺の話し相手にするのは悪い。気をつけてお帰りなさい」
「はい、ありがとうございます」
軽快に駆け出すロールは気がついていなかった。先ほどまで感じていた、違和感、そのものが無くなっていることを。そして、先ほどまで話をしていた老人の姿がすでに消えていることを。もっとも、後ろを一回でも振り返ればこれには気がついただろうが。その時彼女は、惹かれるように家に帰っていた。
家に帰った彼女は不思議な光景を目にする。
仕事に行き、夕刻までは帰らぬはずの夫が、すでに帰っていたのだ。
「あなた、今日は如何したの?」
浴室で、シャワーを浴びつつ、風呂桶に湯をためている夫が応えた。
「ああ、心配だし、有給も消化しなきゃならない。今日と明日は休みを取った」
「そうなの?それなら、朝のうちに言っておいてくれたらよかったのに」
「まぁ、会社に行ってから、思いついたからね。それより」
途端、ロールは夫に腕を引かれた。驚きの声を上げるまもなく、浴室で全裸の夫の腕の中に取り込まれる。
「せっかくの休みだから」
「もー、こんな時間から」
軽く文句は言いつつも、その意に従って、いそいそと服を脱いでいくあたり、やはり新婚さんは新婚さん。自分の服を、ランドリーに入れようとしたところで、彼女はあることに気がついた。
「あれ?洗濯回してるの?」
「ああ、コーヒーをこぼして」
いつもなら、コーヒーをこぼそうが、ケチャップをつけようが、そのままにして置く夫が、なぜこのときは自ら洗濯をしたのか。彼女は、それを不審に思わなくも無かった、しかし、次の瞬間、彼女は再び夫の腕の中にあった。
キスで口をふさがれ、力強く抱きしめられると、そんなことは気にならなくなってしまう。先だっての、老人との事と言い、今回の事と言い、比較的夫の浮気などに気がつきにくい性格なのかもしれない。
少々今後の結婚生活が不安になることではあるが、今はなんら関係ない。重要なのは、彼女は夫と、バスルームでの運動に入ったという事だ。
ただし、少しいつもとは違う事がある。
彼女を掴む夫の腕が強い。
彼女を触る夫の指が固い。
彼女に触れる夫の爪が長い。
彼女が掻く夫の背の皮が固い。
何よりも、彼女を貫く夫が、固く、深く、激しく、強い。
あまりに激しい交合に、途切れ途切れの彼女の理性が、あまりに多い違和感を組み合わせる。
なぜ?と。
誰?と。
そして、飛び去ろうとする意識が彼女に見せたのは、自身の首筋に噛み付く夫と。
天井の電球から染み出してくる老人。




