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まのかん  作者: kishegh
第一章
6/13

R


「髪の毛?」


かつてこう言った書き出しの大作品があったなと思いながら、ロールは夫が持っているスープに目を向けた。


これから仕事にいく慌ただしい中で、夫の目がカップに止まったまま、動かなかったからだ。


「あ、いや違う。最近物騒だなと思って、ちょっと心配に」


「そうね」


彼らが住んでいるのは、中層階でもかなり上のほう、比較的治安は良いし、一般的な企業人やサラリーマンなどが住む、いわゆるベッドタウンのような立地だ。普段なら、そう心配にも思わないし、下層に近いほうや下層そのものの災害などは、別世界の話といえる。


しかし、つい三日前、近所に住んでいた黒髪の女性が殺された。すれ違う時に挨拶を交わす程度の間柄だったが、にこやかな、笑みの素敵な女性だった。特別な話などはした事も無かったが、彼女が死んだ事はとても悲しい事だった。


同時に、酷く心配になる。


彼女達に子供はまだ居ない、しかし、夫婦共に黒髪だ。近所に住む人の中には、今まで黒髪だったのに、急遽髪を染める人たちも出てきていた。


「私達も髪を染めるべきかしら?」


「う~~ん。如何するかなぁ」


ロールは、壁にかけられた時計を見ると、夫を慌てて急がせた。


「あなた、会社の方と待ち合わせて一緒に行くんでしょ。遅れてしまうわよ!」


「ああ、そうだな」


心配や、実際に迫り来る災害とは無関係に、一般市民としての義務や生活は、追いかけてくる。心に不安は残るものの、生活のために、夫は会社と言う戦場へ急いだ。同時に、心配しながらも、ロールも自身の主婦としての生活戦闘へと注意を向ける。


「買い物に行かなくっちゃね。今晩のおかずは如何しようかしら」


結婚してから間もない、結婚までは親と暮らしていたロールは、料理が出来ないわけではないが、毎日作り続けると言う、主婦としての生活にはまだ慣れていない。常々、献立には頭を悩ませる。


陽光灯(サンライト)も買っておかないと、安かったら買い置きしておこうかしら」


完全密閉された塔内で、寝起きを繰り返すうちに人類は、幾つかの弊害を知った。陽光を浴びずに育つと、精神被害や成長阻害、さらには寿命の短命化や病害などが起こることを知ったのだ。


その結果、人為的に紫外線などの、一部有毒ではないかと思われていた成分すら含んだ、陽光灯(サンライト)が開発された。現在、上層階では建築基盤の段階で陽光灯が含まれているので、わざわざ買う必要も無いが、ロールたちのいる中層階や低層階などでは、個々人が買って室内で使用している。


さらに言えば、最高層の住人の中には、護衛をつけての日光浴を行っている者や、塔そのものの外壁を改造して、陽光取入れ口を作っている人間も居るが、そんなことをロールたちは知らない。


外部とのアクセスも、調査員といわれるような荒くれ者達のみが行っていると思っているし、そんなことは、自分たちにはなんら関係の無い別世界の事だと思っている。


そんな、危険とは関係の無いと信じていた世界に、現在は黒い影を落としているのが、殺人。


彼女たちは知らない。一般市民と呼ばれる彼らは知らない。


猟奇殺人だという事を、連続殺人だという事をかすかに知っているだけだ。


狭い世界の、しかも極端な階層社会の弊害。


完全に近い断絶性。


上層は上層の。


中層は中層の。


そして下層は下層の。


それぞれが、それぞれまったく違う世界、違う国。


だから彼らは知らない、上層でも連続殺人が起こっていたことを。


だから彼らは知らない、中層での殺人がエスカレートしている事を。


中層と一括りに言っても広いのだ。サーフェスと呼ばれる、地表の階を境にして、やはりそこで大きな隔たりがある。


ファング達がいたのは、中層でも下層に近い。


ロールたちが住むのは、中層でも上層より。


一番平和で、争いも少なく、穏やかな人たちの済む場所。


彼らはそう信じている。上層のように権力の争いも無く、金と権力の闘争もない。


下層のように、暴力と犯罪の坩堝でもない。


一般市民の住む平和な世界。


ロールも、そこの住人だった。




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