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「ここまでの、私の言葉に嘘はない、証拠も、根拠も、あらゆる裏付けを提示する事は叶わないが、それだけは言っておこう。つまり、君の夫は今死ぬ。私が殺す」
彼は、くどい程殺人の意思を繰り返した。ロールは、その言葉のたびに心を揺らしたが、表面に出ている冷静な理性はそれを表面に現さなかった。心が叫んでも、本能が吼えても、感情が唸り轟こうと、理性は冷静に、そして冷淡に話を聞いていく。
「彼を助ける術はない。だが、しかし」
ロールの前に、光る鏡面が現れた。首から下は朱に染まり、白い肌は青みを増した身体が浮かび上がる。
「死にゆく君を助ける事は出来る。血を止め、肉体の損傷を直し、完全に治すことは容易だ、傷跡すらも残らない。そして」
目の前から鏡面が消え失せると、どこかへ目をそらすファングがいた。
「君が望むなら、記憶を改竄し、意識を変え、あらゆる周囲環境を、君に関わるあらゆる事象を、何も無かったことにも出来る。君は結婚しておらず、夫は居らず、静かに別の場所で、別の生活を送れる。つまりは、別の君にもなれる」
それは、悪魔の笑みなのだろうか、そらせていた筈の目を、ロールへ戻したファングの顔は、笑い、怒り、悲しみ、同時に絶望していた。先ほどまでのあまりにも無い感情の色を思えば、今は、あらゆる絵の具を混ぜ合わしたような、それでいて、混ざりきっていない混乱の色が見えた。
「もしくは、そのまま死ぬかね?そのままなら君は死ぬ、筋書きも簡単だろう、殺人犯だった夫は、何人かの人を殺し、君を殺し、そして自ら死んだ。三文小説のような、つまらない筋書きだ」
「如何する?」と、ファングは目で問いかけていた。
そして、感情の全てが再び融合した彼女の精神は、今なお叫びを上げながらも、一つの答えを導き出した。
「……」
「そうか、では、君の思うように。君が望んだ形で」
パンッと言う、ファングの手のなる音と共に、彼女の意識は黒に塗りつぶされ、その闇の中に、ファングの顔も溶けて行った。
それは、どこか安心したような顔だった。
薄暗がりのバーカウンター、何時もの定位置でファングは本を読んでいた。髪を一枚一枚捲り、ページの進行を楽しみ、文字を喜びを持って追う。
「よぉ、ファング。今日はやっぱりペーパーバックか、やっぱりあんたは変わってるな」
先日と同じ、声をかけてきた男に、ファングは目を向けた。
「ああ、そうかもね。やっぱり、この方が落ち着くよ」
「そうか、しかし、あんたの言ったとおり、あのサイコキラーもいなくなったみたいだし、落ち着いたって良いわな」
「そうだね、安心して本が読めて、酒が飲めれば、平和で良いさ」
「俺は本はいらねぇよ。だが、酒と女が無きゃ平和じゃねぇさ」
笑いながら、男が去ると、アルトは静かに呟いた。
「死ぬ…か。やはり彼女も死ぬと言った、死を望むほどの絶望…逃避…それとも混乱?分からないな、僕には分からない」
酒を飲み、再び本に目を落とした。
―令部までやってくればこれで自分を撃つためのもので、この男の覚悟というのは、その日常と同様、簡単明瞭であっ―
「死は、覚悟なのか。それとも絶望なのか。逃避なのか。何らかが在るからなのか、もしくは無いからなのか」
何度読んでも、楽しめる物を名作と言う。
しかし、彼の疑問に思っている事は、本を読み、人の経験を見てもわからない物だ。
「彼は死に、彼女はそうなった…か」