巨人漂着記 :約5500文字
あ……。おれは……なんだ? どう、どうなっているんだ……。
青空……だ。薄く霞んでいるが、確かに青が見える。ここは外のようだ。だが、なぜだ。どうしておれは外にいる。そもそも、おれは眠っていたのか。
それにこれは……波の音……か? 遠いようでもあり、近いようでもあり、距離感がつかめない。寄せては返す音が不規則に響いている。それに混じって海鳥らしき高い鳴き声も聞こえた。
体の下はごわごわとしている。硬くはないが柔らかくもない。細かな粒のようなものが皮膚に触れている感覚があった。砂かもしれない。砂浜に打ち上げられたのだろうか。だとしても、なぜ……。
だが、そんなことよりも異常なことがあった。
体が動かない。それどころか――ああ! 目が! まぶたを閉じられない! 眩しい……かゆい、ああ、かゆい……! 目の表面がひりつき、異物でも入ったかのような痛みと不快感があった。
誰か、誰か……!
おれはあらん限りの声を振り絞って叫ぼうとした。だが無駄だった。どれだけ腹や喉に力を込めても――いや、そもそも力を込めることすらできなかった。意思だけが空回りし、身体にはなんの変化も起こらない。まるで脳から身体へ伸びる配線が途中でぷつんと切れているみたいだ。音にすらならなかった。
目の件については、ひとまず慣れてきたといっていい。幸か不幸か、全身は正座を何時間も続けた後のように痺れていた。
最初は堪えがたかった不快感も徐々に輪郭を失い、全身の感覚そのものが鈍くなってきているように感じた。嗅覚はほとんど機能しておらず、聴覚も何かに遮られているように遠い。視界に至っては時間が経つにつれて、薄い乳白色の膜を一枚ずつ重ねられていくかのように白く滲んでいった。
誰かに毒か薬でも盛られたのだろうか。それで誘拐され、ここまで運ばれた――いや、捨てられたのか。だが、なぜおれがそんな目に……わからない。自分の部屋にいたはずだが、前後の記憶がごっそりとけ落ちている。何をしていたのか、いつ眠ったのか。どれだけ記憶を手繰ってみても、頭の中には何一つ浮かんでこなかった。
波の音は接触の悪いラジオのように、聞こえたり聞こえなくなったりを繰り返している。動けないはずなのに、自分の位置があちこちに移動しているように感じて、気分が悪くなってきた。
ああ――波の音で思い出した。そうだ、おれは海が見たかったのだ。
外の暑さと気だるさのせいで、つい先延ばしにしていたが、波の音を聞きながらただぼんやりと水平線を眺めていたいと思っていた。
だが望んでいたのはこんな形ではない。それに今、おれの目の前に広がっているのは淡くぼやけた青空だけだ。それもいつまで見ていられることか。――目を開けたままでいると、人間はどれくらいで失明するのだろう――せめてあと数センチでも首を動かすことができたなら。……あっ!
おれは驚いた。
視界の端に小さな影がひょっこりと映り込んできたのだ。
白く霞んだ視界の中を黒い染みが左右へ動いたり、遠ざかったり近づいたりしている。輪郭がぼやけていて像がなかなか結ばれず、最初は生き物ではなく風に飛ばされた埃か何かかとも思った。だがしばらく経ち、おれはようやくそれが何であるかに気づいた。
それは小さな子供だった。……ああ、小さい。だが幼子という意味ではない。身体そのものが小さいのだ。
その子供はおそらく、おれの下まつ毛あたりに足を乗せ、興味深そうにこちらを覗き込んでいた。
それは、小人の子供だった。あるいは――おれが巨人なのだ。
子供は一度下がっては、また身を乗り出しておれの目を覗き込むという動きを何度か繰り返し、落ち着きなく目のあたりをうろうろと歩き回った。小さな足がまつ毛の根元を踏むたびに、わずかにくすぐったい感覚が肌に滲んだ。
やがてその小さな姿は視界から消え、それからしばらくして、今度は大人らしき小人が現れた。
それも一人だけではない。二人、三人、五人――もっと多い。視界の中を出たり消えたりを繰り返しているため、正確な人数は把握できないが、その数が増えていることだけは確かだった。
ずっとまぶたを開け続けていたせいで、視界はもうかなり白く霞んでしまい、彼らの表情までは判別できないが、おそらく口を大きく開けて驚いているのだろう。何かを指さしながら話している者や、手に持っている何かをおれに向けている者もいた。おそらくカメラだ。カチッという音が聞こえたような気がした。
それからさらに時間が経つにつれ、おれは少しずつ状況を理解していった。
どうやらここは小人の国らしい。
そして連中はおれの周囲に次々と集まってきているようだった。
話し声があまりにも小さすぎて、その言葉の意味までは聞き取れない。ただ、ザリザリ、カリカリといった砂を踏む無数のかすかな足音だけは断続的に耳に届いていた。
やがてマスコミだろうか、遠くのほうからヘリコプターのプロペラのような音が聞こえ始めた。
そしてそれを境に、さらに大勢の小人たちが集まり始めた。
――いっ。
しばらく経った頃だった。ほんのわずかではあるが痛みを感じ、おれは眉をひそめた。いや、実際には眉一つ動かせていないのだろう。だが今、足のあたりに確かに痛みを感じた。
ブチッ、グチッ、ブチッ、カチッ――。
……聞こえる。耳を澄ませると、連中の足音とは違う、湿り気を帯びた音が聞こえた。何か柔らかいものをちぎるような、あるいは鋭利なもので突き刺すような音だった。まるで、生肉にフォークを突き刺して無理やり引き裂くような……。
おれの……おれの肉?
ああ、そうだ。連中はおれの肉を切り始めたのだ!
ふくらはぎのあたりに、細い針で突かれるようなかすかな痛みが断続的に走っている。一つひとつは大した痛みではないものの、その数の多さに背筋が寒くなった。
確かに、このまま放置していればいずれ死に、腐敗することになるだろう。おれの死体は悪臭を放ち、病原菌を撒き散らす巨大な汚物と化す。だからそうなる前に解体しようというのか。行政らしからぬ、迅速かつ合理的な判断ではある。
だが、その前にやるべきことは他にいくらでもあるだろう。病院に運ぶのは無理だとしても、何か別の手段があるはずだ。
おれはまだ……。
生きている――。そう考えた瞬間、ぞくりとした。
おれは本当に生きているのだろうか。
その疑問がふと頭をもたげた直後、体の感覚がさらに遠のいたように感じた。まるでおれ自身が小さくなり、この巨大な肉塊のどこかに埋もれ、ただ振動だけを感じているだけの無力な存在に成り果てたように思えた。ともすれば、このかすかな痛みは単なる錯覚に過ぎないのではないか。いいや、あるいはこの振動すらも――。
そもそも、身動き一つ取れないなどあり得るのだろうか。そして、連中がこちらがまだ生きていることに気づかないなどということがあるのか。巨人だぞ。連中からすれば建物ほどもあるはずだ。息や脈の動きを見て取ることなど簡単なはずではないか。
ブチッ、グチリ、ガチッ――。
それとも、すでに判断は下されたのか。この肉を削るためらいのなさからすると、すでにどこかの大臣が判を押し、しかるべき行政の手続きまで済んでいるのかもしれない。
あるいは生きていようが死んでいようが連中にとってはどうでもいいことなのか。どちらにせよおれを解体し、そしてこの肉を――まさか、人肉を食うつもりなのか。ここはカニバリズムの島なのか。それとも、相手が巨人なら共食いに当たらないとでも? 確かに、もし巨人の肉がスーパーの棚に綺麗にパック詰めされて並んでいたら、おれだって手に取るかもしれない。連中からすれば、これはこの上なく貴重な食料源なのかも。
だが、だからといってこんなことが許されていいはずがない。
巨人であろうと、同じ生き物じゃないか。それもまだ生きている人間を……。
おれはもう死んでいるのか――。
吸い寄せられるように、思考はどうしてもその考えに行き着いてしまう。
だが、もしそうならばなぜだ。もし本当に死んでいるのなら、なぜいまだに意識がある。なぜおれはこうして考え続けている。これが死というものの形なのか。人間が行き着く先なのか。死んだあとも意識だけは残り、周りの音や誰かが体に触れる感触をかすかに感じ取れるのか。それは褒美なのか。罪なのか。
では、いつ終わる。いつになれば意識を失うのだ。全身がバラバラに刻まれたら? それとも焼かれて骨になったら? 器としての形を完全に失ったとき、ようやく魂は解き放たれるのだろうか。神は人間を肉体という牢獄に閉じ込め、地上に放ったのか。なんのために。なぜ、なぜ……。
知らない。何もわからない。死人の声に耳を傾けたことなどないのだから。解体される豚の悲鳴にも。
ブチッ、カチッ、ブチブチ――。
わかっていることはただ一つ。自分の肉が今この瞬間も、少しずつ削り取られているということだけだった。
音は時間が経つごとに増えていき、体のあちこちで絶えず鳴り続けていた。最初はふくらはぎだけだったが、今では太ももや二の腕のあたりからもはっきりと聞こえるようになっていた。
連中はなかなかに働き者らしい。せっせと肉を削り、切り取ったそれを次々と運び出しては、さらに深く、広く穴を掘り進めていく。作業は一時も途切れることなく続いていた。時折、ジジジジジと何かの工具が立てるらしい、けたたましい音も聞こえた。
連中からすれば、おれの体は巨大な鉱山のようなものなのかもしれない。掘っても掘っても肉が湧き出す、途方もなく豊かな資源だ。そのうち陽気な歌まで聞こえてきそうだ。
ヘイホー、ヨーホー、掘れよー。巨人の肉を掘り進めよー。ケツの穴を広げろー。
ちくちくと針で刺されるような痛みの他に、時おりライターの火を押し当てられたような熱い痛みが弾けた。連中はどうやら柔らかい部分から先に削ったほうが効率的だと判断したらしい。唇や爪の隙間、耳や鼻の穴の奥に入り込み、うぞうぞと動き回りながら肉を丹念に削り取っていく。
想像するだけで吐き気が込み上げた。身体の感覚がここまで鈍っていなければ、おれはとっくの昔に発狂していたに違いない。
角膜が傷み続けた結果か、ついに失明したようだ。視界は完全に白く塗り潰され、何一つ見えなくなっていた。もっとも、眼球すら動かせないのだから大した違いはないだろう。映っていたのは鈍く霞んだ青空とうろつく小人たちの影だけだったのだから。
またしばらくすると、連中はどうやら足を重点的に掘り進める方針にしたらしい。肉の内側に入り込まれるというのは、なんとも形容しがたい感覚であった。犯されているような屈辱と喪失感がありながらも、舌を絡め合う深いキスに溺れていく、そんな倒錯した陶酔が奇妙に同居していた。
ブチ、ブチ、ブチリ、ブチブチ――。
しかし、膝の半分以上を持っていかれたあたりで、ついに喪失感が勝った。
ぐちゃりと開いた傷口から肉の内側が外気に触れ、かすかにすーすーする。まるでそこから呼吸をしているように感じられた。
どうやら長時間動かないことで、おれの身体は壊死を始めているらしく、それが解体作業にとっていい追い風となっているようだった。人間の身体というものは動かないことを許さないらしい。なるほど。どうりでみな生き急ぐわけだ。
ベッドの上で動けない人間のことを世間では植物人間と呼ぶ。しかし植物は生きている。葉で陽光を受け、根から栄養を吸い上げ、季節が来れば花を咲かせ実をつける。それに比べて、ただ腐っていくだけのおれを植物扱いするなど、あまりにもおこがましいのである。
マスコミ――あるいは世間――は相変わらず巨人解体ショーに強い関心を持ち続けているらしい。何台ものヘリコプターがおれの頭から足先まで忙しく飛び回り、その一部始終を映像に収めているようだった。プロペラの音が耳元を横切るたびに、じわりとした不快感が込み上げた。
作業員たちもまたどこか煩わしく思っているように感じ、おれはほんの少しだけ意地の悪い喜びを覚えた。
グチッブチッ、ブチブチブチブチブチ――。
どうやらとうとう骨まで達したらしい。肉の上を歩き回られるいつもの感覚に、これまではなかった硬質な振動が混じるようになった。連中は作業の手を一時も止めることなく、器用に骨を避けながらその周囲の肉だけを丁寧に削り取っていく。
おそらく骨格標本でも作り、どこかに展示する腹なのだろう。巨人の骨格なんて考えただけでもわくわくするではないか。博物館か万博の目玉になるに違いない。目玉そのものはきっとホルマリン漬けにされ、会場の中央にでも飾られるだろう。
そうだ、脳とペニスもホルマリン漬けにするかもしれない。
『まあ、大きいこと。皺が少ないのね』
『ええ、そうね。つるつるで綺麗だわ』
『まあ、そっちのことじゃないわよ。脳のこと』
『あらやだ。てっきりこっちのことかと思ったわ。うふふ』
『あはは。でも同じことよね。だって男ってあっちで物を考えるじゃないの』
『あらやだ。おほほほほほ!』
おほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ!
唇を引っ張りながら剥ぎ取り、眼球を踏み、耳たぶをちぎり、鼻の内壁を削り――連中は休まずせっせと働き続けた。
その底抜けの勤勉さには、もはや嫌悪や恐怖を通り越して尊敬の念すら抱いた。抵抗する気力はとうの昔に失われていたし、たとえ残っていたところで何の役にも立たず、おれはいつしか連中を応援するようになっていた。
早く、早く終わらせてくれ。早くおれをここから出してくれ――そのことだけが頭の中を占めていた。
ぎゅっ、ぎゅっと小さく押し固められた意識をこの肉の檻から解放してくれ。そう願った。願い続けた――。
しかしそんな折、ふとこんな考えが頭をもたげた。
――おれは本当に砂浜にいるのだろうか。
ここはあの狭い部屋の畳の上で、時おり聞こえる波の音は窓の外の木々の葉が風に揺られて擦れ合う音で、海鳥の鳴き声はトンビかカラスで、ヘリコプターはハエで、工具の音は蝉の鳴き声で、おれを解体している小人たちは――。
そして、おれはまだ死んでいないのではないか。
今年の夏は特に暑い。誰かがそんなことを言っていたのを、おれはふと思い出した。




