魔法の本も、読んでみていいですか(ミオ視点)
扉の向こうに広がっていたのは、息を呑むような空間だった。
天井までの見事な吹き抜け。壁一面を埋め尽くす本棚が三層、四層と積み重なり、各階の回廊を網目のような螺旋階段が繋いでいる。アーチ型の天窓から斜めに差し込む午後の光が空気中の埃をきらきらと照らし出し、光の道を作っているかのようだ。
古い革の匂い。インクと、かすかな蜜蝋の香り。静かに響く誰かの靴音。五感を刺激される中、ミオの脳裏に浮かんだのは、子どもの頃に写真で見た遠い国の図書館だった。
今自分が立っているのはその写真よりも古く、静謐で、何より現実の世界だ。
「すごい……」
思わず溢れた言葉に、イグニスが驚いた表情を見せた。
「君のいた世界の図書館の方がよほど立派じゃないかと思うんだが」
「大きな図書館はたくさんありましたけど、もっと無機質な感じで……。こんなに雰囲気のある図書館には初めて来ました。とても素敵です」
「そうか。シェルバイン王国は森林が多いこともあって、紙の生産が盛んなんだ。隣のアギ帝国には劣るだろうが、それなりな蔵書数を誇っている。君が読みたいものも見つかると思うぞ」
言いながら隣を歩く彼の歩調はどこまでも優しい。日本人の中では背が高い方のミオだったが、この国では小柄な方だ。ルミネも自分より高かったし、担当してくれているメイドたちもすらりとした人が多い。
女性だけでなく男性も同じだ。特にイグニスは身長もさることながら、鍛え上げられた体躯が見事で、存在感に圧倒されてしまう。だがミオに付き添う彼はいつも歩幅を合わせてくれた。そうした気遣いを嬉しく感じてもいた。
雰囲気のある書棚を眺めながら歩いていると、あちこちから刺さる人の視線がどうしても気になった。すれ違う人、本を選んでいる人、作業をしている人、皆がちらちらと、時にじっとミオのことを見つめてくる。隣の人と囁き合いながら目を丸くしている人もいる。
この視線はイグニスに向けられているものではない、自分に対してのものだとわかり、胃がぎゅっと縮まった。
何か変なことをしてしまっているのだろうか。異世界人である自分が図書館にいること自体、場違いなのだろうか。肩が縮み、本の背表紙の文字が頭に入ってこなくなる。
どうしようと俯いた、そのときだった。横を歩いていたイグニスが立ち止まり、体を割り込ませてきた。彼の大きな上半身で、向こうから歩いてきた二人組の視線が遮断される。
イグニスは二人組が通り過ぎるまでそのままでいてくれた。背の高い彼が作る影の中で、縮まっていた胃と肩の力が抜けていく。
「あ、あの……」
「彼らは単に落ち人が珍しいんだ。君を責める目ではなく、物珍しさで見ている。悪意はない」
そう説明されて、なるほどと感じた。日本にいたときの自分が外国人に目を惹きつけられるのと同じということか。
だが納得はしても慣れない状況であることに代わりない。とはいえこの世界に来てしまった以上、耐えなければいけないことでもある。
俯いたまま「慣れていかなくちゃ」と自分に言い聞かせていると、頭上からイグニスの声が降ってきた。
「誰でも、知らない場所で知らない者たちに見られ続ければ落ち着かないだろう。俺だってそうだ。君は充分、よくやっている」
日本にいた頃、会議で司会を任されただけで緊張してしまい、声が上擦って上司に苦言を呈されたことを思い出した。目立たぬよう、人に迷惑をかけぬようと生きてきたミオは、視線を集める場がどうしても苦手だった。
今だってただじろじろ見られただけで、話しかけられたわけでもない。それなのにイグニスは「よくやっている」と言ってくれた。気遣いからの言葉だったとしても、この上なく嬉しいと思ってしまった。
「あっちのスペースは衝立があるから人目を気にせずにすむ。そこで読んではどうだ?」
「はい、そうします。あの、この国のことがわかる本はありますか?」
図書館に来たいと言ったのはそれが目的だった。自分がどんな場所にいるのか、まずはそれを知らないと、この先どうしていいのか対策を立てることもできない。落ち人は保護対象だとは聞いているが、いつまでも城で世話になるわけにはいかないだろう。本当に元の世界に帰れないなら、この国で仕事に就かなければならないかもしれない。
ミオの希望を聞いたイグニスは、ある本棚へと誘導してくれた。棚から一冊の本を抜き出す。
「これはシェルバイン王国の建国史だ。難しい言い回しはないから子どもでも読める。まず最初に読むといい」
「ありがとうございます」
「地理誌もあった方がいいか。大陸全体の地形と国の配置が頭に入ると、歴史書の内容がより繋がりやすくなる」
本を一冊ずつ積み上げるその仕草も、選んだ理由を告げる口調も、とても丁寧だった。ただ選ぶだけでなく、どう読むかまで考えてくれている。それに気づいて、また少し胸があたたかくなった。
「はい。ありがとうございます」
本を開いてみると、ちゃんと文字は読めた。奇妙なことに、転移した瞬間からこの世界の言葉は自然と頭に入ってきた。謎のひとつだったが、メイドたちも「落ち人はそういうものと聞いている」と言っていた。
選んでもらった本のページを繰りながら、ミオはふと思った。
「……魔法の本も、読んでみていいですか」
「興味があるのか」
「だって、この世界には魔法があるんですよね。私の常識では考えられないことが。そうしたこともちゃんと知っておきたいんです。知らないままでいるより、知った方が怖くなくなる気がして」
しばらくイグニスはミオを見ていた。何かを確かめるような目をしていたが、そのうち「待ってろ」とだけ告げて、衝立の向こうへと消えた。
戻ってきた彼の手には黒い皮表紙の本があった。
「魔法概論だ。入門書だが基礎は網羅されている。疑問があれば聞いてくれ。一応魔法を扱う職に就いているしな」
イグニスは魔法騎士だと聞いた。攻撃魔法を使えるほど魔力の量と質が高く、魔獣と呼ばれる存在から国を守っているのだという。
「イグニスさんは、どんな魔法が使えるんですか?」
「生活魔法はひと通り。攻撃魔法は雷が得意だな。魔法騎士は火や雷などの攻撃に向いた魔法を使う者が多い。魔法師は水や風など、範囲の広い攻撃や守備を得意としている」
「見せてもらえますか。……あ、でも、図書館だから難しいですかね」
残念そうに呟けば、イグニスは少し考えてから「このくらいなら」と言った。何か小さく呟きながら、指をぱちん、と鳴らす。
次の瞬間、ミオの頬にそっと風が触れた。風はさらに流れて、本のページをひらりとめくる。さらりとしたかすかな音が、静まり返った図書館にひそやかに響いた。宙に浮いた埃が光の中でくるりと渦を巻き、きらきらと流れてからゆっくりと消えていく。
「綺麗……」
思わず呟くと、風は静かに止んだ。手元のページが最初に見ていたページにぱらぱらと戻り、まるで「続きをどうぞ」と言っているようだった。
「威力などほぼない生活魔法なんだが……気に入ったなら良かった」
そう言って彼がふわりと笑う。その顔を直視できなくて、ミオはごまかすように開いたページに目を落とした。読めるはずの文字が滑って頭に入ってこない。
それなのに、なぜかこの世界が少しだけ近くなった気がした。




