この先に何かあるの?(ミオ視点)
「遠藤さんじゃないか。こんな時間まで何してんの」
「あ、えっと、翻訳とプレゼンの資料をまとめていました」
本社出張に出ている彼の名前を上げて頼まれたのだと伝えれば、課長は面白くなさそうに顔をしかめた。
「でも遠藤さんはあいつのアシスタントじゃないでしょう。あぁでも、仲はいいんだっけ。君もよくやるよね」
言いながら荷物を自分の机に置いた彼は、ふう、と息をついた。
「僕は出張帰りで、荷物だけ置きに戻ってきたんだけど、君は残業と言いながら何をしているのかな」
「あの、これは……」
課長が目を向けた先には澪のスマホがあり、画面の中ではNOKKOがピンクの頭を揺らしながら大笑いしていた。何か面白いことでもあったのか、あみぐるみ作成も中断しており、コメントにもスタンプやwwwの文字が踊っている。
ちょっと休憩していたと言えばいいのだ。社則でも認められている権利だ。だが、澪の声帯はまるで固まってしまったかのように声を発さず、ひゅーひゅーと息が通り抜けるばかりだった。
「まったく、最近の若い子は仕事とプライベートの区別もつかないんだな。やらなくてもいい仕事で残業したり、スマホで遊んだり。何しに会社に来てるんだか」
「……申し訳ありません」
急いでスマホの画面を閉じる。指に絡んでいた毛糸を外すと、作りかけの小花の塊が音もなく床に落ちた。
「あの、作業に戻ります」
そう言ってパソコンに向き直ろうとしたとき、不意に課長の手が澪の肩に伸びた。
「君さ、親がいないんだって?」
「え?」
「それで施設で育ったって聞いたけど。じゃあ親戚とかもいないんだ。よくそれで大学出られたね。奨学金?」
「……」
突然振られた話題に反応できず押し黙る。確かに澪は中学生のときに事故で両親を亡くし、それ以来施設で育った。幸いなことに両親の遺産や保険金のおかげで大学にも行くことができたので、奨学金はもらっていない。だが、お金があると知られればつけ込まれる可能性もあるからと、周囲には内緒にしてきた。
自分が施設育ちだということを、ことさら隠していたわけではないが、何も積極的に言いふらしたわけでもない。それでも、職場にはいつの間にかその噂が広がっていた。あからさまな差別を受けたことはないが、嫌な目にあったことは過去にもあった。
澪の無言を肯定と受け取ったのか、課長がさらに顔を寄せてきた。むわっと立ち上るのは酒気を帯びた匂い。近づいてほしくなくて、思わず顔を背ける。
「ふーん。だったら、僕がその奨学金の返済、手伝ってあげようか? 外資系企業の課長クラスだからさ、そのくらい簡単だよ」
「え?」
「その代わり、ちょっとつきあってよ」
言いながらさらに詰め寄ってくる課長相手に、澪は咄嗟に足元の椅子を押し付けた。
「何なさるんですか!」
「何って、本社に行ってるあいつと君が普段してることだよ。あいつのとこは奥さんが専業主婦で財布を握られてるって嘆いてたから、君に使える金だってそんなにないんだろ? だったら僕の方が条件もいいよ」
課長の言い分にざっと血の気が引く気がした。まるで澪が社内で不倫していると言っているようなものだ。
「わ、私、そんなことしてません!」
「隠さなくてもいいよ。ほんと、あいつもうまいこと引っ掛けたもんだよね。君みたいな都合がいい女の子をさ」
「はい……?」
「守ってくれる親もいない女の子なんて、いいカモだよな」
椅子を力づくで払い除けた課長は、再び澪の眼前に迫った。
「いや……っ!!」
握りしめていたスマホを投げつけ、澪はその場から飛び出した。背後で課長が「痛っ!」と呻く声がする。だが振り返る余裕もなく、走って営業フロアを飛び出した。
薄暗い廊下を駆け抜け、エレベーターまでたどり着く。急いでボタンを押したが、すぐに上がってくる気配はない。
「ひどいじゃないか、遠藤さん」
弾かれたように振り向けば、課長がすでに数メートル先まで迫っていた。
「来ないで!」
エレベーターを諦めた澪はさらに走った。だがこのフロアの非常階段は廊下の反対側だ。この先は自販機が置いてある休憩スペースしかない。
そこに逃げ込んでも課長を避けることは出来ない。咄嗟に判断して、首から下げたパスキーで手近な部屋の扉を開けた。微かな電子音とともに開いた扉を急いで閉め、内側から鍵をかける。
飛び込んだのは少人数用の会議室だった。入り口は一箇所だけだ。だがそれは澪にとってなんの気休めにもならない。
なぜなら課長もまたパスキーを持っていた。
安堵する隙もなく机を扉に集めて簡易のバリケードを作る。必死で作業する澪の耳に、課長のねっとりした声が絡んだ。
「無駄だよ、遠藤さん。あぁでも、密室っていうのも雰囲気があっていいっていう判断かな」
澪の予測通り、無情にもキーが解除される音が響いた。それでも全身の体重をかけて机を押し続けた。
「なんだ、開かないぞ! おい、何やってんだ、開けろ!」
想定が狂ったことに腹を立てたのか、課長が叫びながら扉をこじ開けようとしてきた。ここで負けたら最悪の事態になると、澪も必死になって机を押し返す。勢いで片方のヒールが飛んでいったが、探している場合ではなかった。
(どうか、このまま諦めてくれますように……)
課長はお酒を飲んでいるようだから、力も入りきらないかもしれない。もう少し耐えれば興醒めだと立ち去ってくれるかもしれない。
だが細身の澪の体力にも限界があった。恐怖と苦痛で目尻に涙が滲む中、がんがんと扉を叩く音が激しく響く。
「こら、開けろって言ってるだろうが!!」
がん、と一際強く扉を打ち付ける音。蹴り飛ばしたのか体当たりしたのか、一瞬だけ扉が開いたところを、渾身の力でさらに押し返した。
(どうしよう……どうしたら)
誰もいないフロアで、自分を助けてくれる者はいない。それでも叫ばずにはいられなかった。
「お願い……誰か……助けてっ!!」
そのときだった、澪の背中のあたりがふわりと暖かくなった。何かと思って顔だけ振り向けば、窓の手前になぜか人ひとり分ほどの大きさの穴が空いていた。
「え……?」
穴の周囲には光の渦が渦巻いていた。白と黒の粒子がきらきらと舞い、幾重にも連なって炎のような揺らめきを見せている。そしてその中心には、うっすらと道らしきものが見え隠れしていた。
(何、これ……まるで何かの門のよう。この先に何かあるの? )
呆然とその穴を見つめていると、どん、と身体に強い衝撃が走った。
「抵抗するんじゃない! 誰も君なんか助けてくれるはずないだろうが!!」
課長の声に引き戻されてさらに踏ん張ろうとしたが、運悪く裸足になった方の足が床を滑った。がたがたと机が押され、扉が今度こそ開きかける。
(そうよ、誰も私なんか助けてくれるはずない)
中学生だった自分は成長しすぎていたのか、施設でも完全に馴染むことができなかった。いろんな人に遠慮して気を遣って、そんな生活が染み付いたせいか、大学でも職場でも人と距離をとるようになってしまった。
誰も助けてくれない……だったら、せめて自分で自分を守れるようにならなければと、必死で生きてきた。
目の前で崩れていく机の牙城———その崩壊を待つくらいなら、自分から動いた方がいい。たとえそれが予測のつかない先へと繋がっていたとしても。
逃げるのか、選ぶのか、極限の状態では違いの判断がつかなかった。片方だけ履いていたヒールを思い切って脱ぎ捨てる。
会議室のドアが開き切る前に、裸足になった澪は白と黒の光の先へと飛び込んだ。




