ちょっとだけ、見てみようかな(ミオ視点)
スマホのアラームが鳴り響き、澪はキーボードを叩く手を止めた。
時間は午後八時五十分。時間の流れを忘れるほど、事務作業に集中していたらしい。アラームを解除したついでに大きく伸びをすれば、身体のあちこちが軋むように音を上げた。
再びパソコンの画面に目を戻す。就業間近に同期の女性社員から突然振られたデータ収集業務。
「今、田舎から両親が来てるのよ。だから早く帰りたくて」
そう言って指示書を送りつけてきた彼女は、澪の返事も聞かないまま退勤の処理をして去っていった。慌ててメール添付の資料を確認してみれば、海外の本社に出張に出た営業担当が明日の午前に使用するものらしかった。
必要なデータと処理にかかる時間をざっと計算する。早ければ二時間程度で終えられそうだ。医療機器メーカーに入社してまだ二年だが、営業事務としていろんな意味で鍛えられてきた澪は、業務をこなすことはもちろん、それにかかる時間も十分見積もれた。
予定通り二時間で作業を終えて、営業担当にチャットを入れたところで、彼から新たな仕事が追加された。
海外向けの翻訳も含んだ内容は、アシスタントである自分の業務を超えていた。おまけに自分は彼の直属でもない。そう思って断ろうとした矢先、彼からプライベートのアドレスにチャットが届いた。以前、社内で開かれた飲み会でしつこく聞かれ、断りきれずに教えてしまった。
『オレの仕事だからって遠藤さんが手を上げてくれたんだって? ありがとう。お土産買っていくから、戻ったら二人で食事でも行こう』
社内結婚して、すでに子どももいる彼からのメッセージに背筋がぞっとした。押し付けられただけだと反論しようとしたが、これ以上会話を続けることが気持ち悪くて「食事は結構です。出来たら連絡します」とだけ返信した。
澪が手を上げた事実はないから、同期が仕事逃れを言い訳するために嘘を伝えたのだろう。出張先の営業マンは、普段から彼女でなく澪に仕事を依頼してくることがちょくちょくあった。それもまた、同期の気に触っているのかもしれなかった。
同じ営業に配属された同い年の彼女と、始めはそれなりに仲良くできていたと思う。だがいつの間にか面倒な仕事を押し付けられたり、小さな嫌がらせが始まるようになった。
なぜ嫌われてしまったのかよくわからない。己の意見をはっきり言える、気弱な自分とは正反対の強い人だと憧れてもいた相手だったから、ショックは大きかった。
「きっと、私が悪いんだよね……」
自分は彼女のように思ったことを堂々と口にすることができない。今日だって本当は断りたかったのに、「私も用事があるから」の一言が言えなかった。
時間はさらに進んで、八時五十八分を指していた。九時まであと二分。翻訳とグラフ化の作業はどんなに頑張ってもあと一時間はかかるだろう。
「今日は絶対帰りたかったのに。やっぱり間に合わないかぁ……」
ため息をついた瞬間にまた一分進んだ。同僚たちはすでに退社しており、営業部には澪しか残っていない。このフロアには会議室が集中しており、同じ階に人がいるとも思えなかった。
「ちょっとだけ……見てみようかな」
どうせ誰もいないし、誰もこない。その事実が、澪の行動を後押しした。
スマホを手にしてインスタアプリを立ち上げると、フォローしているお気に入りの作家のアイコンをタップした。時間はちょうど九時。ライブが始まったところだった。
『こんばんは! あみぐるみ作家のNOKKOです。今日は月に一度のみんなでライブ編みの会。テーマは自由だから、みんな編みながらコメントしてね。ちなみに私が今日挑戦するのは……』
ショートヘアをピンクに染めた女性が、かぎ針と毛糸を掲げてライブをしている。NOKKOは、澪が趣味にしているあみぐるみ界隈で有名な作家だ。彼女のライブはアーカイブも含めて欠かさず見ているし、個展に足を運んだこともある。
普段は自身の作品作りをライブすることが多いが、今日は月に一度の「編み物しながらみんなでだらだら語り合う会」の日だった。周りに同好の士がいない澪にとって、日本全国、ときには海外の仲間も交えて、一緒にあみぐるみが作れるこのイベントは、ぜひとも参加したい貴重な場だった。
普段の澪なら、就業中に私的な活動をすることはしない。だが今日は、同期に仕事を押し付けられたことに加えて、既婚者の彼から下心満載のメッセージが届いたことで、精神的にかなり疲弊していた。
少し見るだけと思いつつも、月一ライブの常連としては、やはりコメントを寄せずにはいられない。
『こんばんは。実は会社でまだ残業中で、今日はあみあみ出来ません。涙』
澪が投げたコメントに、NOKKOがすぐに反応してくれた。
『リコリスさんこんばんは! 残業なの? うわぁ大変』
NOKKOの発言を機に、馴染みのライブ参加者たちからも『リコリスさんかわいそう』『えー今の時代にこんな時間まで残業させるなんて』『ちゃんと休憩してくださいね』などとコメントが寄せられる。
彼女たちの励ましに目元をうるませていると、NOKKOが別の人のメッセージを読み上げた。
『あ、マーブルさんが、"私も残業中だけど、休憩がてら指編みで参加してます"だって。確かに毛糸さえあればかぎ針がなくてもいけるね! リコリスさんは指編みのワークショップにも参加してくれてたし。どうかな』
そのコメントを受けて、澪は足元のバッグを見下ろした。残業が終わったら即座に帰れるよう、ロッカーの荷物をすでにまとめていたのだが、その中に買い物袋が入っていた。会社のビルの一階に百円ショップがあり、ちょうど昼休みに毛糸を買い足したばかりだった。
「そっか。指編みでもできるんだった。やってみようかな」
あみぐるみは時間的に無理でも、一段で完成するコサージュくらいなら簡単に編める。すでに三時間の残業をこなしたところだ。社則で十五分程度の休憩が許されている。
『ちょうど毛糸もあるので、少しだけ参加します!』
そうコメントして、一番太い毛糸を取り出した。三連の輪っかを作ったあと、小指と薬指に毛糸を通して、右の指をかぎ針に見立てて糸をすくっていく。あっという間に中心部分が仕上がった。
「ふふっ、太い糸を買っておいてよかった。お花にしようかな、星もかわいいかも」
両手を使っているせいでコメントはできないが、十分楽しい。ささくれ立っていた心もいつの間にか落ち着いていく。
そうして二つ目の花びらを作ったときだった。
「あれ、誰かまだ残ってるの?」
入り口からした突然の声に、思わず背筋が伸びる。
「あ、課長……」
振り向けば、出張に出ていたはずの上司が荷物を抱えて立っていた。




