第8話:青いマントの意味
冒険者としての初めての一歩。
装備を整え、教会を出る準備を進める誠二。
仲間たちの想いを背に、新たな旅立ちの朝が訪れる――。
扉の向こうから、磨かれた床板に靴底がそっと触れる音がした。白灰に塗られた厚い石壁と、古いガラス窓から差し込む朝の光――その青みを帯びた光は、廊下に漂う埃を糸のようにきらめかせ、庭のハーブの匂いを薄く運んでくる。遠くでは食器の触れ合う音、井戸の滑車が鳴る乾いた木のきしみ。教会の朝は、静けさと生活の音が美しく混じり合っていた。
「どう……かな? やっぱり俺みたいなもやしだと、ちょっと不格好だよな。」
ゆっくりと開いた扉から、誠二が姿を現した。待っていたレーネと、皆から“姐さん”と呼ばれる最年長のシスターが、同時に小さく息を呑む。
身につけているのは、使い込まれて織り目が柔らかく馴染んだ白のシャツに、厚手の茶色いズボン。細身の体には少し大きく見えるが、その上から留めた簡易の皮鎧が輪郭を整える。肩と肘、膝には革に薄鉄を重ねた小さなプロテクター。色は地味でも、実用本位の道具としての説得力があった。足元は茶のレースブーツ。踵はすでに馴染んでおり、歩けば低く品のいいきしみが鳴る。腰ベルトには小さな背嚢が留められ、背に流れる革のストラップが新しい相棒の気配を告げる。
そして左の腰には、黒革の鞘に収められた〈グラディウス〉。鞘口近く、金の小さな十字がはめ込まれていて、窓明かりを細く反射した。その微かな煌めきが、彼の装いに一本、信頼の芯を通す。
全体に茶を基調とした、いかにも“駆け出しの冒険者”の装い。それでも胸元の留め具をきゅっと締めた瞬間、だぶついていた布がすっと体に沿い、少年めいた線に凛とした気配が宿った。
「ううん! すっごくかっこいいよ!」
レーネが両手を胸の前で組み、ぱっと花が開くみたいに笑う。姐さんは目尻をやさしく下げ、まるで息子を見送る母親のように頷いた。
「少し大きく見えるのは最初だけ。布も革も、人の体に寄っていくわ。……それに、ね。かけだしの冒険者って感じが初々しくて、とってもいいのよ」
「……ありがとう。なんか、こそばゆいな」
誠二は後頭部をぽりぽりかき、頬をほんのり染めた。胸の奥で、懐かしい記憶がひらりと舞い上がる。――春の朝。新しいランドセルの革の匂い。手をつないだ母と父。校門の影が長く路面に伸びていたこと。胸の底がきゅっと熱くなる。
「……懐かしい」
「セイジ、昔も冒険者やってたの?」
レーネが首を傾げる。無垢な水色の瞳。
「いや、ただの……日本の学校のことを思い出してさ」
そう答えたとき、姐さんが一歩近づいた。細い指先がそっと誠二のこめかみを支え、そのまま胸元へ引き寄せる。白い修道服の布が頬に触れ、洗いたての亜麻と蜜蝋の、懐かしいにおいがした。驚きのはずなのに、胸のざわめきはするりとほどけていく。
「ご無理はなさらないでくださいね」
姐さんは、抱きしめる腕にほんの少しだけ力をこめる。
「長い時間を過ごしたわけではありません。ただ朝食を一度、皆で囲んだだけ。それでも……もしあなたに何かあったら、私たちは悲しいの」
「……はい。気をつけて、頑張ります」
顔を上げると、そこにあるのは叱るでも縋るでもない、ただ深く信じる人の笑み。言葉より先に、背筋が自然と伸びた。
と、強い視線を頬に感じた。低い位置からじっと向けられる、むんっとした熱。
視線だけ動かすと、レーネが頬をぷうと膨らませ、両腕をいっぱいに広げていた。「んっ」と、抱っこの合図。
「はいはい」
姐さんの腕からそっと離れ、しゃがんでレーネと目線を合わせる。抱き上げると、彼女の体温が小さく腕に収まった。
「レーネも、いろいろありがとう。朝から少ししか一緒にいないのに、もう皆と仲良くなれた気がする。……レーネのおかげだ」
「帰ってきてね。……絶対だよ」
いつも賑やかな顔に、影が落ちる。泣き顔ではない。けれど、光の加減だけでは説明できない翳りが、瞳の奥に揺れた。
どうしてそこまで――と、誠二が姐さんへ視線を向ける。問いを察したのだろう、姐さんはひと呼吸おいて口を開いた。
「五年前のことです。セイジ君とよく似た年頃の人を、数日だけ泊めたことがありました。転移者ではなさそうでしたが、やはり“冒険者になる”とギルドへ向かって……その日も、今日みたいに穏やかな朝でした」
「それで……」
「帰ってきませんでした。無事かどうかもわからないまま、五年。――だから、心配なのです。レーネも、私も、この家の皆も」
ああ、だから――ここまでよくしてくれたのか。胸の奥で、ファンタジーの色つきガラスがぱりん、と薄く割れる音がした。これはゲームではない。命を落とせば、もう帰ってこられない世界だ。
廊下の向こうから、靴音がカツン、カツンと響いた。わざとらしいくらいの音量で、けだるい声が続く。
「あー、くさいくさい。人んちの前で、そういう辛気くさい顔しないでくれる? 通れないんだけど」
振り向く間もなく、何かがふわり――そしてずしりと顔にかぶさった。ほこりと草の混じった匂い。長く倉庫で眠っていた布の手触り。
「ちょ、ちょっとリリー、何やってるの!」
姐さんの声が跳ねる。が、誠二はレーネを抱いたままでは布に手が届かない。もがいていると、バサッと布が取り払われ、姐さんの手に青いマントが現れた。
くすんだ青。ところどころ擦れて色が白み、裾は何故だか無造作に裂けている。けれど、縫い目は堅牢で、風をはらめばきれいに弧を描きそうな重みがあった。
「リリー、これって――」
呼び止めると、彼女は肩越しに顔も向けず、投げるように言葉を返す。
「その装備、だっさいのよ。上から下まで茶、茶、茶。虫みたいで不愉快。――でも、虫でも“青い蝶”ならまだマシ。……ただ、それだけ」
捨て台詞のように言い捨て、すぐ横の扉を押し開けて庭に出る。外光が一瞬、彼女の髪を白く縁取った。
「……なんなんだよ。怒るのか気づかうのか、どっちかにしてくれ」
誠二がぼそりと言うと、さっきまでしょんぼりしていたレーネが目をまん丸にして、庭への扉を見つめた。
「あのね、リリーお姉ちゃんはね、チョウチョが大好きなの。青いチョウチョが」
姐さんが近寄ってレーネの頭を撫で、誠二へ微笑む。
「青いマントには厄除けの意味合いがあります。……不器用ですけれど、心配しているんですよ、彼女なりに」
「レーネ、ごめん。降りて」
そっとレーネを床におろし、姐さんからマントを受け取る。広げて肩に乗せると、重さも長さも驚くほどしっくりきた。裾の裂け目は走ると遊びそうだが、動きの邪魔にはならない。
胸元の留め具を合わせ、ひと呼吸。庭側の窓へ歩み、光を背に二人へ振り返る。外では風がハーブの畝を撫で、波打つガラス越しに葉影が揺れている。マントの端がふわりと持ち上がり、黒革の鞘の十字が一瞬、金の線を床に落とした。
できる限りの大きな声で――
「いってきます!」
言葉が廊下に伸び、石壁に柔らかく返ってくる。姐さんは目を細めて笑い、レーネも今度は、はつらつとした――けれどどこか祈りの混じった、やさしい笑みを浮かべて頷いた。
少しずつ「異世界の現実」を知り始める誠二。
不器用ながらも、仲間の温かさが心に灯をともす。
次回――初めての街、そして冒険者ギルドへ。




