第7話:俺、なんかやっちゃいました?
温かな食卓、無邪気な少女レーネ、そしてどこか達観した神父ダリア。
異世界の“普通の生活”に触れたそのひとときが、
彼の心に眠っていた“熱”を再び呼び覚ます――。
周りのシスターたちが次々に料理へ手を伸ばす中、誠二はひと呼吸おいて、そっと両手を合わせた。
「……いただきます」
誰もやっていない所作を一人で行うのは少し気恥ずかしい。声も仕草もできるだけ小さく――それでも、隣のレーネには届いたらしい。
「んふぇ……んぐ、んぐ……い、いただきます? それってなにをもらうの?」
大きなパンにかぶりついた頬をふくらませ、咀嚼を終え切れずに言葉がこぼれる。行儀は悪い、けれど無邪気で可愛い。
「えっと……ご飯を食べるってことは、誰かの命を“いただく”ってことなんだ。たとえばパンの元の麦だって、動かないだけで、呼吸して光を食べて生きている」
「その命を自分の糧にさせてもらう。だから日本では、食べる前に手を合わせて『いただきます』って言うんだ」
「へえ! そうなんだ! わたしもやる!」
レーネはパンをいったん皿に戻し、小さな手を胸の前で合わせ、すうっと息を吸い込む。
「――いただきます!」
鈴みたいな声が小食堂に弾んだ。シスターたちとダリアが思わず目を細める。何人かは、彼女の真似をしてそっと両手を合わせた。十人にも満たない卓なのに、わいわいと賑やかで、温かい。
「どうだろう。うちのパンは口に合うかな?」
上座からダリアがやわらかく水を向ける。たちまち談笑が止み、視線が誠二へ集まった。どの世界でも、手料理の評は気になるものだ。
誠二は薄く切られた黒いパンを取り上げる。切り口の生地には細かい香草の緑が星屑みたいに散り、割れ目からはまだ微かに湯気が立つ。鼻先でそっと息を吸う――麦の甘い香りに、焼き立ての焦げの香ばしさ、庭のハーブの涼しい匂いが重なる。
歯を立てる。
ぱつん――静かな音を立てて厚い皮が割れ、内側のしっとりした白が現れた。外は堅く、噛むほどに弾み、内はもっちりと舌に吸いつく。粗挽きの粒がぷちりとほどけ、麦の甘みがじんわりと滲み出る。ほんのわずかな酸味は、種の深い発酵の名残だろう。噛み込むたび、喉の奥に香ばしさが積み重なり、空腹が心地よく疼く。
「……麦の香りが、すごい。香ばしい」
思わずこぼれたつぶやきに、自分でも笑ってしまう。
気づけば手はスプーンをとっていた。湯気の向こう、淡い金色のスープが小さな油の輪を幾つも浮かべている。ひと口――。
最初に来るのは骨太な旨み。肉や骨のブロスの基礎に、どこか遠くで魚介の影がひそんでいる。海風のような微かな塩気が甘みを引き立て、香草の細い香りがあとを追う。具は豆と、玉ねぎに似た白い球根野菜。スプーンの背で軽く押せばほろりと崩れ、舌にのせると驚くほど甘い。ふくふくと煮えた豆は、皮がやさしく割れて中身がとろり。スープの塩と油が薄い膜になって豆を包み、口の中で小さくほどけていく。
「……甘っ。さつまいもみたいにねっとりしてる」
思わず日本の記憶が顔を出す。けれど馴染みのない香りと重なり合って、懐かしさと新しさが同時に胸を満たした。
向かいのシスターたちは、見物客みたいに彼の一挙手一投足を追っている。誠二は照れ笑いしながらも、もうひと口、もうひと口とスプーンを運んだ。
「おいしいようで、なによりだよ」
ダリアの声に我へ返る。空腹に任せて、少し我を忘れていたらしい。
「本当に……すごくおいしいです。日本では食べたことがない味なのに、どこか懐かしい。麦の香りとこのスープの甘さ、あとから来る香草がたまらない」
「うちの姐さんは料理の達人だからね。そりゃ旨いさ」
向かいのリリーが、いたずらっぽい笑みを、ほんの少し柔らかくして言う。
「セイジ君ですよね。おかわりはたくさんありますから、いっぱい食べてくださいね」
ダリアの正面――最年長のシスターが、さっきの小競り合いが嘘のような温和な笑みで身を乗り出す。
「皆さん、本当にありがとうございます。手当もしてもらって、こんなご馳走まで……」
「気にしないの。今年はお庭のお野菜がよく採れてね。ご近所にも配って回ったぐらいよ」
リリーの隣に座る、赤い前髪を垂らしたシスターが明るく受け流してくれる。
そんな中、向かいのリリーが、肘を卓にのせて顎をちょんと乗せる。
「で、さっきの続き。『何の能力もない』ってどういうこと?」
「だから本当に分からないんだって。俺、ただの一般人だし……その“特別な力”って何?」
リリーは腕を組み、じとっとした目で睨む。肘の下でスプーンが小さく揺れて、器の縁にからんと当たった。
「ニホンからの転移者に与えられる、通称“ギフト”。――あんた、ニホンから来たんでしょ」
「……ギフト?」
助け舟を求めて、誠二はダリアへ視線を送る。彼は短く咳払いをひとつ。
「少し、歴史の勉強をしましょうか」
ダリアが言葉を整える間も、食卓は動いていた。スープをすする音、パンを割る小さな破裂音、木の皿にナイフが擦る音――生活の気配に、話だけが静かに乗る。
「記録によれば、八百三十六年前から、日本の方々がこのアルカディアへ転移してきました。だからこそ日本の食文化が根付いています。最初に訪れた方は――ミナモトノヨシツネ」
「ちょ、義経!?」
シスターの一人がパンを落としそうになり、慌てて受け止める。ダリアは微笑を含ませ、続けた。
「彼は卓越した剣士で、圧倒的な求心力を備え、数年で一国の王になった。その国は今も『ミナモトノ国』と呼ばれ、五大国家の一つです。彼は“神の肉体”とも言えるほど人並外れた力を持ち、のちに来た転移者たちも皆、同じく常人を超える力や武器を与えられていた――皆一様に『女神に会い、授かった』と口々に語ってね」
スープ椀が次々に空になっていく。聞き慣れた話なのだろう、皆の手は止まらない。レーネだけは、相も変わらずパンへ視線を釘づけにしている。
「でも、待ってください。俺は女神になんて会ってませんよ」
誠二は額の汗を拭い、思わず早口になる。
「どうやら、あなたは少々特別なようです。誰に召喚されたのか不明、女神にも会っていない様子、そして――今のところは、特別な力も見当たらない。すべてが謎に包まれている」
「今までに、俺みたいなのは?」
「――いた、かもしれません」
ダリアは一拍置いて言う。すぐに意味を悟り、誠二は口をつぐんだ。
「記録は、人が見聞きし、残すことができた事象の寄せ集めに過ぎません。すべてを漏らさず記せているわけではないのです」
「ですよねぇ……」
背もたれに身を預けると、張っていた肩の力がふっと抜けた。
「じゃ、結局そいつは何の力も持たない“雑魚”ってこと?」
「ちょっと、リリー!」
年長のシスターが鋭い視線を飛ばす。が、それさえもダリアの声ひとつで和らいだ。
「分からないことを、分からないからといって、すぐに結論づけてはいけません。彼については、まだ何も分かっていない。それは――どんな未来の可能性も、内に孕んでいるということですよ」
そのとき、パンをもぐもぐやっていたレーネが、ふいに顔を上げた。頬に粉をつけたまま、目を輝かせる。
「じゃあ、とっても強いかもしれないってこと?」
「そういうことです。未知数という言葉は、ゼロではなく“無限大”とも読める。だから、落ち込む必要も、不安に飲まれる必要もありません」
ダリアの穏やかな眼差しが、まっすぐ誠二に注がれる。隣でレーネがこくこく頷いたかと思うと、次の瞬間にはまたパンへ意識を持っていかれていた。
「……分からない、か」
胸の奥に、ずっと乾いていた井戸に水が流れ込むような感覚が広がる。熱い。じわじわと、忘れていた熱が戻ってくる。研究欲。知りたい、確かめたい、掘りたい――ここ一年、離れていたはずの自分が息を吹き返す。
(この感じ……本当に久しぶりだ。異世界に来たときでさえ、こんなに心が高鳴らなかったのに。――“謎”と言われた瞬間から、止まらない!)
「俺――自分について、調べてみます!」
椅子がきしむほど前のめりに、誠二は宣言した。シスターたちの視線が再び集まる。だが今度は、彼の瞳の熱に押されるように、誰も口を挟まなかった。
「……冒険者を勧めたのは正解だったようですね」
ダリアは子に向けるような優しい笑みを浮かべる。
「冒険者になれば、世界のあちこちを巡り、自分の足で見聞を重ねられます。あなたの内に眠る“未知”を、その目で解き明かしてきてください」
そのとき、テーブルの端から小さな声。
「じゃあ、セイジ、いなくなっちゃうの?」
レーネの表情には、隠しごとのない寂しさがまっすぐ出ていた。さっきまで無邪気な笑顔をばらまいていた顔が曇るのを見て、誠二はうろたえる。
「当分はここ止まりでしょ」
パンをかじりながら、けだるげにリリーが言う。
「世界に出るって言っても、金がなきゃどうしようもない。ある程度貯めるまでは、この国から動けないし」
「それも……そうだけど。ここに泊まってもいいんですか?」
「ひと月まで、ですね」
ダリアが指を一本立てる。
「長く留めると、他の冒険者にも同じお願いをされるでしょうから」
「ありがとうございます。本当に」
「その代わり――泊まっている間は、家事をしっかり手伝うこと。いいですね?」
「はい、もちろん!」
(何もしなくていいと言えば、きっと遠慮してしまうだろう――)そんな気遣いが、言葉の裏に透けて見えた。ありがたい。ありがたすぎて、胸が少し痛い。
「ってわけで、しばらくお世話になるよ、レーネ。教会の先輩として、いろいろ教えてくれ」
ぎこちないながらも笑顔を作ると、レーネの顔にたちまち光が戻った。
「セイジはしょうがないなぁ! いいよ、わたしが仕事たーくさん教えてあげる!」
「ただし、誠二さんの本業は冒険者。しつこくしないこと、いいですね、レーネ」
「うん!」
笑いが連鎖して、卓の空気がまた温まる。湯気と笑顔が混ざり、朝の光に金色のもやをかけた。
――そのとき、ダリアが軽く手を打った。
「ああ、しまった。大事なことを忘れていました。誠二さんの“部屋”をどうしましょう」
空気が、すん、と凍る。シスターたちの目が一斉にとがり、獲物を見つけた猫みたいに虹彩が細くなる。リリーは興味なさげにパンをちぎり、レーネは依然スープに夢中――その二つが、今この場の数少ない救いだった。
「さっきの部屋じゃ、だめですか?」
「あれは治療室です。緊急時に使うのと、常に清潔を保っておきたいので、常用の寝室にはしたくありません」
「じゃ、ダリアさんの部屋は?」
冷や汗と脂汗が交じってこめかみを滑る。突破口を探す誠二の声を、リリーがばっさり切った。
「いや、それは駄目っしょ。ダリアさんは神父様。礼を欠くにもほどがある」
(さっきから何なんだお前は!? 俺、嫌われることしたか!?)
心の中で叫んだところへ、さらなる爆弾が落ちる。
「それでは――リリーの部屋を、一緒に使ってください」
ダリアの一言で、部屋の動きが止まった。レーネもリリーも含めて、全員が石像みたいになる。最初に声を上げたのは、意外にもレーネだった。
「なんで!? セイジはわたしの後輩だよ! わたしと同じ部屋!!」
「レーネはノーラと同室でしょう。この中で一人部屋なのは、私かリリーだけ。最初は私の部屋も考えましたが――リリーがそう言うのなら、致し方ありません」
誠二とリリーの目が合う。ふたりして氷の柱みたいに固まって、ぎこちないロボットの動きで同時にダリアへ向き直った。
「いやいやダリアさん、さすがに無理! あたし女でシスター! こいつ男! 絶対、不貞行為されるって!」
「いやいや、しないから! 俺の初めては、初めてできる“最愛の彼女”兼“未来のお嫁さん”だから!」
「はあ? 何それ、きっしょ! お前絶対童貞だろ!」
「お嫁さん候補であれば私が……」
最年長のシスターがそっと参戦しかけ――。
ぱん、と大きな破裂音。いつもの穏やかな手拍子とは違う、静かで強い音圧。全員が反射的に口をつぐむ。
「リリー。ここは教会です。あまり口うるさくはしたくありませんが、最低限は慎みなさい」
「……いや、でも……だって」
リリーの肩がしゅんと落ち、声が小さくなっていく。誠二の胸にちくりと小さな罪悪感が芽生えた。
「あの、とはいえ、リリーの言ってることも分からなくはないです。俺も彼女も、年頃ですし」
「大丈夫ですよ。リリーも、誠二さんも――そのような人ではないと、分かります」
この人の自信はどこから来るのか。二人の頭の中によく似た疑問が浮かんだが、同時に理解もした。ここではダリアが“絶対”なのだ。
「ええっと……それじゃ、短い間だけど、よろしく……リリー」
「……ええ、構いませんことよ、セイジ」
互いに慣れない作り笑顔。空気が気まずくよじれる。そんな中でも、ダリアだけはいつも通りの笑顔だった。
「では、リリー。誠二さんを部屋へ案内してあげなさい。レーネとノーラは倉庫へ行って、最低限の装備を用意して部屋へ。残りは洗い物に取り掛かりましょう。――はい、作業開始」
その一声で、椅子の脚が一斉に床を擦る。あわただしく立ち上がり、皆がそれぞれの持ち場へ散っていく。
「時間も、あと少しで九時になります。最低限の防具は二人に任せて、あなたは部屋で待っていてください」
言い置いて、ダリアも洗い場へ回った。湯の張られた桶から、温かい湯気がふわりと立ちのぼる。
食卓には、誠二とリリーだけが残った。向かい合う。皿とカップの影が、二人分だけ間延びしている。
「とりあえず、部屋には案内するわ。ついて来て」
リリーはけだるそうに立ち上がると、振り返りもせず小食堂を出た。誠二は置いていかれまいと、慌てて後を追う。
廊下は朝の光がやわらかく流れ、古い石灰の白壁に反射して、床の樫に薄い金を走らせていた。遠くで井戸の滑車が軋み、風がハーブの束を揺らす。二人の足音だけが、磨かれた床を一定の間隔で打つ。会話はない。小食堂の温かさだけが、かすかに服に残っている。
沈黙を割ったのは、意外にも誠二のほうだった。
「その……ごめん」
「何がよ」
返ってきた声は、棘を丸めきれていない。
「いや、その、いろいろ。俺みたいな変な男と一緒なんて嫌だろうし。さっきは売り言葉に買い言葉で……どなっちゃったし」
「……すぐに謝るぐらいなら、キレないで。うざい」
リリーの足がぴたりと止まった。誠二はあやうく背中にぶつかりそうになり、慌ててブレーキをかける。空気が一瞬止まり、細い埃が光の中で静かに舞った。
リリーが振り返る。青い瞳が、さっきよりほんの少しだけ柔らかい。
「ここが部屋。入って右側は、あたしのエリアだから。入ったら――」
言いかけて、彼女は言葉を呑み、踵を返す。
「ど、どこ行くの?」
「お花摘み。……ついて来る気?」
ぴしゃり。言外の拒絶が、扉みたいにぱたんと閉まる。そのくせ、数歩離れたところで立ち止まり、振り向かずに言い足した。
「あたしは謝んないから。絶対」
そのまま、軽い足音が角を曲がって消える。廊下に残された誠二は、見知らぬ扉の前で一人、気まずさの波に浚われた。
「……本当、俺、なんかやっちゃいました?」
ぽつりと落ちた独り言が、白い壁に小さく跳ね返る。
「……これ、もっとカッコいいタイミングで言ってみたかったな。せっかくの異世界転移だってのに」
苦笑いをひとつ。取っ手に触れれば、古い金具がひんやりしている。遠くで、食器を洗う水音と、誰かの笑い声。扉の向こうでは、今日からの生活が待っている。
――その頃、小食堂の片付け場では、ダリアが赤髪のシスターに小声で話しかけられていた。
「ダリアさん……あれ、本当にいいんですか」
「ええ。誠二さんには申し訳ないけれど、せっかくの機会ですから」
ダリアはふっと目を閉じ、すぐに開く。皿の水を切る手は止めない。
「リリーはここへ来る前から、周りに壁を作る癖がある。その癖が、この機会に少しでも和らげばいいのですがね」
「でも、セイジ君がかわいそうですよ。お客さんみたいなものなのに」
「誠二さんだからこそ頼めるのです。彼には、良くも悪くも――壁を壊してしまう“無神経さ”がある気がするんです。言い方は悪いですがね」
赤髪のシスターは肩をすくめ、口元だけで笑う。
「ダリアさんって……やっぱり策士ですよね」
「神父ですから。みんなの笑顔のために、いつだって頭は働いていますよ」
金属の盆に水滴が散り、朝の光が細かく砕けた。
何も持たず、何も知らず、それでも前へ進もうと決意した誠二。
未知とは恐怖であり、同時に希望でもある。
“分からない”という言葉が、彼を再び動かし始めた。




