第5話:朝の香りは、バターとイースト
第5話は、教会併設の小さな修道院で迎える“朝”。
光・匂い・音で舞台の空気をたっぷり描きつつ、最年少シスターのレーネがドタバタ初登場。
ダリアに案内され食堂へ――席に着いたところで、二人の“お話”が始まります。
扉を押し開くと、朝の光が、息を呑むほどやわらかく廊下に流れ込んだ。高い窓から差す光は、細い埃の粒を金色の糸に見せ、壁に掛かった聖句の額を一枚ずつ撫でていく。壁は厚い石積みで、石灰で白く塗られている。長く磨かれた樫の床はわずかに反り、歩くたび、足裏へ乾いた木の温もりを押し返してきた。遠くで小鐘が一度だけ鳴り、静けさはすぐさま、焼きたてのパンの香りと溶け合う。バターとイースト、そして庭から摘んだのだろう香草の匂いが、腹の底をやさしく揺さぶった。
燭台は鍛鉄の黒。昨夜の蝋が白く筋を引き、雫の形で固まっている。額の布は日に焼け、縁はほつれ、それでも毎朝、誰かが丁寧に拭っているのだろう、埃は見当たらない。香が焚かれた名残の気配――古い木と蜜蝋と灰――が、寺にも似た静けさをこの建物に与えていた。
「こちらです」
先を歩くダリアが、光を背に振り返る。黒を基調とした法衣は簡素だが清潔で、胸元の十字がささやかに光った。その笑みは、朝の光よりさらに穏やかで、建物そのものが彼の呼吸に合わせているかのようだ。
「その……気になってたんですけど、ここってどこなんですか?」
「すごい広いですし、ダリアさんの家って訳じゃありませんよね?」
「ええ、ここは教会――正確には、小さな修道院を併設した教会です。巡礼の方や、施療を要する方を泊める離れがありましてね」
言われてみれば、廊下の片側には客間へ続く木扉が等間隔に並び、反対側のアーチ越しには小さな中庭が覗いた。露を含んだハーブの畝――タイム、セージ、ローズマリーのような植物――の間を、若いシスターが籠を手に行き来している。井戸の滑車が軋み、汲み上げた水が桶に当たって涼しい音を立てた。
そのときだった。廊下の奥から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。音は躊躇いも合図もなく一直線にこちらへ――。
「ぐあっ!」
視界いっぱいに小さな影。次の瞬間、誠二は見事に床へと仰向けに倒され、腰ほどの背丈の誰かを全身で受け止めていた。柔らかいのに容赦のない衝撃。床板がきしみ、肺から空気が抜ける。
「よかったあ! この人、死んでなかったんだ!!」
「こら、レーネ。そういう言葉は軽々しく使わないのですよ」
「いや……ダリアさん、問題はそこじゃないっす……!」
腹の上で跳ねる重み。見れば、修道服の小さな女の子――十歳ほどか。蜂蜜のようなブロンドは肩で切りそろえられ、丸い目が驚くほど大きい。男子校で青春を終えた誠二にとって、数年ぶりの女性との遭遇がこれというのは、なかなかに心臓に悪い。
「あれ、お兄さんなんで顔まっ赤なの? お熱?」
「えっと……とりあえず、どいてもらえないかな。俺、座布団じゃないんだけど」
「ええ……だめ?」
「かわいく言っても、だめです!!」
小さな顔がさらに近づく。息がかかる距離。誠二は必死に理性を保った。体格のわりに、この重みは地味に効くのだ。
「それじゃあ抱っこして!!」
「レーネ。セイジさんはお疲れです。遊んでもらうなら、ご飯のあとにしましょう」
「はーい」
渋々という顔でレーネが降りる。誠二は上体を起こした――が、すぐ目の前にまたレーネの顔。
「うへあ!?」
勢い余って後頭部を床に打つ。軽く星が散った。
「あっはは! ダリアさん、この人おもしろい!」
(情けない……小さい子に遊ばれてる……くそ……でもちょっと悪くない!!)
「レーネちゃん、だっけ? あとでいくらでも遊ぶから、まずはご飯、食べさせてもらってもいいかな」
「えー? お兄さんが勝手に倒れたんじゃん」
「いやまあ、そうなんだけど……いきなり近づかれると」
「だってダリアさん、いつも言うもん! 転んだ人がいたら手を貸してあげなさいって!」
差し出された掌は、誠二の手の中にすっぽり収まってしまうほど小さい。触れた瞬間、子ども特有の温もりが伝わり、彼はできるだけ負担をかけないよう体重を分散させて立ち上がった。
「さ、行きましょう。皆、待っています」
「はーい!」
二人の背中を追って歩く。廊下の突き当たり、小さな扉の向こうから、湯気と話し声が漏れていた。
開いた先は、修道院の小食堂――いわゆる給仕部屋に隣接した小さな食堂。壁の片側に長椅子を備えた木の卓が二つ、六人も座ればいっぱいだ。奥には石造りの竈と大鍋用のフックが天井梁から下がっており、今まさに銅鍋がことことと香りを立てている。壁際の棚には陶器の皿と木の匙、錫のカップがきれいに積まれ、亜麻の布巾が淡く干し草の匂いを残していた。窓は厚手のガラスで波打ち、光が屈折してテーブルの白木に揺れる水紋を描く。低い窓枠には朝露を含んだハーブの束が挿してあり、風が通ると、ローリエとタイムのような香りがふっと通り抜けた。
「おはようございます」
おずおずと頭を下げると、動いていた手がいっせいに止まる。スープを掬う手も、パンを切る手も、布を広げる手も。ただ一人、食器を並べるシスターを除いて。
「あらあら、怪我はもう大丈夫なの?」
「どこか痛くない? ちゃんと食べられそう?」
三人のシスターが雪崩のように押し寄せ、誠二は溺れかける。
「皆さん、彼が困ってしまいます。まずは席を整えてから」
ダリアが軽く手を叩いただけで、潮が引くみたいに距離が戻った。
「あの……ご心配をおかけしました。おかげさまで、元気です」
「こちらはうちのシスターたちです。皆、昨日からずっと貴方のことを気にかけていましたよ」
「そ、そうでしたか。ありがとうございます、皆さん」
その瞬間、三人のシスターが輪をつくり、小声で囁きはじめる。耳をそっと澄ますと――。
「昨日は血だらけでわからなかったけど、なかなかいい顔立ちじゃない」
「一晩眠ったら、目の下のクマも消えたわね」
「ついてるわ、朝から縁起がいい!」
(……ダリアさんとくらべると、いきなり俗っぽい!)
ちらりと見やると、ダリアはいつもの微笑みのまま気づく気配もなく、レーネは会話の半分だけ拾っては理解を放棄している顔。しばらくして彼女たちはけろりと持ち場へ戻り、台の上に器が並びはじめた。
「教会の暮らしは、どうしても変化が乏しいでしょう。誠二さんは良い刺激なのです」
「迷惑じゃないなら、よかったですけど」
「むしろ、いつまでいてもいいのよー!」
鍋からスープを注いでいた快活なシスターが、妙に圧のある笑顔で親指を立てる。
「では、私は配膳を手伝ってきます。誠二さんは座って――」
「いえ、さすがに、何か手伝わせてください。これまで色々してもらいっぱなしで……」
ダリアが足元から視線をすべらせ、少し困った顔をした。誠二の膝は先ほどから微細に震え続け、盆を持てばスープは確実に床へ献げられる気配しかない。軽く唸って、何かに思い至ったように頷く。
「では、レーネの話し相手になっていただけますか。掃除と庭は得意ですが、料理に関わると――」
視線の先。レーネは口の端から小さな涎を垂らし、鍋を凝視していた。
(……食べ物が視界に入ると、思考が止まるタイプか)
「それと、レーネはこの中でいちばん年若く、同年代と話す機会がほとんどありません。どうか、少しだけ」
「わかりました。レーネ、お兄さんとお話ししよう」
「お話? いいよ! こっち座って!」
隅の椅子に挑むレーネは、体重をかけても動かせず、ぎぎ、と小動物みたいな声を上げた。誠二が代わりに持ち上げて、出口にいちばん近い席に置くと、レーネは満足げに隣へちょこん。促されるまま誠二も腰を下ろす。椅子は古く、木目が艶やかで、座ると低く軋んだ。
にぎやかな修道院の日常に触れて、セイジの心が少しほぐれる回でした。
この先はレーネとの会話と朝食を通じて、世界や教会の素顔がもう一段はっきりしていきます。
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