第35話:ここからがクエスト本番
ヴェンデッタが振り返り、また目が合った瞬間、誠二の身体からふっと緊張が抜けた。張り詰めていた糸が、ぷつりと切れてしまったみたいに。視界の端で揺れていた村の家並みも、夜の湿り気を含んだ風も、遠くの誰かの叫び声も――全部が急に遠のいていく。
がくりと膝が折れそうになる。その刹那。
彼女は一瞬で誠二の前まで移動し、倒れそうな彼をさっと抱き寄せた。小柄なはずの身体が、驚くほど確かな支えになる。よく見えなかったが、彼女の瞳が――ほんのわずか、潤んでいるようにも見えた。けれど誠二の視界は血と涙で滲み、確信できるほどの輪郭を結ばない。
そしてついに、視界が黒に染まった。
視覚が閉ざされた途端、代わりに他の感覚が、彼女の存在を強く捉え始める。外套の布擦れ、髪が頬を掠める柔らかさ、抱き留める腕の温度。ヴェンデッタの身体は小さいが、温かくて、柔らかくて――不思議なくらい、落ち着く。
そのせいか、足から力が抜け去り、誠二は完全に彼女へ寄りかかってしまった。肩へ顔を預けてしまう。そこから、やさしい甘い香りがした。森の木の蜜みたいな、焚き火の煙みたいな、彼女が「生きている」匂いだ。
「座れるかしら?」
問いかけに答えようとするが、上手く言葉を発せない。いや、呼吸をすることすらままならなかった。まるで身体が自分のものじゃない。陸に打ち上げられた魚みたいに、口をぱくぱくとさせることしかできない。
ヴェンデッタは横目でそんな様子を見て、察したのだろう。誠二の体をぎゅっと抱き寄せ、彼と一緒にしゃがみ込み、その場にそっと寝かせてくれた。土の冷たさが背に伝わる。鼻先には、踏み荒らされた草の匂いと、血の鉄臭さと、まだ消えきらない獣の生臭さが混ざっていた。ついさっきまで、ここは戦場だったのだ。
「……色々言いたいことはあるけど、お説教はあと」
きゅっと眉間に皺を寄せ、しかめっ面で見下ろしてくる。けれど、その厳しい視線は長く続かない。彼女は一度だけ目を伏せ、何かを堪えるみたいに息を整えた。
それから外套の中をゴソゴソと探り、細長いガラス瓶を取り出す。口はコルクのような栓で閉じられている。瓶の中では、青い液体がきらきらと光っていた。月明かりではない。液体そのものが、淡い魔力の光を抱いているようだった。
彼女は片手で瓶を持ち、口でコルクを引き抜いた。キュポっと小さな乾いた音がして、空気に一瞬だけ甘く苦い匂いが広がる。
「濃縮ポーションよ。回復ポーションを煮詰めたもの。味は酷いけど我慢しなさい」
そう言いながら、誠二の顎を片手でくいっと上げる。わずかに開いた口元へ飲み口を近づけ、ゆっくりと瓶を傾けた。
とろん、と。液体が重みを持って傾き、少しずつ誠二の口腔内へ流れ込んでくる。
舌が反射的に逃げようとするのを、なんとか抑えて嚥下する。――酷い味、かと思ったが、存外そうでもない。日本で言うところの栄養ドリンクに近い。薬っぽさと甘さが、喉の奥で妙に混ざる。異世界の人間には、この「薬の甘さ」が受け付けないのかもしれない。
「ゴホッ!」
気管に入りそうになり、咳き込んでしまう。だがヴェンデッタはすぐに手で口元を覆い、ポーションがこぼれないように、やさしく、けれど逃がさない強さで押さえた。
「苦しいと思うけど、無理にでも飲んで。じゃなきゃあなた……死んじゃう」
若干震える声。その震えが、誠二の耳に痛いほど刺さる。
苦しい。だが、それでも――彼女の声に背中を押され、誠二は残りを何とか飲み干した。
全てを嚥下した、その瞬間。
体中から痛みが抜けていくような、不思議な感覚に包まれた。すうっと冷えていくのに、寒くはない。全身に薄荷を塗ったみたいに、熱と痛みだけが消えていく。傷口が塞がる感覚はない。けれど、確かに「戻っていく」。骨も、筋肉も、血も――生きるための形に、正しく戻されていく。
「――はっ!?」
誠二は勢いよく上体を起こした。指先を握り、腕を伸ばし、身体の節々を確認する。どこにも傷跡がない。痛みもない。息が、吸える。肺がちゃんと膨らむ。
そして声がした方をぱっと見る。
そこにいたのは、もちろん地に両膝を着いたヴェンデッタだった。だが、いつもと違う。眉が下がり、目元が潤んでいる。頬も――ほんの少しだけ、震えているように見えた。
目が合うと、お互いが完全に固まった。数秒の沈黙。夜の風が、外套の裾を揺らす音だけがする。
だが数秒後、彼女の眉は逆に吊り上がり、目元が鋭くなる。感情を押し込めるみたいに、いつもの“ヴェンデッタ”の顔に戻っていく。
一瞬で状況を理解し、なだめようと手を伸ばした誠二だったが、その手はヴェンデッタにぎゅっと、優しく握られてしまった。握る力が、ほんの少し強い。放したくないとでも言うみたいに。
彼女はいったん深く深呼吸をすると、ぱっと目を開き、いつも通りの優しい目で誠二を見据えた。
「よく頑張ったわね。貴方のおかげで、犠牲者はゼロよ。ありがとう、セイジ」
優しい笑みを浮かべながら、そう告げる。言葉は柔らかいのに、胸の奥が熱くなる。褒められ慣れていないことも理由の一つだ。けれど彼女の「ありがとう」は、命の重さを伴っていた。
「あたぼうよ。やると決めたらやる。それが田中誠二の生きざまだ」
若干の作り笑いも混じっている。格好をつけないと、今にも胸が壊れそうだったから。だがそれでも、誠二は自信を持って笑顔を向けられた。にっとした笑みには、確かに迷いがない。
それを見て、ヴェンデッタは呆れたように――けれどどこか安堵したように、ふっと笑い、掴んだ手をゆっくり放した。
「そうだ、フレッドとシェーナは? あの二人は無事なのか」
「ええ、二人とも無事よ。でも流石に初めてのクエストで、あの量の魔物の群れを見たら……精神的なダメージは大きそうだけどね」
「そうか……でも、無事なんだったら何よりだよ」
心残りだった二人の安否を確かめ、ようやく本当の意味で肩の荷が下りた。ふっと息を吐くだけで、世界が少し軽くなる。夜の冷気が、今はちゃんと“外の空気”として肌に触れている。
「こう言うのは……その……とても嫌な女かもしれないけど。あの二人に腹は立たないの?」
彼女は眉をひそめ、小声で聞いてくる。怒りというより、試すような、確かめるような声音だった。誠二の答えひとつで、何かが決まってしまいそうな。
「いや、全然」
返答は本当に一瞬だった。脊髄反射みたいに、心の内がそのまま出た。
ヴェンデッタは意外そうに目を丸くする。
「昨日の俺もすげえ怖かったからさ。でも昨日の俺にはヴェンがいてくれて、声をかけてくれた……それで動けたから」
「……そう」
ヴェンデッタの頬が、ほんのり赤くなる。だが彼女はそれを隠すように、そして自分に活を入れるように、頬をぱちんと両手で叩いた。手を離すと、頬は赤らんだまま、目元だけがきりっと引き締まっている。
そのまま彼女は立ち上がり、誠二へ手を伸ばした。
「さ。なにはともあれ、村長に会いに行くわよ。あの二人は村の人に案内させて先に行かせたから」
差し伸べられた手を、誠二はぎゅっと掴む。掌から伝わる体温が、まだ温い。彼女の手を支えに、誠二は足へ力を込め、立ち上がった。
「了解。ここからがクエスト本番ってわけだな」
「ええ、そうよ。張り切っていくわよ」
「おう!!」
誠二の声を合図に、二人は村の中でも少し高い位置に建てられた大きな建物へ向かって歩き出した。
家々の窓からは橙色の灯りが漏れ、怯えた瞳が薄いカーテンの隙間からこちらを窺っている。踏みしめる土は硬く、ところどころに魔物の爪痕が残る。けれど、その道の先には――村の中心を示すように、ひときわ大きな屋根が闇の中に輪郭を浮かべている。
二人は横並びになり、硬い土を確かに踏みしめながら、静かに前へ進んでいった。




