第32話:一人は寂しいから
ボックス村に到着した一行。
ぐっすり眠っていたヴェンデッタがようやく目を覚まし、夜の御者台で誠二とちょっとだけ距離が縮まるお話です。
ボックス村へとたどり着いた誠二一行を、最初に出迎えたのは、土と藁の匂いを含んだひんやりとした夕風だった。村の周囲には小さな畑と放牧地が広がり、刈り取られた草の切り株が、暮れかけた空の下で斜めの影を落としている。木柵に囲まれた素朴な家々のあいだからは、ところどころ橙色の灯りが漏れ、煙突からは細い煙がすうっと立ち上っていた。
村への道中、ずっと起きていた誠二とフレッド、そして馬車が止まった衝撃で目を覚ましたシェーナの三人は、ボックス村の村民たちの指示のもと、皆で積み荷を空き家へと運び出していた。
木箱が降ろされるたび、馬車の荷台はぎしりと鳴り、縄のこすれる音や、村人たちの短い掛け声が、次第に近づいてくる夜の静けさに吸い込まれていく。
やがて時が経ち、陽もほとんど落ちて、あたりが群青色の闇に塗りつぶされるころには、馬車の荷台から積み荷はほとんど姿を消していた。残っているのは、すうすうと寝息を立てるヴェンデッタと、彼女が枕代わりにしていた大きな鞄だけだ。
そして、ようやく――といったふうに、ピクリとヴェンデッタの長いまつ毛が揺れた。
閉じられていた瞼がゆっくりと少しだけ開き、一度また重たげに閉じる。そして今度は、眠気を振り払うように目にぎゅっと力を入れてから、ぱちりともう一度、少し早く目を開いた。
視界に飛び込んできたのは、荷台の天井。
暗がりに沈んだ木の節が、ぼやけた影の模様のように見える。もう辺りがすっかり暗くなっているせいで、天井の細かな傷や、昼間は気にも留めなかった木目すら、はっきりとは見えなかった。
「……寝すぎた。皆は?」
ぽつりとひとりごちて、上半身をゆったりと持ち上げる。古い木の床が、きし、と小さく鳴った。
半分まだ夢の中にいるような頭であたりを見回すが、そこには誰の姿もない。荷台を包むのは、耳が痛くなるほどの静寂だけだった。村のほうから聞こえていたはずの人の声も、今は遠く、風にかき消されている。
シン――とした空気が耳の奥に刺さるようで、キーンとした耳鳴りが一瞬だけ響いた気がした。
「なに……これ?」
ようやくそこで、彼女は自分の体に違和感を覚えた。
膝から足先まで、柔らかな重みがかぶさっている。視線を落とすと、自分の身体には一枚の毛布が掛けられていた。
彼女の記憶によれば、眠る前に毛布を使った覚えはない。気づいたころにはもう夢の中だったはずだ。
ヴェンデッタは自分に掛けられた毛布の端をつまみ、胸の内に丸め込むように手繰り寄せると、それをぎゅっと抱きしめた。
どうしてだろうか、自分の体温のはずなのに、妙に暖かく、そこはかとなく人の気配が残っているように感じる。鼻先をくすぐるほのかな薬草の香りが、なぜだかくすぐったい。
目を閉じて、ひとつ深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
腕の中に毛布を抱えたまま、彼女は荷台の壁を支えにして、ゆっくりと立ち上がった。
「置いてかれちゃったみたいね。私も急がなくちゃ」
枕代わりに使っていた鞄を手に持ち、勢いをつけてひょいと背中に背負う。金具が小さく鳴り、重みが肩に心地よく収まる。
右腕には毛布、左肩には大きな鞄の重み。ギシギシと木の床を踏みしめながら、ヴェンデッタは御者台と荷台とを分けていた厚いカーテンを手で押し分けた。
「ふぇ!?」
その瞬間、驚きのあまり、ヴェンデッタの口から間の抜けた声が飛び出した。
御者台へと出てみると、夜風が頬を撫で、冷たい空気が一気に肌を刺す。空はすでに群青を通り越して、墨を流したような濃い紺色に沈みつつあった。遠くの森の輪郭だけが、空の色と地面の境目を、かろうじて線のように縁取っている。
その御者台の上で、誠二はあぐらをかいたまま、こくこくと舟をこいでいた。前髪が額にかかり、息をするたびにわずかに揺れる。その横顔には、疲れと、どこか間抜けなほどの安心しきった表情が浮かんでいる。
彼女の声で目を覚ましたのか、誠二はゆっくりと瞬きをしてから後ろを振り返った。視線がヴェンデッタの顔を捉えた瞬間、彼はにこりと微笑む。
「おはよ。よく眠れたか?」
「お、おはよう。そんなところでなにやってるのよ……」
呆れ半分、驚き半分で、ヴェンデッタは言葉をこぼした。
何を隠そう、この時期のアルカディアの夜はとても冷える。村の家々から漏れる灯りの手前で、空気は一段と冷たく、吐く息は白くなっていた。
そんな中、彼は鎧も脱ぎ捨て、シャツとズボン一枚で風に当たりながらうたた寝をしていたのだ。常識的に考えれば、正気の沙汰ではない。
「いやあ、ヴェンがなかなか起きないからさ」
「別にそれなら起こしてくれたら……」
「だって……なんか、すっごい幸せそうな顔で寝てたからさ。起こすのもどうかと思って」
えへへ、と頭をぽりぽりとかきながらごまかすように笑う誠二。その照れ隠しのような仕草を見て、ヴェンデッタの顔がほんのりと朱を差し、恥ずかしそうに視線を逸らした。
「それなら、ほっといてくれたら……」
「そりゃ……なんていうかさ……」
今度は誠二のほうも、気恥ずかしさからか、ヴェンデッタから目線を逸らす。視線の行き場をなくして、空を仰いでみても、そこには星がぽつぽつと瞬き始めているだけだ。
「なによ……」
「いや……寂しいじゃん。起きて……誰もいなかったら」
(ああ、何言ってんだよ、こんなガキみてえなこと! かっこわりい……)
胸の内で自分にツッコミを入れながらも、誠二はどこか苦笑いを浮かべてそう言った。
「……そう。ありがとう」
誠二が恥ずかしそうに顔を赤らめ、目を逸らしているのとは対照的に、ヴェンデッタは、恥ずかしそうではあるが、どこか嬉しそうに微笑みながら小さくつぶやく。その瞳には、ほの暗い村はずれの灯りが、小さく反射していた。
「……どういたしまして」
風が一瞬止み、二人のあいだに落ちた静寂の中で、ようやく視線が重なる。
「あんがい寂しんぼうなんだな、ヴェンって」
「んな!? 違うわよ。冒険者は一人でいると危ないから、だから……」
気恥ずかしさから、少し茶化して言った誠二のひと言。
その言葉に、ヴェンデッタも最初は反論しようと語気を荒げたが、言葉を紡ぐうちに、その勢いは少しずつ、弱々しくなっていった。
「いえ……そうね。一人は寂しい。だから改めて……待っててくれてありがとう」
「え!? いや……うん……構わねえよ」
反論を期待していた誠二に返ってきたのは、意外にも素直な感謝の言葉だった。思わぬ隙を突かれたように、声が裏返る。
動揺し、驚きつつも、なんとか平常心を装おうとするが、頬の熱だけはごまかせない。
「……さ。二人はどこに行ったの。村長さんにはご挨拶はした?」
「い、いや……まだだけど。二人は村の人に案内された空き家にいると思う」
「そう。それじゃあ案内して。合流した後、村長さんへの挨拶と、この村の現状を教えてもらいましょう」
ヴェンデッタはそう言うと、御者台からひょいと飛び降りた。
金色の髪が月明かりを反射し、さらりと宙を舞ってきらりと光る。地面には、日中に締め固められた土と砂利が混ざり、踏みしめるたびに、ざり、と小さな音を立てた。
すたっと軽やかに地面に着地すると、大きな鞄が彼女の背中でゆさっと揺れる。
誠二もそんな彼女を追いかけるように、急いで御者台から飛び降りる――が、ずっとあぐらをかいていたせいで足がしびれていたのか、バランスを崩して地面にぐしゃっと倒れ込んでしまった。
「ちょっと!? 大丈夫?」
「ってて。いやあ、かっこつけられねえもんだな。あはは」
誠二が顔を上げると、目の前にはヴェンデッタが立っていた。
冷たい夜気の中、その手だけが、かすかに温もりを帯びて差し出される。
「立てる?」
「……ありがと」
誠二は彼女の手を取る。
その瞬間、思っていたよりもしっかりとした力で、ひょいと引っ張り上げられ、体が軽く浮いた感覚のあと、そのまま難なく立ち上がることができた。
彼女の腕の力は、華奢な見た目からは想像できないほど強く感じられた。
誠二を立ち上がらせると、ヴェンデッタは踵を返し、夜の村へと歩き出す。
土の道の先では、いくつかの家から、温かな灯りと人々のざわめきが漏れていた。
「ちょっと待てって。どの家か分からないだろ!」
誠二も彼女に置いていかれまいと、慌ててその背中を追いかける。二人の足音が、静まりかけたボックス村の夜道に、軽く響いた。
そして――
彼らは並んで歩きながら、荷物を運び込んだばかりの空き家を目指していくのだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次回は、合流したパーティメンバーと共に村長へ挨拶し、ボックス村の「現状」と「異変」が少しずつ見えてきます。




